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(3)教官の組織・略歴・業績

ドキュメント内 第四高等学校第四高等学校 (ページ 117-121)

大正期には、1913(大正2)年6月の校長職務規程改正、翌14年6月の名誉教授規定 制定、文部省直轄諸学校職員定員令の改正など、教職員関係の法令がたびたび出されてい る。ナンバースクールの教職員定員は明治以来増加の傾向にあり、四高の場合も1902年 では教授34人・助教授2人・書記6人であったのが、その後コンスタントに増え続け、

1942年5月の定員令の改正では教授40人・助教授2人・書記8人となっている。そして もう1つ注目すべきことは、1918年の高等学校令で「高等学校ノ教員ハ文部大臣ノ授与 シタル高等学校教員免許状ヲ有スル者タルコトヲ要ス。但シ文部大臣ノ定ムル所ニ依リ免 許状ヲ有セサル者ヲ以テ之ニ充ツルコトヲ得」(第16条)と規定され、教員の資格が原則 的に教員免許状を有する者に限られたことである。翌19年には高等学校教員規定が公布さ れ、その第1条で「高等学校高等科教員免許状ハ本令ノ定ムル所ニ依リ教員検定ニ合格シ タル者ニ之ヲ授与ス」と定められ、また検定の受験資格も大学または高等学校卒業の学歴 が要求されている。ただし、この高等学校令の第16条には抜け道が用意されており、教員 規定第13条に「高等学校高等科ニ於テハ教員数ノ三分ノ一以内ヲ限リ高等科教員免許状ヲ 有セサル者ヲ以テ教員ニ充ツルコトヲ得」とあり、第14条「体操ニ関シテハ高等科教員免 許状ヲ要セズ」とあるように、体操の講師など教員免許状がない場合でも、文部大臣の認 可が下りれば従来通り授業を担当できる仕組みになっている。

以下に『第四高等学校一覧』(1919〜20年)の職員一覧(ただし事務官は除く)を掲げ、

この中から若干名の教官を選び、その経歴や業績を紹介してゆくことにしたい。

学校長 文 学 士 溝淵 進馬 高 知

教 授

歴  史 文 学 士 浦井鍠一郎 東 京

数  学 理 学 士 河合 義文 富 山

植物、動物 理 学 士 市村  塘 石 川

物  理 理 学 士 西  英盛 山 口

英  語 文 学 士 林  並木 高 知

歴  史 文 学 士 上原菊之助 岐 阜

数  学 田中 W 石 川

漢  文 文 学 士 駒井徳太郎 奈 良

漢  文 文 学 士 赤井 直好 石 川

英  語 文 学 士 岡本  勇 三 重

修身、心理、論理 文 学 士 相良益次郎 佐 賀

英  語 文 学 士 大谷 正信 島 根

独  語 文 学 士 高畠 喜市 石 川

測量、図画 工 学 士 星野 信之 長 崎

独  語 文 学 士 高橋 周而 新 潟

英  語 文 学 士 岸  重次 石 川

英  語 文 学 士 篠原 一慶 石 川

国  語 文 学 士 鴻巣 盛廣 岐 阜

独  語 文 学 士 野村 行一 福 井

独  語 文 学 士 木村 謹治 秋 田

英  語 文 学 士 岡本 清逸 山 口

図  画 工 学 士 高木 剛三 東 京

国  語 文 学 士 栗原武一郎 群 馬

鉱物、地質、地理 理 学 士 高橋 純一 岩 手

独  語 文 学 士 新関 良三 山 形

法制、経済 法 学 士 山谷 省吾 岡 山

英  語 文 学 士 山本 與吉 石 川

物  理 理 学 士 古澤 民雄 埼 玉

化  学 理 学 士 長岡 寛統 福 島

独  語 文 学 士 高橋 禎二 東 京

独  語 文 学 士 伊藤 武雄 東 京

数  学 理 学 士 柴田  寛 千 葉

助教授

兵式体操 小谷仁十郎 石 川

兵式体操 松本 慶昭 石 川

講 師

兵式体操 大野 平作 石 川

兵式体操 山崎増太郎 石 川

兵式体操 高橋渓次郎 石 川

法  制 南浮 智成 滋 賀

漢  文 宮川熊三郎 石 川

自 在 画 原  脩二 熊 本

物  理 岩井 武雄 石 川

副手

動物、植物 嶺  定二 石 川

化  学 青木 一郎 石 川

鉱物、地質 青木 栄治 石 川

図画、測量 油 仁之助 石 川

教師

独語、羅甸語 エルンスト・ウオルファールト 独 国

英語、羅甸語 オーウェン・ウオーカー 米 国

市村塘教授は、動物・植物を担当した。石川県の出身。1892年、四高から理科大学動 植物科に進んだ。卒業後、二高教授を経て1897年、四高に赴任。評議会員・学科長をつ とめたほか、庭球部・水泳部・同窓会の創設に尽力。板書が読みづらく、講義は難解であ ったという。私生活では謡にお茶、鮎釣りと金沢ならではの趣味を嗜み、特に宝生流の謡 は玄人はだしで能楽堂の舞台にたびたび立ち、また文名も高いものがあった。1932年に 退官し名誉教授になったあとも、校内の研究室に通って薬用植物の研究を続けた。大正末 ころから石川県より天然記念物の調査を委嘱され、県内全域にわたる『石川県天然記念物 調査報告』を次々と刊行。主な著書に、旧制高等学校用動植物学教科書の『動物・植物顕 微鏡実習摘要』(丸善、1907年)、『近世動植物学教科書』(積善館、1899年)や『日本薬 用植物図譜』(日本薬報社、1932年)、『石川県下野生有用植物』(安田作次郎と共著、石 川県図書館協会、1941年)などがある。

赤井直好教授は、漢文を担当。東京の出身で、東京帝国大学文科を卒業後、1907年に 赴任し、評議会員・漢文科長をつとめた。世俗を超越した風があり、度の強い眼鏡の奥に 慈父のような温かさと優しさを湛えた、寡黙謹厳の君子人。香林坊から音楽が流れてくる 中で淡々と孔孟を説き、孔子や孟子が生きていて教えを説くならばかくあらんというよう な教授振りであった。学生に対する思いやりはどこまでも深く、ボートのレースを目前に 控えた学生が事件を起こして裁判所に呼ばれたとき、学生にかわって裁判所に出頭し、学 生をレースに専念させた。事件解決後に赤井教授からの「カイケツシタ、シンパイスルナ、

レースニハカナラズカテ」という電報を受け取った学生は、呵責の念と師の心の無限の温 かさに、しばし声もなく泣いたという。1933年教授を辞したあとも講師として42年まで 教壇に立った。

岡本勇教授は、英語を担当した。三重県津市の出身。1898年に東京帝国大学国史科を 卒業後、英国に渡り名門ケンブリッジ大学のキングズカレッジで学んだ。1909年に赴任 し校長事務取扱、学科長、図書課長、教務課長などを歴任した。金沢大学に所蔵されてい る英学書の初版ものはたぶんに岡本教授が蒐集したもの。四高名物教授の一人。長らくロ ンドンに留学し、話のたびにその当時の話が出ることと、英国紳士の典型ここにありとば かり、いつも真っ黒のスーツに山高帽をいただき、どんな晴れた日でもこうもり傘を手放

さなかったことから「ロンドン」のニックネームで呼ばれた。授業では英国式の格調高い 英語を教え、外国人教師も一驚したような難解な原書を奇智即妙に訳して学生を魅了した が、試験では岡本教授が訳した通りに答案を書かないと合格点が貰えなかったという。

1934年に退官し、名誉教授。退官後は京都に居を構え専門外の日本史、特に武士社会の 研究にいそしんだ。著書に『加賀の家中』(石川県図書館協会、1935年)、『岡本道可傳』

(1937年)がある。

星野信之教授は、図画・測量を担当した。長崎の出身。東京帝国大学工学部を卒業し、

1908年に着任、四高での教授歴は30年を超えた。学科長、評議会員、教務課長などを歴 任、1939年3月菰田校長の死去により、校長事務取扱をもつとめた。がっしりした体格 の持ち主で、いつも酒の気を切らしたことがなかったといわれ、その酒豪ぶりは長岡寛統 教授と並び称される。野球部長・漕艇部長もつとめ、寡黙温情で親分肌の風格から生徒た ちに畏敬された。愛称オンケル(ドイツ語でおじさんの意味)。当時、四高生の間では犀川 大橋が星野教授の設計になるものと信じられ、この橋をオンケル橋と呼んでいた。1941 年に退官し名誉教授となったあとも、46年まで講師として教鞭を執った。著書に、『高等 図学解説』(上下巻、北辰書院、1927〜28年)がある。

駒井徳太郎教授は、漢文を担当した。奈良の出身。東京帝国大学文学部を卒業後、石川 県立小松中学校長を経て、1908年、四高に赴任。生徒監、漢文科長を歴任し、1933年に 停年で職を辞した。のち1938年から1941年まで、講師として再び教壇に立っている。試 験では暗記している漢詩を書かせ悪童どもの度胆を抜いたが、その採点方法がまたふるっ ていた。白紙を出した者には「その態度が潔い」と言って40点、漢詩と無関係な西郷隆盛 や乃木大将の詩を書いた者には、「その心情がいやしい」と言って30点を与えたという。

とにかく何でも書いて点数を稼ぐのが当たり前の受験戦争を突破し、晴れて四高に入学し てきた新入生にとって、この駒井教授の試験の洗礼はさぞかし強烈なインパクトがあった ことであろう。概して四高には、このように点取り亡者に厳しい教師が多かったようであ る。また、駒井教授の旧蔵書は、現在金沢大学附属図書館に駒井文庫(5,492冊)として 保管されている。加賀藩刊行の図書・郷土資料等や経書類が多い。

鴻巣盛廣教授は、国語を担当。岐阜飛騨高山の出身。五高から東京帝国大学文科大学国 文科、同大学院へと進み、第七高等学校造士館教授を経て1916年、四高に赴任。国語科 長・評議会員をつとめた。万葉集の講義では長歌を美声で朗詠、また源氏物語の講義では 真面目に猥談をして粋人ぶりを発揮した。1941年に退官。『万葉集全釈』(廣文堂、1930

〜35年)、『万葉精神』(内閣印刷局、1940年)、『北陸万葉集古跡研究』(宇都宮書店、

1934年)など多くの著述があり、万葉学の大家として知られている。特に『万葉集全釈』

全6冊は、完成まで25年の歳月を費やした画期的業績であった。

長岡寛統教授は、化学を担当した。福島の出身。二高から東北帝国大学理学部に進み、

豊橋中学、京都鳩居堂などを経て1918年、四高に赴任した。25年から2年間英国に留学。

ひととなり豪放磊落で、型破りの熱血教師。学生をよく可愛がることにかけては定評があ

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