旧制高校成立前後
ここでは、在任期間が1893年1月〜97年3月の大島誠治校長、同1897年3月〜98年 1月の川上彦次校長の時代を述べる。
1894(明治27)年6月25日公布の高等学校令は、「産業の進展にともなって多元化し た国家有用の人材養成、高等教育機会の拡大と大学入学難の緩和、小学校入学から大学卒 業までの修学年限短縮など、当時の学制改革問題を一気に解決しようとした」という性格 を有する、教育制度の大改革を目指したものであった(『日本近代教育百年史』1 教育政 策、参照)。しかし、帝国大学への進学を事実上保証する大学予科のみに進学者の関心が集 中し、専門部を主体としていずれ大学に昇格させるなどの文部省の政策意図は、結果的に は挫折した。
ともあれ第四高等中学校は、この法令により第四高等学校と名称変更された。1894年 7月10日の北国新聞は、大島校長の卒業証書授与式の言葉を報じ、「高等学校令は発布せ られたり。然れども本校は急激なる改革を為すことなし。故に諸子は従来の方針を以て修 業するに於て何等の障害をも見出さず幸ひに安心して勉学せよ。」と記している。この記事 のとおり、第四高等学校については、大学予科を本体としたその性格に殆ど変更がなかっ
た。また、ほぼ同時期に、「学友会」の紛争に関して「第四高等中学校学友会の成れるは昨 年夏に在りき、今一年を経ずして紛紜不平の声中に没却せる、吾輩豈同会の為に之を悲ま ざるを得んや―中略―吾輩をして之を明言するを得せしめば、今回の紛紜は、石川県人と 他県人のとの感情の衝突也、道理の争に非ざる也」と位置づけ、結論的には「吾輩は唯単 簡に学友会を解散すべしと云ふ」(1894年7月9〜10日)と論じている。第四高等中学校 学友会は結成されたものの、このような理由で一旦解散し、新たに北辰会が結成され、そ の後一貫して発行されることとなる『北辰会雑誌』も創刊された。「四高と密接不可分な
「北辰」と云ふ言葉が四高校史上茲に初めて現れ」たのは、この時であると言われる。この ように第四高等学校への改名当時は未だ高等中学校時代と実態はあまり変わらず、高等中 学校時代の「地元」対「反地元」の内部的葛藤は、なかなか解消できない状態にあった。
第1回大茶話会時習寮創立十周年祝賀会佐野寮務主任就職十週年祝賀会記事中の佐野先 生挨拶の「摘録」(『北辰会雑誌』第36号、1903年12月)の中で、長年舎務係を務めた佐 野安麿は、次のように証言している。
廿六七年の交みぎり生徒中に文武二派起り、武派の跋扈文派の厭ふ所となり、往々衝突を来し、
又廿七八年征清役に挙國敵愾心の勃興せる時、我校に於ける水陸運動会開催の準備を口実と して休業を要求して一紛擾を醸したる以来、悪習自然に発生し生徒間不規律無謀の挙頻りな りき
また、1899年二部工科卒、生野談六の次のような証言も残っている。
四高に入学した明治29年から卒業して東大に移った同32年までの頃は、いわば、四高の 全くの草創期であって、校風というものはまだ出来ていなかった。―中略―当時の大島(誠 治)校長は、温厚な人柄で、全校を率いて校風刷新に立ち上がろうの意欲がさっぱりなかっ た。そういえば、四高には入学式も卒業式もロクになく、教師と学生と普段接触する機会も なく、味気ないものだった。(『四高八〇年』)
実質的寮自治の獲得 1897(明治30)年4月以降大学予科の入学資格は、「高等中学校設 置区域」に依らない事となった。(文部省訓令第4号、1896年6月11日)これにより、地 域ごとに入学出願校を指定した学区制が崩れ、大都市の人気校に受験生が集中する傾向が 生じた。また、高等学校入学者の構成も、地域の尋常中学校制度が整備されてきたことに よる大きな変化が生じていた。すなわち、「高等中学校・高等学校に進む者は、初めは小学 校の尋常科や高等科を終わってから私立の予備校的学校や私立中学校などで勉強した少年 たちだったが、20世紀の初めごろになると、府県立の中学校からの進学者が主流に」(寺
Q
昌男編『日本の教育課題』6 選抜と競争)なっていった。このような旧制高校入試を めぐる状況の変化により、入学者の構成が変化して行った。高等中学校以来の経験も蓄積されはじめ、当時の旧制高校(ナンバー・スクール)は、いずれも校風模索期に入ってゆ くことになる。
ただし、四高の寮自治の伝統形成は、19世紀末にはすでに顕著な成果を挙げており、全 国的にみても注目すべきものがあった。以下そのことを述べる。
1893年10月ようやく木造二階建て寄宿舎一棟(約140坪)が完成し、村上長之助(珍 休)教授により論語学而編冒頭の「学而時習之、不亦楽乎」にちなんで時習寮と命名され、
第一回入舎生として、定員70名のところ定員に満たない56名が入寮した。最初は金沢市 外居住者に限って希望者を募ったが定員に達せず、結局市内の入寮希望者も受け入れた。
直ちに寄宿舎規定、寄宿舎細則も決められて実施に移された。当時の寮では、舎務係りを 含め一同揃って一礼の後食事し、食後も同様にするという規定があったが、これが金沢的 風習であるとして譲らない金沢出身の室長と、それ以外の室長の間で「争いの種」になっ たという。寮成立当時においては、生徒の共同意識が成立した上で学校側と対立するとい うよりは、生徒間同士の地域対立感情が基調となっていた事を象徴している。
1896年2月4日時習寮生徒は、「自ラ重ンジ自ラ治ムルノ良習起リ亦昔日ノ如ク舎監掛 ノ干渉ヲ待ッテ而シテ後ニ身ヲ修ムルノ比ニ非ザルナリ」として、自らで起草した「細則」
を添えて「自治制採用建議書」を大島校長に提出した。これに対し学校側は、舎務掛の役 目を「時習寮ノ管理及寮生規約ノ督励」(時習寮細則 第一類 時習寮内則 第一条)と管 理的側面を後退させ、実質的な生徒自治(舎務掛の「督励」を認める点で、昭和期の自治 とは異なるが)を大幅に許可した。この間の事情について、『北辰会雑誌』(第9号、
1896年3月)では、「時習寮進運第一歩」として次のように書いている。
吾人が曽って筆にし又夢みし時習寮の自治制は、遂に寮生全体の希望と校長舎務掛の意向 と相迎へて、其或部分の実施を見るに至れり。吾人は吾人の所説が唯一場の空論妄想に止ま らざりしを喜ぶと共に、我辰章校、時習寮、寮生の歩武一段を進めたるを慶して賀せざるを 得ざるなり、此の議実に客年末の茶話会に胚胎し、或は室長会議となり、或は起草委員選挙 となり、遂に本月二日寮生総会に於ける新規約議定となり、学校長の認許を得、始めて実施 したるは、実に本月二十日なりき。其の要とする所は従来の細則規約を全廃し、学校は内則 七條を以て其大綱を示すの外、寮生は総て新規約二十五條を以て其責任を明にし、特に室長 会議及週番室長の権限を拡張し、寮生相互の制裁を励行し、以て舎務掛の御世話(特に御世 話と云ふ干渉の語に弊あればなり)以外に寮生たる品操を保持し、完全なる校風を振作せむ とするにあり。吾人今は唯着々其効果を収むるを望むに止めむ。若し夫れ舎を増築して普ね く全生徒を溷こん集するは学校経費の許す時を待たんも、此寮の自治的傾向をして百尺竿頭一歩 を進ましめ、細則規約の文飾を去て赤裸々たる自治の本体となすことを得るの日は、噫、何 年何月の後ぞ。
以後の時習寮の伝統とも言える寮自治獲得運動の原点は、この時点に遡る。
この時期の四高の時習寮の改革要求は、「一高以外で生徒の自治要求の最初」と言われ、
また、「1890年の第一高等中学校寄宿舎の自治制の水準に近づいたもの」とされ、「この 改革は具体的先例(一高の事、引用者)があったにせよ、生徒自身の要求でおこなわれた ことは、十分評価しなければならない。」と、研究者に高く評価されている(筧田知義『旧 制高等学校教育の成立』)。
北條時敬校長時代、四高の基礎確立
明治期の金沢が生んだ最も著名な教育者、北條時敬(その前半生については、第1章2 節などを参照されたい。)の全貌をうかがえる資料を丹念に集めた『廓堂片影』(1931年 6月、教育研究会)の編者は、(名目のみではあるが)後の日本を代表する哲学者西田幾多 郎である。西田は北條が前任の山口高等学校長時代そこでも教官として勤め、四高校長
(在任、1898年2月4日〜1902年5月)へと転任してからも四高教授として後を追って 転任し、山口高校と四高の運営に側面から協力した。
竹内良知によれば、「西田は四高生時代には北條の家に寄寓していた事もあった。北條か らもっとも人格的感化を受けたのは、誰よりも西田であった。彼がのち禅に関心をむけた のも、北條の感化とかかわりがあったといわれている。西田は深く北條を敬慕し、その敬 慕の情は終生かわらなかったし、北條もまたつねに西田を愛し、西田のために配慮を吝ま なかった。―中略―西田が四高講師、山口高校教授等になったのは北條の配慮によるもの である」(竹内良知『西田幾多郎』東京大学出版会、1970年)。
したがって、北條をその学生時代から尊敬し、また種々世話になり、北條を最もよく知 る一人であった西田幾多郎は、恐らく強い報恩の気持ちをもって、大部かつ周到な『廓堂 片影』を世に送るのに協力したのであろう(実際の編纂者は、旧制武蔵高校の発展に寄与 した、山本良吉である)。
その『廓堂片影』の「廓堂年譜後附」(人物紹介)の冒頭では、宋学の大儒・程明道の
「明道行状」の描写を引用する事から始めている。すなわち、「先生資稟既異、而充養有道、
純粋如精金、温潤如良玉、寛而有制、和而不流、忠誠貫於金石、孝悌通於神明」などを引 用して、「明道先生は命世の大賢であってもとより後人の妄りに企及すべきではなけれども、
仮に北條先生を以て之に視なぞらへれば、規模の大小などは姑く置き、双方人物の大体の模様 何となく彷彿として相似たるものがあるが如く感ぜられるのである。」と述べている。西田 などの叙述を総合すると、寡黙、悠々、実行力、道徳性などが北條を表すに適当な言葉と 言えよう。
北條校長時代すでに教官だった河合義文は、後年「北條校長時代は―中略―三四年間の 短期間なりしが、思ひ切った刷新方針断行せられ、教官会議にても御自分の御考へが充分 徹底するまで翌朝一時二時頃までも続けらるること珍しからざる所謂蛮勇振でした。」(「四 高に対する回想」『同窓会報』第25号、1938年)と、この時代の教官会議の熱心さを書き 残している。以下、この時代の北條校長の主な施策をみてみよう。