金沢刑務所の移転─薬学部の跡地譲渡希望
1968(昭和43)年4月、前薬学部長の任期満了により新しく薬学部長に就任した荒田 義雄薬学部教授が就任挨拶のため徳田與吉郎金沢市長を訪れたとき、徳田市長から金沢刑 務所の移転話しがあり、薬学部長はこの跡地を薬学部へ譲渡して貰らえないか打診したと ころ、徳田市長は金沢大学が希望するのであれば譲渡してもよいという返事であった。
徳田市長と荒田学部長は、同じ町内のいわゆる隣組で、また先代からも交際があったこ とから、日ごろ懇意にしており気軽に話ができる間柄であった。
徳田市長によれば、金沢刑務所は1907(明治40)年に建てられたもので、老朽化とと もに施設も狭隘なことから金沢市内の適当な場所へ移転したいという希望があり、そのた め金沢市が郊外に敷地を準備することになっているので、移転が実現すれば交換条件とし てその跡地を金沢市が入手し適宜処理することになるが、金沢刑務所の施設が国有財産と いうこともあって北陸財務局が間に入るのでスムーズに事が運ぶかどうか難しいかもしれ ない、という話しもあったという。そこで、荒田学部長は直ちに中川学長と事務局長へこ のことを報告し、薬学部は刑務所跡地へ全面移転したい、という意向を申入れた。
これに先立ち、1967年ごろ金沢大学では狭隘な宝町地区の拡張を計画していたことか ら、隣接地の金沢刑務所が移転することになったのを機に、北陸財務局長へ同年9月1日 付で「金沢大学宝町地区では、近年、医学部、薬学部の学科増、学生増に伴う施設の拡張、
さらには医学部附属病院、がん研究所などの老朽化した建物の改築などのため、宝町地区 にある運動場及び薬草園を校舎の建設用地に充当せざるを得ない状況にあるので、金沢刑 務所が移転したときには、その跡地の一部を、宝町地区の4部局共通の運動場用地として 約20,000m2、薬草園の用地として約8,800m2、合計28,800m2を金沢大学へ所管換願い たい。」とする要請を行ったが諸般の事情で実現しなかったという経緯がある。
その後、徳田市長から荒田学部長へ金沢大学が刑務所跡地の取得を希望するようであれ ば早く正式な意思表示をするようにとの連絡を受け、同学部長から事務局へこの旨を伝え た。事務局も積極的に動いて、刑務所跡地の全部を金沢大学に譲渡するよう折衝したとこ ろ、取得の可能性が出てきた。
金沢美大の移転新築─刑務所跡地
金沢市の1968年度第1回定例議会において徳田市長は刑務所跡地に関して「刑務所の 跡地には美大をもっていくことにしている。現在の美大敷地は8千坪だが、刑務所跡地は 2万数千坪である。我々は大体1万坪あれば良いと考えている。」とする趣旨の発言がなさ れている。(『金沢美術工芸大学50年史資料編』)
金沢刑務所の移転は、1966(昭和41)年秋から金沢市と石川県が法務省へ陳情してい たもので、法務省でも現在の金沢刑務所(金沢市小立野5丁目に所在。敷地78,505m2、 建物延べ18,268m2)は1907(明治40)年に建設されたもので、老朽化がひどく、施設 も旧式なことから現在地で改築する方針を決めていたが、金沢市ではその周辺に金沢大学 医学部などのほか公立の高等学校などがあり、文教地区になってきている現状から他地区 への移転を要望し、また金沢刑務所も施設の拡張計画もあったことから、県、市の要請を 入れて郊外への移転を決めた。金沢刑務所の移転候補地は、金沢市が若松町、田上町、辰 巳町、大桑町、四十万町など6カ所を推薦し、法務省では市街地に近く鈴見団地から田上 町へ抜ける都市計画街路淺川線の新設計画のある国立療養所金沢若松園の後ろの若松、田
上町の両町にまたがる卯辰山の南斜面92,000m2に移転する方針を決定した。この決定は、
1967年7月26日に法務省から金沢市へ連絡があり、この連絡を受けた金沢市では、ただ ちに市議会の総合開発委員会を開いて地元との敷地買収折衝に入ることの了承を得て、移 転用地の買収を秋までに終え1968年度から2カ年計画で刑務所の建設にかかることにな った。この移転は、金沢市が新しい敷地(移転地)を造成し、新刑務所の庁舎を建築し現 在の刑務所敷地、建物と交換するいわゆる「建築交換方式」によるもので、1969年1月 に現在の刑務所用地と移転地の交換評価を終え、同年3月31日に国と金沢市で交換契約が 締結された。敷地の造成は、1968年9月に終え、新庁舎建設準備に着手し1969年6月か ら新刑務所の建設が着工され、1970年10月に完成した。
新刑務所の竣工に伴い、金沢市は金沢美術工芸大学(以下「金沢美大」という。)の用地 として刑務所跡地を1970(昭和45)年12月10日に取得したが、1969年3月31日に国と 金沢市との間で交換契約が締結された際、この譲渡財産(刑務所跡地など)の用途は「金 沢美術工芸大学の建設」に充てることが指定されており、その期間は1972年11月1日か ら5年間は指定された用途に供するという特約が付された。なお、金沢市は、国が金沢市 へ譲渡した78,505.54m2のうち金沢美大を46,350m2の敷地で計画することになった。
刑務所跡地一部取得への動き
金沢大学が刑務所跡地の一部を取得しようとする計画が具体的に動き出したのは1971
(昭和46)年になってからである。同年8月24日に金沢市役所企画課長が来学し、金沢大 学からかねて要請のあった刑務所跡地の譲渡について、現在金沢市では金沢大学へ譲渡す るよう意見を調整中なので、正式に公文書で申入れを行って貰いたいとの連絡があり、直 ちに、同年8月27日付の公文書をもって、学長から金沢市長へ「金沢大学宝町地区運動場 施設等の用地として刑務所跡地の一部を譲渡願いたい。」とする申入れを正式に行った。
この申入れの内容は、
① 必要面積
旧金沢刑務所跡地 78,505m2のうち約33,000m2
② 購入予定年度 昭和48年度
③ 利用計画
体 育 施 設 約23,000m2(運動場約16,000m2、テニスコート6面5,000m2、体育 館敷地2,000m2)
薬草園敷地 約3,000m2 標 本 園 約4,000m2
そ の 他 約3,000m2(道路約2,000m2、駐車場約1,000m2) 計 約33,000m2
④ 必要理由
金沢大学宝町地区は、敷地の面積138,000m2に対し建物の面積は102,000m2で、敷 地が狭隘なため運動施設並びに薬学部附属薬草園は皆無に等しく、教育研究上支障があ るため拡充整備を必要とする。
というものであった。
これに対し、金沢市長から、1971年11月19日付で「当該施設(刑務所跡地)は、昭和 52年10月31日まで(注:前述のとおり昭和47年11月1日から5年間の用途指定の特約が 付いている。)用途が指定されており、この用途指定が解除になれば約8,000坪程度の譲渡 が可能と思われる。なお、譲渡価格については、時価相当額とする。」という回答があった。
これまでも、宝町地区の整備、特に狭隘なキャンパス問題について文部省とも話し合わ れてきたが、このキャンパスに隣接する刑務所跡地の購入の可能性が非公式ながら出てき たことから文部省と「宝町地区体育施設用地取得」の不動産購入計画書により折衝が持た れた。この計画では、敷地面積32,155m2、金額にして約8億円強というものであったが、
文部省は敷地面積20,000m2、購入価格は約4億円で1971年度予算として大蔵省に協議す ることになったが、金沢市と敷地面積、購入価格の折り合いがつくかどうか、また、刑務 所跡地に付されている用途指定が解除できるかどうかなどの問題点があった。
医療短大創設と薬学部の移転問題
このころ、看護、診療放射線、臨床検査など、パラメディカルの教育は、これまで医学 部附属の各種学校において行われてきたが、医療の進歩に合わせて医療技術者を養成する 教育制度の変革時期を迎えていた。このため学校教育法に基づく短期大学において医療技 術の高い専門的教育を行い、高度の知識と技術を有し、併せて豊かな教養と人格を備え保 健医療の向上に寄与することのできる医療技術者の育成を目指して「金沢大学医療技術短 期大学部」の設置について1968(昭和43)年から概算要求を行っていたが、大阪大学
(1967年度に設置)、九州大学(1971年度に設置)に次いで1972年度に全国の国立大学 で3番目の医療技術短期大学部(以下「医療短大」という。)が実現することになった。
医療短大は、発足に当たって医学部附属病院の旧館病棟(現在の第6病棟で1935年と 1937年に建築)の一部や老朽化の著しい木造建物を模様替するとともに、新築予定のプ レハブ講義棟などを仮校舎として開校を予定することになった。
医療短大の設置経費が1972年度政府予算案に計上されたことから、医療短大校舎の整 備に関連して、薬学部の移転問題について、学長、事務局と薬学部長との打合せが1972 年2月2日に行われ、刑務所跡地の問題を含めて薬学部校舎の移転に対する大学側の考え を来る2月28日に文部省が聴取するとの通知があったので、それ以前に学内の意見をまと める必要があることから、2月17日か18日までに薬学部の移転に対する態度を正式に決 定するよう学長から指示があり、これを踏まえて関係学部により協議し意見をまとめるこ とになった。薬学部教授会(同年2月16日開催)において「刑務所跡地への移転に関する 問題点について協議され、票決の結果全会一致(賛成13票)により「移転する方針」が決