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(2)第四高等学校の社会運動

ドキュメント内 第四高等学校第四高等学校 (ページ 109-117)

社会の変貌

1890(明治23)年から1920(大正9)年にかけての30年間に、わが国は、内には立 憲国家としての体制を整え、外には相次ぐ戦勝で対外膨張を遂げる中で、急激に経済力を つけて工業国化を進め、それに伴って近世以来の伝統的な社会のあり方を大きく変貌させ ていった。この間に、実質国民総生産と人口はほぼ倍加したが、それは、1880年代に整 備された国内体制で対応しきれる範囲をはるかに超える変化だった。また、わが国を取り 巻く国際環境も第1次世界大戦で激変し、列強の勢力地図は大きく塗り替えられる一方、

その帝国主義体制も社会主義と民族主義によって足元を掘り崩され始めた。

1920年代のわが国では、経済力の成長と国際環境の変化を背景に更なる帝国主義的膨 張をはかろうとする衝動が強まる一方、伝統的な社会秩序の上に立憲的諸制度を接ぎ木し た国内体制が急激な変化に対応しきれず、各方面できしみを生じていた。

学生運動勃興の背景

当然、膨張政策を推進する立場からはそのための制度改革が模索されたが、他方で伝統 的社会秩序の分解は、個人主義を否応なく台頭させ、また階層間格差を拡大して社会主義 の浸透を不可避なものにした。原敬内閣のいわゆる四大政綱はそうした制度改革への動き を示すものであり、その1つである高等教育拡充の一連の諸施策もわが国の経済的・社会 的膨張の継続を前提としたものだった。

しかし、1920年代のわが国は、戦後恐慌に始まった長期不況から容易に脱出できず、

その後の歴代内閣も抜本的な打開策を見いだせなかった。その結果、急増した高等教育機 関から社会的需要を上回る人材が排出されることとなり、政治や社会のあり方に対する学 生・生徒の不満は、その精神的立脚点は個人主義や社会主義などと様々であったが、一様 に高まって行かざるを得なかった。ここに1920年代に四高はもとより、全国的に学生運 動が勃興してくる歴史的背景がある。

四高生の超然主義

学生運動の揺籃器の1つは学生寮だった。四高の時習寮は、1906(明治39)年3月に 火災で焼失するが、その再建後の1908年7月、この多難な時期に寮生活を送って卒業を 迎えた9名が「超然趣意書」を草して後輩たちに残している。

そこでは、「近来我国ノ国語ハ漸ク頽廃シ礼儀特ニ地ニ堕チントスルモノアリ。殊ニ将来 国家ヲ双肩ニ荷フベキ学生間ニ於テ、徳義ノ念日ニ薄キヲ加フルニ至レルハ真ニ寒心ニ堪 ヘザル所ナリ。」との現状認識に立って、彼らが後輩に求める「超然主義」を、「超世脱俗 ヲ本領トシ、社会ヲ全然没交渉ナル」その「消極的方面」ではなく、「混沌タル社会濁流ノ 中ニアリ而モ之ニ感染スルコトナク、尚進ンデ之ガ指導又任ニ当ル」その「積極的方面」

だとしている(『第四高等学校時習寮史』)。個人主義の小宇宙への籠城を「消極的」と排し て、時流に迎合しない点に「超然」の意味を求め、社会の指導者としての自覚の確立を説 いている。問題はこの時流の中身であり、それを膨張政策を推進する立場とするならば、

社会主義へと接近してこざるを得ない。

新人会の四高卒業生

ロシア革命はわが国の社会運動全体に大きな刺激を与えたが、学生運動もその例外では なく、1918(大正7)年12月には東京帝国大学の学生たちが新人会を結成した。四高の 卒業生も新明正道や山崎一雄らがこの新人会に参加している。新明と山崎は、地方支部を つくるという新人会の方針に従って、夏休みで帰郷した際に社会主義に共鳴する地元の有 志と接触し、その結果、新人会の金沢支部が誕生している。

その後、能登支部も結成されている。もっとも、これらの新人会地方支部に四高生が直 接加入することはなかったが、支部のメンバーが四高生に影響を与える動きはあった。

大正10年自治事件

1921年10月10日の夜、時習寮では、寮委員の指令で200名近い全寮生が寮内の無声堂 に集合した。寮委員は、全寮生が連署血判して、①寮監督者の廃止、②門限の廃止、③電 灯燭光の増加と点灯時間の延長、の3項目を生徒監に嘆願することを提案した。この提案 に賛成する発言が続き、署名の場面で1名が退場したものの、残り全員が消灯時間を過ぎ て夜半に至りようやく署名を終えた。寮生たちは、これらの要求を実現することによって、

寮生活に完全な自治を確立しようと考え、退寮覚悟で学校当局との交渉に臨み、翌11日午 後8時まで回答するよう要求した。

学校当局は、期限を切った回答要求には応ぜず、不穏な行動を継続した場合には退校処 分にすると宣言する一方、平穏な交渉には応ずる態度をとった。その結果、寮監督者は廃 止されなかったが、廊下に全員整列してする点呼は廃止され、門限は平日が午後8時から 10時、土曜・日曜が午後10時から11時、また各室の電灯が16燭光から24燭光にそれぞれ 改められた。この事件は北国新聞にも報道され、社会の変貌の中で四高生にも変化の兆候 が顕れてきたことを物語っていた。

四高生の社会運動

1922年5月、社会主義者の山川均が創刊した時事評論雑誌『前衛』が「飢えたるロシ アを救え!」のキャンペーンを始めると、東大からの働きかけで講演部の石田外茂一が窓 口となり、同年秋には四高校内の生徒控所にも「露西亜飢饉救済」の醵金箱が置かれてい る。これを嚆矢として、四高の校内での社会主義の活動が始まっていく。このころには、

新人会金沢支部などの社会主義の活動家と接触する四高生も現れ、同年7月24日付の北国 新聞には、理科3年の泉隆が軍隊内での反軍ビラ配布事件で警察の家宅捜索を受けたこと

が報道されている。

この年はまた、全国的にも社会運動・学生運動の転機だった。各種の社会運動の全国組 織が次々に誕生する中で、7月には非合法の日本共産党も結成されている。学生運動でも、

11月7日には東大などの学生たちによって学生連合会、ついで翌23年1月末には高等学 校連盟が結成されている。四高を舞台にした社会運動が始まる条件は、内外ともに熟して いたのである。

社会思想研究会の発足

1923年の1学期ごろから、理科では泉隆や新木友二郎を中心としたグループ、文科で は野村二郎を中心としたグループの動きが始まり、同年秋には両者が提携して四高社会思 想研究会が発足することとなる。同年12月18日付の北国新聞では「社会問題研究会」が 結成され、翌24年1月13日に第1回集会を四高校内で開催する予定であると報道され、

会の綱領も次のように伝えられている。

一、真摯なる学研的態度にて社会思想を研究す 一、組織的建設的に社会現象を考究す

一、生徒たる本分を厳守し、実際運動によらず、公衆に対し発展を避く

発足当初のメンバーには、井村幾与之(志甫)、内田佐久郎、辻幸七、河合勇吉、石堂清 倫(北山幸夫)、窪川鶴次郎、打方新之

J

、中野重治、岡良一らがおり、その後、青山三雄、

杉沢博吉、飯田逸次郎、油野(宮田)和平、多田隆、服部周平らが加わった。

公開から非公開へ

社会思想研究会の第1回集会開催のほぼ1カ月前の、1923(大正12)年12月25日に、

新人会の全国巡回講演の一環として、四高でも講演会が行われた。4名の講師のうち3名 は四高の卒業生で、石田外茂一が「震災後の学生運動」、大島英夫が「労働問題の発生的根 拠」、勝木新次が「コンディツィオナリスムス(条件反応論)について」の演題でそれぞれ 講じた。宣伝不足で講演会の参加者は多くはなかったが、閉会後の座談会には四高生が20 数名参加している。ついで、社会思想研究会の第1回集会も「労農露国の憲法」をテーマ に放課後、合併教室で予定通り開催されたが、生徒監が臨席したため、あまり活発な発言 はなかった。

また、生徒監は、生徒控所の会員募集の掲示を一旦は許可したものの、2日後には撤去 を命じ、また1週間後の1924年1月20日に開催された第2回集会では、四高生の社会科 学研究に対する禁圧的な訓示を行っている。こうした学校当局の姿勢に対して、社会思想 研究会は会員を地域的に二分し、寺町の寺院の一室を借りるなどして、非公開の読書会を 行う方針に転じた。抑圧しても、要求が消滅しない限り潜行するのは当然の成り行きであ

る。そして、読書会は学生運動のもう1つの揺籃器だった。

四高社会科学研究会への再編

1924(大正13)年9月14日、学生連合会の全国代表者懇親会が東大で開かれ、組織を 学生社会科学連合会(学連)に改組し、関東・関西・東北に地方連合会をつくることとな った。四高社会思想研究会もこれに参加し、関西学連に所属して、京都帝国大学の組織の 指導を受けることになったが、新人会との従来の強い繋りから、結局、双方の指導を受け る形となった。文部省は、こうした動きを厳しく取り締まる方針をとり、同年11月2日に 第五高等学校の社会思想研究会に解散命令を出したのを皮切りに、翌25年1月までに四高 を含む20数校の組織を解散させた。これに対して、新人会高校部が中心となって組織の再 建をはかり、四高では卒業生の新人会々員である石田外茂一、野村二郎、石堂清倫、長尾 他喜雄、内田佐久郎らが、謄写版購入などの資金の援助を新明正道や沢田清兵衛から受け、

1925年4月から7月にかけて働きかけた。

これに呼応するように、四高でも新入生の中から新たな参加者を得て、同年6月には櫛 田民蔵を講師に招いて密かに集会を開き、そこで四高社会科学研究会(社研)へと組織を 再編した。当時のメンバーは、辻幸七、青山三雄、飯田逸次郎、多田隆、油野(宮田)和 平、杉沢博吉らに、新入生の堀田武俊、牧野愛吉、稲葉(金田)春匡、芝田喜男、野口務、

山口久太郎、稲葉駿作、藤田信勝、曽我正雄、奥村秀雄、宮川謙一らであった。それまで の組織とこの社研の決定的な相違は、校外の社会運動に会員が直接参加し始めたことであ る。これは、すでに学連への改組の際に全国レベルでも論議された点であり、学生運動の 大勢はこのころから「理論と実践の統一」という命題をこのような形で具体化する途を選 びつつあった。

全国最初の処分

1925(大正14)年7月16日、京大で第2回学連大会が開かれ、学生運動を無産階級解 放運動の一翼として位置づける方針が明確となり、校外の社会運動との接触が本格化して いった。この大会以降、非公然となった四高社研は、杉沢博吉、牧野愛吉、稲葉(金田)

春匡らが中心となって労働組合との接触に努めた。また、同年6月、無産政党の準備組織 である政治研究会が結成されると、その金沢支部とも交流するようになっていった。この ころ、金沢に石川合同労働組合、小松製作所を中心に能美合同労働組合が結成され、石川 県内の労働運動も勃興しつつあり、四高生の活動家を大いに刺激していたのである。文部 省は、翌26年5月13日付で生徒の左傾思想取締に関する内訓を出して、こうした動きに 歯止めをかけようとした。この内訓では、①研究会・読書会はその名称の如何に関わらず 絶対禁止、②社会思想は個人研究も不可、③掲示された書類・雑誌の読書の禁止、④校外 での演説は全面禁止、⑤他校との連合演説会は禁止とされたのである。四高では、この内 訓を先取りする形で、同年4月29日、杉沢・牧野両名を政治研究会に関与したことを理由

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