20世紀初頭の四高
「総合共通選抜制」の実施と四高 北條校長時代の最末期の1902(明治35)年4月25日、
文部省告示第82号「高等学校大学予科入学試験規定」により、全国の高等学校入試は、受 験者にどこでも自由に選んで志望させ、成績順により定員の埋まり次第、第二志望、第三 志望に回すといういわゆる「総合共通選抜制」となった。この当時の入試制度変更後の四 高の状況については、以下のような証言が残っている。
幸いにして私は第一志望の四高へ入ることができたが、他の入学生は多く他の高等学校を 志望していて、四高へ廻されて来たのであった。特に東京の出身者で一高を志望して金沢へ 流された者が多かったので、教室内は従来の純朴なカラーが失われて、妙に東京風のハイカ ラに変わって行った。(1905年二部工科、清水与七郎)
なお、旧制高校では1908年からは再び「学校別入試制」に戻り、1917、18年にはまた
「総合共通選抜制」が実施された。
吉村寅太郎校長時代 1902(明治35)年5月北條校長が新設の広島高師校長に転出し、
吉村寅太郎が第六代校長(在任1902年5月〜11年8月)となった。吉村は、仙台の二高 校長時代に校長辞任を要求する大規模な学校騒動(1897年)が起こり、その結果文部省 参事官に転じ、その後一時東京で女学校経営に携わっていた。しかし、四高においてまた 学校騒動(「四高事件」)に見舞われる事となり、それが原因で後述するように失意の内に 退職する事となった。
ともあれ、吉村校長着任当時の1902年5月16日付の北国新聞には、「吉村新任四高校長 の談片」として、次のような内容の文章がある。
すなわち吉村新校長は、外山正一が「二十人位の教員に各官宅を与へ之に生徒を分収し 所謂家族的生活をなし監督をなさば可なり」と語った事を紹介し、「自分は此事に付未だ定 説を有せず前任の北條君の行ひ来りたる方針を聴き好ければ之を踏襲せん考へなり云々」
と述べている。これは、北條校長の音頭ではじめられ、四高の特徴となりつつあった公認 下宿(後述)の制度の継続を言っているのであろう。事実、前述したように吉村校長時代 にも公認下宿の制度は継続した。
校風確立運動 1905(明治38年)1月10日金沢市内の学校が大規模な動員をして、旅順 開城を記念した2万人規模の大堤灯行列を挙行した。四高からもほぼ全生徒がこれに参加 した。日露戦争という臨戦態勢の中で、全国的にいやが上にも国家意識が高揚していた。
将来の日本を担うエリート予備軍としての旧制高校生の間でも、この様な雰囲気の中で校 風確立の運動が高揚したと思われる。四高においても同様であったと考えられる。
校風の確立を求める議論は早くからあったが、富山県高岡中学出身で1904年一部英法 入学の河合良成(後小松製作所会長)をはじめとした三々塾生が中心となって起こした校 風確立運動は、目覚ましいものがあった。『時習寮史』でも、校風確立運動を三期に分けて いるが、この時期を一期とし、「河合良成君を中心とする三々塾に指導力のあった時代であ って、意気たるや実にすさまじく、その論は一朝にして校風を改革しつくさんとする如く であった。」と評している。
河合は後に、「私の四高でやった『学生政治』の内容は、大部分北辰会雑誌二年間の記事 となって残されている。即ち明治38年秋から40年夏に至る満二年間、私は同会誌の編集 主幹として自分でその大部分を書きなぐったので、自分のやったことが全部歴然として残
されている。」(『明治の一青年』講談社、1969年)と語っているが、なるほど当時の『北 辰会雑誌』は、河合に牛耳をとられていた感がある。河合の校風確立運動に協力した立場 からは、品川主計の次のような記録が残っている。
二年生時代の事件といえば、まず校風刷新運動に指を折るべきだろう。はっきりとは覚え ていないが三十九年の春頃であった。或日河合良成君がやって来て、今、校風は大いに紊れ ている。今にしてこれを正さずんばというようなことをいう。―中略―かくて河合君主唱の もとに大運動が始まった途端に主唱者の河合君は脱退し、北辰会雑誌に弁解めいた名文(?)
をかかげてしまった。(1907年一部英法)
河合自身の後年の回顧に戻ると、河合のこの強烈な意欲には、当時本人が愛唱してやま なかった幸田露伴の長編詩「出廬」の強い影響があったという。また、西田(幾多郎)や 三竹(欣五郎)教授らの教えをうけ、当人達の真意は違ったかもしれないが、自分として は「その教えを地でいこう」という考えであったという。西田や三竹教授は、前述のよう に北條前校長の側近であり、当時三々塾の指導に熱心にあたっており、北條校長の理念を その退任後も実践しようとしていた面があったと考えられる。
なお、品川の文章で「北辰会雑誌に弁解めいた名文」を書いたとあるのは、河合良成の
「狂夫言」(『北辰会雑誌』第47、48号所載)の事で、本人の後の説明では、「校風問題で 熱狂している何人かの有志が清勝館という雨天体操場の中で、時刻を期して遊郭通いの常 習性のある一生徒に対して鉄拳の雨を降らした。」ところが、自分は校風確立のためにはじ め鉄拳制裁を肯定する発言をしていたが、その後「鉄拳制裁は穏やかでないとの悔悟心が 自分を突き上げてくる」ようになり、前記文章を公表し、校風改革の表面から撤退する事 にしたという。なお、河合は、その後東京帝大法学部に入学したが、3年生くらいから強 度のノイローゼになった。しかし、それもなんとか克服し、特に戦後、財界・政界に大活 躍した事はよく知られていよう。
南寮火事(超然火事)と超然主義の標榜 1906(明治39)年3月19日未明、多くの寮生 が近くはじまる試験に備え、勉強に余念がなかった時習寮の南寮で火災が発生し、南寮は ほぼ全焼してしまった(当時の北国新聞によれば、焚き火の不始末が原因とされ、吉村校 長は後に文部省の処分を受けている)。これが有名な「超然火事」である。
この時、38名の有志学生が敢えて焼け跡に立て籠もり、自炊生活を継続した。「乳牛を 二頭ばかり買ひこんで残留寮生に限り一合二銭のミルクを提供することも実施して、いよ いよ籠城超然の態度に拍車をかけた」。また、彼らは卒業の年(1908年7月)に「超然趣 意書」を書き残した。その「超然趣意書」には次のようなくだりがある。
然ラバ即チ所謂超然主義トハ何ゾヤ、超世脱俗ヲ其本領トシ、社会ヲ全然没交渉ナルハコ レソノ消極的方面ナリ。之ニ反シ混沌タル社会濁流ノ中ニアリテ而モ之ニ感染スルコトナク、
尚進ンデ之ガ指導又任ニ当ルハコレ其積極的方面ナリ。我時習寮ノ取レル所ハ後者ニシテ之 ヲ実現セントスルニハ、先ヅ協和親睦以テ高潔ナル共同的団欒ノ真趣味ヲ解シ一意智徳ノ砕 励身体ノ健全ニ力メ、礼譲ヲ重ンジ、威儀ヲ正シクシ廉恥ヲ励ミ志操ヲ固クシ、苟モ浮薄ノ 行動傲慢ノ挙動アルナク能ク諸般ノ寮規ヲ厳守シ、師長ヲ尊敬シ学友ヲ親愛シ、堅思不抜ノ 精神ヲ発揮スルニアリ。
これが、のちに四高の校風を象徴する事になる「超然主義」の起源である。「身体ノ健全 ニ力メ、礼譲ヲ重ンジ」の語は、運動部活動が盛んとなり礼儀を重視したその後の四高の 特徴をすでに予言しているともいえる。
なお、尾佐竹堅「われ等の四高時代」(『三々塾』<創立90周年記念>)に、「校風問題 の喧しくなりましたのは、四高時習寮の南寮が炎上したことに浅からぬ因縁があるのです。
―中略―この超然派の総代が山形県の産小林鉄太郎君(北京鉄路学院長)で」あったとい う証言がある。
「超然」の語は、当時32歳ですでに病没していた元二高教授で文学者高山樗牛が高唱し ていた。また、明治憲法下の初期議会における政府首脳の基本姿勢を表す言葉として使わ れていた。例えば、「政府ハ常ニ一定ノ方向ヲ取リ、超然トシテ政党ノ外ニ立チ至高至正ノ 道ニ居ラザルベカラズ。」(憲法発布翌日、黒田清隆首相演説、1889年2月12日)、同時代 の北国新聞も「我北國新聞は超然として党派外に卓立す」と標榜していた。したがって、
四高のみの独占用語ではないが、四高の校風を象徴する語として「超然」が定着するのは、
この事件が契機であった。なお、この時以後「超然趣意書」の奉読は、時習寮の恒例とな っている。
ともあれ、この時の学生籠城の経緯は文部当局も動かし、「文部省はとくに、視学官を派 遣し、籠城生活の真摯さに打たれたその報告に基づき、純真な生徒の期待を裏切るに忍び
図1−3 「超然火事」の際の北国新聞号外