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(2)教育体制の変化

ドキュメント内 第四高等学校第四高等学校 (ページ 130-147)

戦局が進むと四高にも国家主義・軍国主義による統制が及び、大正の高等学校令で目指 した「高等普通教育を完成」することは、次第に困難になっていった。そして、1945

(昭和20)年3月以降完全に学科の授業が行われなくなり、教育機関としての学校の機能 は停止する。昭和戦前期、四高から自治や教育機関としての機能がどのように失われてい ったのかを、概観することにしたい。

1937年、日中戦争の規模が拡大の一途をたどり、国民精神総動員運動が展開されて戦 時色が濃くなる中、四高の寮生のトレードマークであった長髪にも社会の風当たりがきつ くなり、侃々諤々の論議の末翌38年、断髪を断行することとなった。同年6月には集団勤 労作業がはじまり、1940年8月に国内新体制要綱が発表され、それを受けて四高でも

「北辰報国団」が組織される。翌41年には臨戦体制を強化するために「第四高等学校報国 隊」が結成され、このころから軍事教練にますます多くの時間が割かれるようになる。ま た、国家の要請に応じ早く人材を世の中に送り出すべく、1941年度、1942年度と立て続

けに修業年限の臨時短縮に関する法令が出され、41年度では3カ月、42年度には6カ月 短縮の措置がとられた。そして、43年1月には高等学校令が一部改正され、第1条が「高 等学校ハ皇国ノ道ニ則リテ男子ニ精深ナル程度ニ於テ高等普通教育ヲ施シ、国家有用ノ人 物ヲ錬成シ大学教育ノ基礎タラシムルヲ以テ目的トス」と国家主義的色彩の濃い文言に改 められたほか、修業年限もさらに6カ月短縮されて2カ年となる。軍事教練の増加と修業 年限の大幅な短縮に伴い、1919年の高等学校規定で定められたカリキュラムも実情にそ ぐわないものとなり、1942年3月公布の「高等学校規定ノ臨時措置ニ関スル件」で学科 目と授業時間数に関して臨時措置がとられ、これに続く翌43年3月の高等学校規定でさら に多くの変更が加えられるに至る。

一連の改定で学科名が全面的に変えられたほか、授業時間数についても少なからず増減 があった。授業時間表を旧規定のものと比べてみると、文科の場合、外国語科は相変わら ず一番授業時間が多いものの、旧規定で第1・第2外国語をあわせて毎週10時間以上、3 年間にわたって学習していたことを考えれば、2年間で合計400時間というのはかなり少 ない。一方で、相対的に時間数を増やしたの

が 教 練 科 ( 200 時 間 ) と 体 錬 科 ( 130 時 間)・古典科(400時間)・歴史科(370時 間)の諸学科であった。文部省当局が出した 教授要綱では、その第2項で「古典ノ味読ト 歴史ノ体認トヲ以テ学習態度ノ根幹ト為シ先 哲偉人ノ遺業ヲ継承シテ国運ノ発展ニ挺身ス ル志ヲ固メシムルコト」と、ことさら古典教 育と歴史教育の重要性が強調されているよう に、今回の規定改定は、古典科と歴史科を通 じて「皇国の道に則り」ながら、「国家有用 の人物を錬成」することを指向したものであ るといえるであろう。また、いかに効率的に

甲類 第1学年 第2学年 乙類 第1学年 第2学年 道 義 科 35 35 道 義 科 35 35 人 文 科 130 65 人 文 科 130 65 数 学 科 230 230 数 学 科 200 100 物 理 科 130 200 物 理 科 100 165 化 学 科 100 165 化 学 科 100 165 博 物 科 35 65 博 物 科 130 165 外国語科 300 200 外国語科 265 265 教 練 科 100 100 教 練 科 100 100 体 錬 科 65 65 体 錬 科 65 65 合  計 1,125 1,125 合  計 1,125 1,125 表1−14 高等科・理科の最低授業時数(1943年の高等学校規定改正)

第1学年 第2学年

道 義 科 35 35

歴 史 科 165 165

哲 学 科 65 65

外国語科 200 200

体 錬 科 65 65

古 典 科 200 200 経 国 科 65 130

自 然 科 65 65

教 練 科 100 100 選 修 科 165 100 合  計 1,125 1,125 表1−13 高等科・文科の最低授業時数

(1943年の高等学校規定改正)

注)旧制高等学校資料保存会編『旧制高等学校 全書』第2巻制度編、昭和出版、1980年より。

国家に有為な人材を育成するかということも重要になってくるため、教授要綱の第4項で

「教材ヲ精選シ所定時間内ニソノ要核ヲ徹底セシムルコト」として、高等学校で使用する教 科書についても、限られた時間内で要点を教えられるものを選ぶように指導している。そ してこれは単なる要請ではなく、1940年11月に公布された高等学校教科書認可規定によ ってある程度強制力をもったものであった。1941年6月の『文部時報』第726号に、当時 の文部省図書局長が「高等諸学校教科書認可規定実施の情況に就いて」という論文を載せ ており、文部省がどのような教科書を望ましいと考えていたかがわかる。これによれば、

1941年度の教科書として認可申請されたものは全部で8,223冊、そのうち不認可になった ものは476冊である。その内訳を見ると、不認可になった点数の多い順に、①国体観念の 養成上不適当と思われる個所を含むもの106点、②内容の叙述が甚だしく日本人としての 自主的立場を欠いているもの83点、③高等科の教授要目の趣旨にあまりにかけ離れている もの75点、④風紀道徳上問題のあるもの70点、⑤個人主義的思想や自由主義的思想など 我が国家精神と相容れないような思想傾向が盛られているもの56点、という具合に以下⑨ まで続いている。学科別に見ると、不認可が一番多いのは哲学、続いて修身・倫理学の教 科書であり、その主な理由は、西洋的な哲学・倫理のみを説き、「物の考え方に於て既に日 本人としての自主的立場を失っている」からで、それは東洋史・西洋史の学科でも同様で あるとしている。また国語および漢文でも、単に古典を抄録した物に相当不認可が出され たが、その理由を「教科書として古典の全文がそのまま教室で読まれたと致しますと、之 等の古典の中には往々国体観念を養成する上に於て又風紀道徳といふ点から見て却って悪 い影響を受けたりする様に解釈されるかもしれない箇所がある」とし、「不適当な個所は削 っていただきたい」としている。つまるところ、哲学や国語・漢文の教科書にこれだけ多 く不認可が出るのは、当局が「古典の味読と歴史の体認を以て学習の根幹」と考え、教科 書の選定に関してナーバスになっていたからにほかならない。教科書検定を行うに際し、

文部省が危惧していたのは「各学校に於て漸次教科書の使用を止めて、再び元のノート制 万能の状態になりはしないか」ということであった。旧制高校ではもちろん教科書も使う が、一方で「高等学校へ行ってみんなしーんとして一生懸命ノートを取るのにはびっくり しましたね。先生のしゃべるのを片っ端からノートを取る。万年筆を持ってない。インキ 壜をぶら下げて鉄ペンもって、あれなんか四高生のスタイルだったんでしょうが」(『四高 八十年』1937年理甲卒業生談)と四高の卒業生が回想しているように、ひたすらノート をとり続ける授業も多く、そうしてできたノートが石川近代文学館に相当数残っている。

ノート制が復活し学習効率が低下することは避けたいが、しかし国体観念の養成に益なき ものは認可できないということで、文部省にもジレンマがあった。

さて文部省は、より一層教育の効率をあげるために日常生活の事細かなことに至るまで 指導し、いわゆる24時間教育を実施しようとするが、戦局は生徒が学校で静かに学ぶこと を許さぬところまできており、1943年10月には徴兵猶予が停止され、四高からも約50名 の学徒が出陣していった。さらに44・45年には学徒勤労令をはじめ一連の勤労動員関係

の法令が出され、生徒は恒常的に勤労動員に駆り出される羽目になる。そして、1945年 3月18日の「決戦教育措置要綱」により、ついに学校における授業は45年4月1日から 1年間停止されることになる。かくして四高生たちも、文科生は富山県笹津(現大沢野町)

へ、理科生は愛知県鳴海(現名古屋市緑区)へと散っていき、教室での本格的な授業再開 は戦後に待たなければならなかった。

戦前期の学科教育についてはここで擱筆し、最後に大正期から昭和戦前期までの四高の 入試制度の変遷を増田幸一他著『入学試験制度史研究』(東洋館出版社、1961年)により 簡単に振り返ってみることにしたい。高等学校の入試試験制度は、1902年から総合共通 選抜制が行われ、受験科目は中学で習う英・漢・数・地・歴・国文・作文のすべてであり、

これを最寄りの高等学校で受験することになっていた。だがこの方式は1908年に廃止さ れて学校別入試となり、志望別によって国語及漢文・外国語・数学・地理及歴史(第1部 のみ)・物理及化学(第2・3部のみ)の諸教科を受験することになる。大正期に入ると 試験制度は猫の目のように変わり、1917・18年度は再び総合共通選抜制を復活した。こ れは全国統一の入試を行い答案を中央に集め採点し、成績順でまず8つの旧制高校収容総 数だけの合否を決め、その合格者をあらかじめ提出させてある3つの志望順を参考に、各 校に割り振るというものであったが、第1志望でない高校に進学した場合、学習意欲が下 がるという弊害があるため、1919年からまた学校別入試となる。さらに1925・26両年度 は、第1志望・第2志望の2校をあわせて受験できる2班制が行われたが、これについて は高等学校や中学校教育現場からの反発が強く、1928年度からまたまた学校別入試に戻 ることになる。これに先立つ1927年の高等学校規定の改正に伴い、文部省は各学校に

「選抜方法要綱」を送り、かなり大きな入試選抜制度の改革を企図した。新しい入学者選抜 方法では、学科試験の成績とともに出身校での学業成績を重視すること、人物考査を加え てもよいこと、身体検査を行い健康を重視すること、試験科目数を減らして3科目以内と することなど新たな方針が打ち出されている。さらに1941年度からは、筆記試験は文部 省が作成することになり、全国同一問題となっている。文部省は1927年の改正以来、合 否の判定に際して筆記試験以外の材料、つまり内申点や口述点を重視するよう指導してき たが、1944・45年には通常の入学試験資格規定による試験も実施されることなく、敗戦 後の1946年からは新しいやり方で試験が行われることになる。

(3)教官の組織・略歴・業績

戦時期に入ると、軍国主義・国家主義は教員や教官組織にも暗い影を投げかけた。1933

(昭和8)年には、自由主義的教員を「赤化教員」と決めつけて検挙・追放が行われ、その 数は全国で思想事件98件・関係教員761名に及んだという。1940年8月、国内新体制要綱 が発表されたことを受けて、高等学校でも教員組織・学友会・寮を一元化すべく、報国精 神に基づく心身の修練施設としての「北辰報国団」が結成される。このころになると、教

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