• 検索結果がありません。

(5)教官の組織・略歴・業績

ドキュメント内 第四高等学校第四高等学校 (ページ 53-57)

まず、先に述べた教授更迭の大騒動以前の教官と校風について述べている次の文章に、

目を通しておきたい。

…カゴ島から巡査か何かを抜擢して来て生徒監督とし、それが毎朝廊下の四つ角に立って居 る。生徒がそれに礼をせぬと修身点を何点引くとかいふ風説が生徒間に伝った。どういふも のか、そのころ校長が連れてこられる教授の中には往々学議に乏しく、教授して居る本が一 向読めなかったり、又勿体らしく講義する種本は既に生徒が読破した本であったりして余り 頭をさげられなかった教授も少なくなかった。たゞ北條先生と三宅少太郎先生とには、どう しても頭が上らなかった。人格の力とか学問の力とかには、裸になって太刀打ちして、どう してもかなはない或る物がある。―中略―今から見ると、校長も校長、教師も教師であるが、

そこが素人の寄合世帯で、何となく面白く今から思はれる處もなくはない。校長が生徒に接 触するためか、感化を及ぼすためか、時々自宅に招いて御馳走になった。―中略―企てはよ かったが、其頃の生徒の頭は必ずしもカゴ島県会議員の様に単純ではないので、感心した生 徒もあったらうし、又別の考へ方をしたものもあったらう。(山本良吉「創立当時の追想」

『同窓会報』第3号)

ここには、当時の教官らの面影や校風が活写されており大変興味深い。以下に、山本が

「頭が上らなかった」と回想している北條時敬と三宅少太郎両教官の略歴に注目してみるこ とにする。

北條時敬(ほうじょう・ときゆき、1858〜1929年、金沢生まれ)は、啓明学校で学ん だ後上京し、洋学者箕作秋坪の三叉学舎を経て東京大学予備門に入る。1881年、東京大 学理学部に入学し、数学を専修した。85年、東京大学を卒業して理学士の称号を受ける。

直ちに、石川県専門学校教諭となり、88年に第四高等中学校教諭となる。91年、退職し 上京して帝国大学大学院に入学した。第四高等中学校での北條は、石川県専門学校教諭時 代と同様生徒らに敬愛された。そのことは、次の文章がよく物語っているであろう。

それから私が高等学校に入り、先生から数学は云ふまでもなく、英語の訳読も教はった。

文学士の教師よりも、理学士であった先生の訳読の方がしっかりして居た。その頃先生に教 はったものの中には、後に立派な人々も多いが、其頃、先生は人物といひ、学力といひ、全 校学生の景仰の的であった。当時、先生から教を受けたものは、皆先生から多大の感化を受

けた。―中略―先生は測り知らない様な深い大きいものがあり、非常に暖かいもののある人 であった。(「北條先生に始めて教を受けた頃」広島高師校友会『尚友』1929年10月。『西田 幾多郎全集』第13巻所収)

北條は、数学と英語の学力が傑出し、しかも豊かな人間性を備えており、生徒たちに 日々深い影響を与え、そのため生徒たちの景仰の的となっていたようである。他の多くの 教官たちがあまりに欠点が多かったために、北條は特に生徒たちの目には目立ち、深く印 象づけられたものと思われる。

山本が前述の北條に対してと等しく「頭が上がらない、その学徳の前には自然と頭が下 がる」と述べていたもう一人の第四高等中学校の教官三宅少太郎についても、同様に当時 受業生であった西田の言うところを聞くことにしたい。

先生は私共の高等学校時代の漢文の先生である。あばたで、強度の近眼で、痩せこけて、

風采甚だあがらないが、講義は実に明晰透徹で、麻姑の爪をかりて痒所を掻くと云ふ如き感 があった。先生独身にて、朝より深更に及び、終日一室に坐して書を読むより外に、余念が ない。その外何の欲もなければ何の趣味もない。ひたすら書を読むべく生れて来た様な人で あった。それでは先生唯漫然耽読するのかと云へば、決してさうではない。先生の学風と云 へば、漢学では最も厳密な学問的と云ふべき清朝の考証学であったのである。―中略―先生 の学問が右の様であったから、先生は実に食を減し衣を薄くして書を求められた。併しそれ は所謂蒐集家といふものとは異なって全然研学の為であった。―中略―質素な生活でありな がら、書物は家一ぱいといふ風であった。―中略―先生が何も残さないで逝かれたことは、

私共誠に惜しいと思ふ。色々の人が勧めたのだが、遂に何も書き残されなかった。(「三宅真 軒先生」『図書』1940年2月、岩波書店。『西田幾多郎全集』第12巻所収)

三宅(通称少太郎、号真軒、1853〜1934年)は、金沢中学校・第四高等中学校・広島 高等師範学校で教鞭をとった。1887〜92年まで第四高等中学校に勤務した。初めは助教 諭試補、後には助教授として、国語・漢文・歴史・倫理学を講じた。しかし、本領とする ところは漢文学にあった。生活費を極端に節約して、中国学の研究に必要な書物を経・

史・子・集の四部にわたって広く蒐集した。三宅が主として関心を集中した書籍は、論 語・荘子・杜詩であったという。その博覧強記は有名で、帰納を生命とする考証学におい て、その材料を三宅ほどわが頭脳に幅広く整然として貯えていた学者は稀であったのでは ないかと思われる。読書のために明け暮れる毎日を過ごしていたものの、興がいたれば詩 を賦し、時にはまた友人と唱和することもあったらしい。

また、西田は三宅が書を著わす事に懶惰であったことを指摘している。三宅は、旧制高 校の教授に多いタイプの学者の代表的な一人でもあったというべきであろうか。だがしか し、三宅が粒々辛苦して集めた書籍約4万数千冊は、1929年以来中国古典学の研究教育

機関である東京の「無窮会」に一括して収められ、後生の学徒の研究を深く裨益し続けて いる。これらの三宅の分身ともいうべき4万数千冊の全貌は、5部32類に整然と分類され た『真軒先生旧蔵書目録』(上野賢知編、1933年12月、無窮会)によってうかがうことが できる。中等学校教員検定試験に合格して中学校教師となり、これという学歴もなく風采 も上がらない三宅であったが、第四高等中学校において学士の北條と並び称される存在で あった。

前述の教授更迭騒動にかかわる教官について論ずる場合、忘れてはならない一人として 黒本植(号稼堂、石川県出身、1858〜1936年)がいる。黒本も、正規の学歴はないが、

大阪の儒者藤沢南岳、東京の川田剛、重野安繹(漢学および史学)、小中村清矩(和文)と いうような当時の有名な学者たちに師事して学問を修めた。第四高等中学校では雇教員と いう地位で、国語および漢文、歴史を担当している。教授更迭事件において、中川校長は 黒本を馘首したものの第五高等学校校長に転任した際に、五高教官に黒本を採用した。黒 本の学才と人格の高さを認めて、惜しんでのことと思われる。五高では、同僚に漢詩文に 造詣の深い夏目漱石がおり、黒本は夏目が英国留学に出かけるまでの3年間、夏目と親し く交流した間柄であった。後年、漱石が大病を患い、そのころ博士号辞退についても大き な話題となったことがあった。その時、黒本は書簡と漢詩を漱石に贈り、見舞いかつ激励 した。それに対して、漱石は以下のような返礼の書簡を送った。この漱石の書簡が、黒本の 人となりと学識とのすべてを語ってくれているといっても、言い過ぎではないであろう。

拝啓其後は打絶御無音に打過候處愈御清勝奉賀候御近況は時々行徳生より承はり居候 目下洛北に御閑居終日筆硯を友とせらるゝ由欣羨の至に存候病気御尋被下難有候一時は 危篤に候ひしも幸に全快只今は病気前より肥満うちくつろぎ居候 学位辞退につき分に 過ぎたる御褒詞却って慚愧の至に候玉詩一首御恵送是亦故人のたまものと深く筺底に藏 し置可申候 先は右御挨拶迄 艸々頓首 二[ママ]月七日 金之助 黒本先生 坐下

(明治44年3月7日付書簡、新書版『漱石全集』第30巻、1980年、岩波書店第5刷所収)

黒本は、和漢の学に深く通じており、漢文を綴り漢詩を創り、書も達筆であった。個性 的な筆跡の掛軸や碑文、例えば黒本の文章と筆になる兼六園の「北條時敬頌徳碑」などに よって、それを十分にうかがうことができる。また、国文学・国史学についての造詣も深い。

評釈や考証の方面にも業績が多く、沢山の和歌を詠み歌集も残されている。遺著には、『稼 堂叢書』(国典・歌文・経書・史伝・諸子・詩歌・伝記・紀行・随筆、59種24冊)や『稼堂集』

(漢詩文集、3冊)、『花守集』(和歌集)などがある。なお、黒本の蔵書約4,600冊が「稼堂 文庫」として金沢市立玉川図書館近世史料館に収められ、広く市民の利用に供されている。

以下、教授更迭騒動以後の教官について述べることにしたい。1892年の教授更迭騒動

ドキュメント内 第四高等学校第四高等学校 (ページ 53-57)