校友会運動部の発足
1892(明治25)年10月16日、「会員の美徳を養成し一致協同以て校風を発揚し併せて 身体知識の発達をはかる」目的で「第四高等中学校学友会」が創設された(『北の都に秋た けて』、1972年)。四高における運動部の発足である。「第四高等中学校学友会」は運動部 と文化部に分かれ、生徒の自発的な組織ではあったが、会員には特別会員として教職員が 加わり、中川元第2代校長が会長に就任している。その運営は会員の拠出する会費により 賄われていた。撃剣部・弓術部・ベースボール部・フットボール部・陸上運動部・遠足部 のほか、後には見られない相撲部を加えた7部であった。また翌93年10月には新校舎落 成記念運動会が開催されて、紅白テニス大会・ベースボール・フットボール・弓術・高跳 び・竿跳び・二人三脚競争・提灯競争・チャンピオンレース・障害物競争・撃剣野試合が 行われている。どちらかといえばレクリエーションゲームや撃剣野試合といった未組織な 武術が行われており、これらは学友会運動部が発足当初まだ生徒の個人を主体とした任意 団体的な性格を持ち、全体を優先させる社会的な統制が加わっていないスポーツを展開し ていたことをうかがわせる。
しかしながら、本来的に生徒の自主的な任意団体でありながら同時に学校側の管理組織 下に置かれて出発したところに、その後の旧制高等学校運動部を特色づける基本的な性格 がある。つまり、教職員も含めた全員参加を建前とし、その目的とするところは全校の団 結と、文武にわたる諸技芸の錬磨、つまり課外活動を通じての全人的修練を目指すこと、
そしてひいては校風を引き上げるに役立てようということで、戦後の個人の権利の上に立 った自治会組織の体育会系運動部とは全く性格が異なるものと見ることができる。
学友会は1893年夏に内部的な紛糾のために学校当局から解散を命ぜられ、またこの時 新たに「第四高等中学校校友会」が創設されたと見られる(『旧制高等学校全書第七巻』生 活教養編)。これらは初期の学友会の組織基盤が未成熟であったことを物語るが、翌1894 年2月「第四高等学校北辰会」として再結成された。その名は「子曰わく、政を まつりごと 為すに徳 を以ってせば、北辰、その所に居り、衆星之に共むかうが如し」(論語為政篇)からとられた。
さらに同年医学部職員生徒の十全会も結成された。1899年にはこの2つを統一して新た
な「第四高等学校校友会」が結成された。「構内諸会を統一して一大家族的団体を組織し、
学芸体育を融和し、兼ねて校風を発揚する」趣旨であった。もっとも2年後の1901年に は医学部が金沢医学専門学校として分離されたため、校友会も分離され、ここに再び、「第 四高等学校北辰会」が復活することになった。1899年の北辰会には、運動部として、弓 術部・剣術部・柔道部・ベースボール部・ロンテニス部・フートボール部・遠足部・漕艇 部の8部が置かれている。こうした運動部はそれぞれどんな特色を持ち、どのような活動 を展開したのであろうか。それを知るには旧制高等学校における運動部の歴史的な背景を 理解しておかねばならない。
パブリックスクールのアスレチックスポーツ
もともと、わが国の旧制高等学校制度はドイツのギムナジウムやフランスのリセとの性 格的類似が指摘されてきた(「大正七年一月一七日臨時教育審議会議総裁子爵平田東助の高 等普通教育に関する件に対する答申」、『明治以降教育制度発達史』、第五巻)。だが指導者 層の育成を範とした「ジェントルマン教育」の理念や、「校風による人格形成」といった教 育のあり方、さらに運動部活動のあり方を考える時にイギリスのパブリックスクールとの 類似性を想起しないわけにはいかない。というのはわが国の旧制高等学校や諸学校では、
しばしば「ワーテルローの戦勝はイートン校の運動場にあり」などとという言葉でイギリ スのイートン、ハーローなどのパブリックスクール教育が引き合いに出されたり、あるい はそのスポーツ教育が賛美されているからである(例えば、奥原政治郎「校風論」、石川県立 第四中学校『しら峰』第2号、1906年)。ではそのスポーツ教育とはどんなものであったか。
19世紀イギリスは多くの近代スポーツを発明したが、なかでもサッカーとラグビーは、
パブリックスクールが生みだしたものといってよい。もともとこの2つは、中世に盛んに 行われたモブ(群衆)フットボールを源流とする。街中や郊外の野原で、大勢の男たちが 豚や牛の膀胱を奪い合う、血生臭く、時には死人が出るほどの荒っぽい遊戯だった。パブ リックスクールの生徒たちがフットボールに興じるようになったのは18世紀後半から19 世紀初頭であるといわれるが、当初寄宿舎制度をベースにした下級生いじめの手段に使わ れるなど、乱暴な遊びの域を出ていなかった。こうした中で、チームスポーツが人格教育 に役立つことに注目した教師たちがいた 。代表的人物はラグビー校校長アーノルド
(1795〜1842年)である。彼はチームの勝利をめざして各人が真剣に勇敢に、最後まで プレイする過程、そして時間が来て試合が終了したら勝敗の結果にはこだわらない態度
(ラグビーの試合終了が「ノーサイド」と呼ばれる、つまりどちらが勝った負けたというこ とはないという宣言にその真骨頂が表れている)に生徒の性格形成上の効果を認め、教育 に取り入れたといわれている。つまりそれまでの一般的なスポーツと違って、真面目であ ること、真剣に競技や練習をすること、チーム内の様々な役割を分業分担すること、上級 生や下級生の厳格な区別などを特色とする新しいスポーツを作り上げた。こうしたスポー ツはアスレチックスポーツ(athletic sport)と呼ばれた。athlonとは元来賞のことであ
り、athleticsとは賞をめざして真剣に競い合うことを意味した。パブリックスクールでは アスレチックスポーツとしてフットボールが奨励され、19世紀半ばには学校同士の対校試 合も行われるようになり、その卒業生たちによって各地に次々と同種のクラブがつくられ、
さらに全国的に統一されたルールの必要性が叫ばれ始めた。こうして1863年、フットボー ル協会が結成されて手を使わないルールが制定され、現在のサッカーが生まれたのであり、
一方、手を使うルールのラグビーフットボールユニオンも1871年に結成された(山本浩
『フットボールの文化史』)。
綱紀粛正と運動部への期待
わが国の旧制高等学校校友会運動部は、先に見た第四高等学校もそうであったように、
生徒の自主的な任意団体から出発したものの、当初から生徒の人格・性格形成や体力の増 強といった個人的な資質の育成が一方で意図されるとともに、校風の発揚と刷新・風紀の 粛正・集団的な徳性の涵養を意図した文部省や学校当局の意図によって、積極的な運動部 活動の奨励や援助が行われた。これは文弱主義に流れたり、近代的な個人意識に基づいた 学校や教員の権威主義的な方策に対する反発、放縦などに対する「風紀粛正」策の1つと して捉えられるものであった。例えば1906(明治39)年6月牧野伸顕文相は訓令によっ て「学校風紀や寄宿舎の改善、家庭連絡、学校図書の制限」などを試みて、当時の学校騒 擾の沈静化を図っている(岸野雄三・竹之下休蔵『近代日本学校体育史』、東洋館、1959 年)。四高でも例えば1900年には北條時敬校長が生徒の禁酒令を断行したり、監督教官規 定を設けて生徒の校内外における品行、学課出欠の取締などの策を講じている。校友会運 動部の奨励には為政者の風紀粛正といった期待も少なくはなかったのである。
また、それにつれて近代的個人を養成するイギリスのアスレチックスポーツの文化的特性 は、そのままの形で旧制高校のスポーツ原型に導入されたのではなく、日本的な武士道の色 彩を強く帯びた独特のスポーツ像を結ぶことになった。このため、旧制高等学校において発 展していったスポーツは、一般から見てかなり独特の性格を持つものに変質していった。
一言でいうならば、旧制高校におけるスポーツは、個人的な楽しみごと、或いはトレーニ ングの域を出て、集団として高校生活を構成する特殊な精神的要素となった。特に一定の競 技を以てする対校試合、インターハイならびにその応援行為は、旧制高校の雰囲気を特色づ けるに欠かせぬ大きな行為となった。明治から大正にかけての時期、昭和に入ってからもそ の都度応援歌や壮行歌が作られ、年を重ね、回を積むにしたがい、独特の対校戦の雰囲気が 盛り上げられ、それに伴う伝統が形成された。そして当の高校だけでなく、学生界一般にも 大きな刺激となり、また地元市民の興味と支援をも呼ぶようになったのである(高橋佐門
「旧制高等学校における運動競技について」、『旧制高等学校史研究』第1号、1974年)。