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(7)宝町キャンパスの整備(その1)

ドキュメント内 施設の整備施設の整備 (ページ 96-109)

宝町キャンパスには、医学部、同附属病院、薬学部及びがん研究所(元の結核研究所)

が置かれている(現在は、このほか新たに時代の要請に応えて設けられたアイソトープ総 合センターと遺伝子実験施設も所在している。)が、これらの施設は、医学部については 1912年3月に竣工した金沢医学専門学校の校舎を、また附属病院については金沢医学専 門学校の臨床教育部門として1901(明治34)〜1905年8月にかけて新築された石川県立 金沢病院の諸施設(金沢医学専門学校が金沢医科大学になる前年の1922(大正11)年3 月28日に石川県から文部省へ移管された。)を金沢医科大学を経てそれぞれ引き継いだも ので、1949(昭和24)年に新制金沢大学となったときには、建築してからおよそ4、50 年を経ており、その老朽化とともに施設そのものが前近代的なものとなっており、その整 備が早急に望まれていた。

薬学部の整備─火災事故を乗り越えて

薬学部は、金沢医科大学附属薬学専門部を母体として、新制大学薬学部となったもので あるが、当初、薬学部では、金沢城内の旧軍時代の馬場付近(現在の石川県体育館)約

図10−11 施設整備完了後の工学部キャンパス配置図

5,000坪の敷地で校舎などを整備することが計画されたが、文部省の方針もあってこの計 画が立ち消えになったことは前述のとおりである。

1956年度に抗生物質学講座が新たに増設されたことなどから、施設はますます狭隘に なり、加えて建物の老朽化もあって早急に施設整備の必要に迫られていた。このため将来 の講座増(9講座を12講座に拡張)を予定して鉄筋コンクリート4階建3,365坪の建物整 備が計画され、概算要求を行い文部省と折衝することになっていた。この整備計画の目新 しい点は、従来の研究体制によれば各講座ごとに研究室を設け、その講座に関係する研究 を行うというものであったが、これでは薬学の総合的研究が果たせないばかりか大きな進 歩も期待できないとして、各講座に所属する研究室に加えて薬学部全体が一体となって総 合研究を行う一般研究室を設け各教室員が共同研究に当たろうとする斬新なもので、新生 薬学部の意気込みが感じられるものであった。

校舎の近代化に当たり、今まで考えられなかったようなユニークな研究体制を取り入れ た施設の整備は順調に進むかに見えたが、1957(昭和32)年5月5日未明に発生した薬 学部1号館(木造2階建)の火災で短時間にその主要部を焼失したため、その再建対策に 忙殺され近代化計画は大きくつまずくことになった。

薬学部校舎の再建は、消防署などによる出火原因の調査が終った6月から、薬学部内に は「復興実行委員会」が、また、火災後の5月10日に開催された第79回評議会において、

学長、各部局長、教養部長、薬学部教授1〜2名、事務局長、学生部長で構成する「薬学 部復興委員会」がそれぞれ設置されることになり、復興に向けて全学が一つになって動き 出した。また、学外においても金沢大学薬学部復興期成同盟会の発会式が益谷秀次衆議院 議長(石川県選出国会議員)、石川県知事、北陸財務局長、石川県銀行協会長、同医師会長、

同薬剤師協会長、同教育長、金沢市教育長、金沢大学薬学部振興会理事、石川県議ら関係 者多数の出席を得て6月12日に開かれ、益谷衆議院議長を復興期成同盟会長(副会長には 石川県知事、金沢市長、金薬同窓会長)に決め、薬学部復興支援の第一歩を踏み出した。

さらには、同年8月24日に薬学部の同窓会全国大会と校舎復興促進大会が開かれ、全国の 薬剤界で活躍している金沢薬専以来の同窓生1,800人余の協力を得ることになり、同窓会 各支部の結束を固めて復興資金の募金に応ずることになった。

薬学部の復興計画は、文部省令による校舎建築の基準面積約1,700坪余を5カ年計画で 鉄筋コンクリート4階建の校舎に一新し、施設の近代化を図ろうとするものであった。し かし、失火事件に対する文部省の姿勢は、非常に厳しく当時の薬学部長及び事務長が文部 省へ陳謝に行った際「罰として2カ年は建物を建てない。しかし、再建に当たっていかに 地元が力を入れるか、その熱意次第によって復興してきたのが慣例である。」(『金沢大学 50年史部局編』第9章)と言われたこともあって、いかにして地元などの支援、即ちどれ だけの寄付が得られるかということが大きな問題となった。

そこで、地元の熱意を示すために薬学部の教職員も本俸の10%を寄付するほか、薬学部 の学生、同窓会で500万円を、薬剤界で500万円の寄付を依頼するとともに、2年間で石

ある想い出 元金沢大学薬学部事務長 高畠参一郎

学園祝歌 文部省に出頭して認可書を受く

よき日とは今日のことかや学園は 天かけるごとく声をあげたり よろこびは涙となりぬうれしやな 今日学園はうまれましけり くるしみて生まれしほどに学園は 美しくあれ大きくぞあれ

この三首は、北陸大学誕生の喜びを詠んだのであるが、ある意味では金沢大学薬学部が 独立学部として誕生したことにも相通ずるものである。

昭和46年ごろから金沢大学を停年退官した三浦孝次元薬学部長を柱に、金沢に私立薬科 大学設置の動きがあり、三浦先生はいろいろと初代の金大薬学部長鵜飼貞二先生に相談さ れていた。私が北陸大学の創設に携わったのは、創設準備に当たり「薬学のことは高畠に 聞いたらよい。」という鵜飼先生の一言であった。この言葉が出たワケには、次のような裏 話があったからではないかと思っている。

新制金沢大学の創設に際し、旧金沢医大附属薬学専門部主事(今の薬学部長)の任にあ った鵜飼先生は、その準備委員として薬専を独立した薬学部として発足させることを考え ておられた。当時の薬専は旧帝大系を中心に医学部の一学科として発足する動きが強く、

他の薬専もこれに追随しようとしていた。そこで鵜飼先生は、医学の一分野とみられてい た薬学を一つの教育、研究分野として独立させなければ、将来日本の薬学にとって一大飛 躍は期待できない、として、GHQ、文部省、旧帝大や各薬専に薬学部独立を強く勧めた。

そのころ私は、薬専の事務主任(今でいう事務長)であったが、鵜飼先生の指示により千 葉、熊本、長崎、徳島などの薬専へ赴き、鵜飼先生の趣旨を説明して薬学部の独立に向け た運動と要請に歩いた。千葉薬専では主事の先生と千葉の駅前に並んだ飲み屋で「独立に 是非参加してください。関係方面へもよろしく。」とお願いしたことや、また、ある薬専で は、薬学系以外の先生が目を光らせており金沢から来たことが知れると困るので、薬学部 の独立について校舎の陰でいろいろと話し込んだことなどが強く印象に残っている(大学 発足後やや遅れて薬学部に独立)。今日の薬学部の隆盛を見るにつけ、先生の高い識見と先 見の明によるものと感銘を深くするのである。

このように独立学部としてスタートした新制金沢大学薬学部は順調な歩みを進めていた が、永久に忘れることができない「晴天の霹靂」ともいうべき一大事件が起こった。昭和 32年5月5日早朝の火災である。第一報を受けた瞬間、私は鳥肌が立ったかと思うと全身 から汗が吹き出した。まず、頭をよぎったのは、焼失した建物や研究機器の復旧も至難だ が、人命はもちろん長年の研究成果や営々として集められた二度と手に入らないような資 料はどうなったのか、数字にはできない大きな痛手だということだった。

とりあえず事務局や教授会などでこれからの授業などの臨機の措置を講じ、三浦学部長 などに同道して文部省へ陳謝と報告に出かけた。事務次官に陳謝し、善後策などを説明し

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想い出の記 

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たところ、次官が開口一番「授業への対応はどうなっていますか。」と質問された。「講義 はもう支障なくやっています。」と答えると「あぁ、それは良かった。」と言われたが、こ れは復興する立場の文部省、そして大学としても授業が第一であるから至極当然の質問で あったと思う。(余談であるが、当時薬学部には講義室がなく医学部のものを使っていた。)

また、文部省から言われたのは、復旧について大蔵省と折衝する際には、地元などの熱意 と協力、すなわち寄付があれば非常に有利に働くであろうということであった。

このため、学部内の復興委員会、各部局長による薬学部復興委員会、益谷秀次衆議院議 長、知事、市長、同窓会長などによる薬学部校舎復興期成同盟会がそれぞれ結成され、薬 学部校舎の復旧に向けて一丸となって動き出した。特に金沢の薬業界にある同窓生たちは 自分の家が焼けたように復旧に協力された。その甲斐あって火災の翌年9月1日には復旧 第1期工事の起工式が行われ、昭和35年3月に完成するという異例の速さであった。ただ、

この陰には工事費のうち1千万円を地元や同窓会などの寄付金で負担しなければらないと いうことがあった。

そこで、製薬業界へも寄付を依頼するため、戸田学長にご足労願い私がお供をして東京、

大阪の製薬会社を訪問することになった。この時、私は大失敗をしたが、幸いにも事なき を得たというものである。このような場合には、それが誰であれきちんと趣意書を持って お願いに伺うという礼儀を忘れていたことである。

それは、翌日会社を訪問するため、学長の宿泊先で出迎えの時間を伺ったときである。

学長から「高畠君、寄付をお願いする趣意書を持ってきたのか。それがないとダメだよ。」

と言われた。それまで忙しさに取り紛れて、戸田先生に来ていただき、私は案内して後に ついて行けばよい、ぐらいの軽い気持ちでいた。

翌日のことだから、金沢へ電話して送って貰うこともできない。私は取り急ぎ本郷寮

(国立大学の関係者が東京で宿泊していたところ)に帰って原稿を作り、既に夕方であった が近くの東大赤門前にあった印刷屋へ飛び込み「遅い時間に来て申し訳ないが明朝8時頃 までに作って欲しい。何とかお願いします。」と頼み込んだところ、いかにも職人風の主人 は、じっと私の顔を見つめて少し考えてから「分かりました。封筒も必要でしょう。一緒 に作りますよ。」と二つ返事で引き受けてくれた。翌朝この主人は「昨夜の思い詰めたあな たの顔を見たら断れなかった。」と話してくれた。

当日、車中で○○製薬株式会社社長殿と宛名を書き、訪問先の玄関へ着くころに「学長 よろしくお願いします。」とお渡しすることができ、訪問先の会社では社長をはじめ重役た ちのお出迎えをいただいた。戸田学長はそんな名望の高い先生であった。

何よりも、活字を一つ一つ拾って趣意書を作ってくれた、あのご主人の温情は終生忘れ ることができない。何事も安易に考えず真摯に取り組む姿勢が大切であることを身をもっ て感じた次第である。

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