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雍正期における姦夫を以て罪に抵てる規定の形成

第二章 清代前期における「殺死姦夫」条の規定とその裁判実態

四 雍正期における姦夫を以て罪に抵てる規定の形成

次に、上述のような時間・空間の密接さや、加害者と被害者の間の親族関係 を軸として「殺死姦夫」の事案を考察する視点を離れて、夫が姦婦のみを殺し た事案についての考察をしたい。このような「殺死姦夫」の類型に注目する理 由は、この類型について、雍正5(1727)年に「擬抵」に関する新しい規定が 制定されているからである。「擬抵」とは、夫が姦婦のみを殺した場合に、実 際に殺人行為を行った夫ではなく、姦夫が殺人の責任を負うという規定である。

この条例は次のように定めている。

凡そ姦所で姦通者を捉えたが、姦夫は逃げ、姦婦のみを殺したと称している 場合、もし(官府の)取り調べの結果、(姦通の事情について)確実な証拠 がない場合には、なお律によって絞に擬するが、もし本夫が俄に怒りのまま、

姦婦を殴り殺したが、姦夫が即座に逃げた後に、捉えられて官府に送られ、

(官府の)取り調べによって、姦通が事実であり、姦夫もそれを認めた場合 には、姦夫を絞監候に擬し、本夫を杖八十に処する129

凡指稱姦所獲姦、姦夫逃脱、止將姦婦殺死者、若審無確拠、仍依律擬絞外、

如本夫於姦所獲姦、一時氣忿、將姦婦殴死、姦夫当時脱逃、後被拏獲到官、

審明姦情是実、姦夫供認不諱者、將姦夫擬絞監候。本夫杖八十。

この条例の内容から見ると、夫が現場で姦通者を捉えたが、姦夫が現場から 離れた後に、妻のみを殺した場合には、姦通の事実を証明することができなけ れば、夫を律によって絞に処するものとされている。ただし、姦夫が捉えられ、

姦通の事実が証明されれば、姦夫を絞監候に処し、夫を改めて杖八十に処すも のとされている。すなわち、夫が姦通を犯した妻を殺した責任は、実際には殺 人を犯していない姦夫に転嫁されるのである。

なぜ雍正5(1727)年にこの条例が制定されたのかについては、「清実録」に おける次の記事が注目に値する。

刑部などの衙門が、「宛平県民の重陽は、彼の妻の龔氏が張起鳳と姦通した ので、龔氏を殴り殺した。張起鳳は、殴られて逃げてしまった。重陽を絞監 侯に処するべきである」と奏上した。聖旨を得たところ、「律においては、

姦婦のみを殺した者を、「殴妻至死」律によつて絞に擬する、と載せられて いる。(この規定は、)姦通の事情が事実ではない恐れがあり、(この規定を 以て、)名目を仮りて妻を殺す弊害を絶つためである。姦通の事情が事実で あり、しかも姦夫が殴られ(その場から)逃げた場合、及び官府に捉えられ た後に(姦通の事実を)承認した場合に、もしこの(規定)に照らして罪責

129 『光緒会典事例』卷801、刑律人命「殺死姦夫」条、冊1915190頁。

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を擬するとすれば、それは適当ではないであろう。九卿会議を開催して具奏 せよ」とのことであった。(本件を)議論すると、本夫は姦通の現場で姦通 者を捉え、妻を殴り殺し、姦夫は(その場から)逃げた後に、捉えられて官 府に送られ、(官府の)取り調べによって、姦通の事情が事実であり、姦夫 もそれを認めた場合には、姦夫を絞監候に擬し、本夫を「不応重」律に照ら して、杖八十に処する。(これを)恒久的な定例といたしましょうと上奏し たところ、この議のとおりにせよ、との仰せであった130

刑部等衙門奏。宛平縣民重陽。因伊妻龔氏与張起鳳通姦、將龔氏打死、張起 鳳被打走脱。重陽応擬絞監候。得旨、律載止殺姦婦者、照殴妻至死律、擬絞。

蓋恐姦情不実、將此杜借名殺妻之弊。若姦情是実、而姦夫被殴走脱、及拏獲 到官承認者、亦照此擬罪、殊未允協。著九卿会議具奏。尋議、本夫於姦所獲 姦、將妻殴死。姦夫走脱、後被拏獲到官、審明姦情是実。姦夫供認不諱者。

將姦夫擬絞監候。本夫照不応重律、杖八十。永為定例、従之。

もともと順治3年律と雍正3年律における「殺死姦夫」条においては、妻の みを殺した場合に関する規定として、「即座に現場で姦通者を捉え姦婦のみを 殺したとき、または現場ではなく、姦夫が既に去った後に、姦婦に供述を強要 してこれを殺したときは、倶に『殴妻至死』律に依る」と規定されていた。こ の規定の目的は、夫が姦通の事情を口実にして、実際に姦通を行っていない妻 を殺すのを防止することにある。言い換えると、姦婦のみを殺した場合には、

姦通を証明することができないと、夫は無罪とならない。ただ、姦通を証明す ることができる場合に、妻のみを殺すことは果たして禁止されているのか、律 本文や条例には明確に規定されていない。

しかしながら、姦通の事情を証明することができるのに、なお姦婦のみを殺 した夫を「殴妻至死」律によって絞監候に処することは、犯罪行為と刑罰との 間に不均衡が存するのではないかと、清代前期の官員にも感じられたと思われ る。そして、姦婦のみを殺した事案をいかに処理すべきかについて、上記の『清 実録』の記事においては、刑部の官員はより明確な規定を制定することを求め て、皇帝に上奏した。その結果として、この「擬抵」の条例が制定されること となった。

他方、雍正5(1727)年に「擬抵」条例が制定される前における妻のみを殺 した事案に関する裁判の実態については、残念ながら、『例案全集』や『成案 彙編』など清の初期の事案が載っている裁判史料には、雍正5年より前の事案 は、僅かに康煕8(1669)年の「賈機一案」1311件が存在するのみである。こ の事案は、賈機の妻が(他人の)来福と姦通していたところ、ある日賈機が、

妻が共に同宿せず、また自分を罵ったために、刀を持って妻を刺殺したことを

130 『世宗憲皇帝実録』巻62・雍正510月己丑条。

131 『例案全集』卷22「因妻有姦致殺成案」、人命、葉6 71

自認したというものである。

この事実から見ると、賈機は姦通の現場で姦通者を捉え、即座に姦通者を殺 したのではない。妻が他人と姦通したことは、賈機が妻を殺した遠因であるか もしれないが、実際の引き金は夫婦喧嘩であると思われる。原審は「殴妻至死」

律に照らして絞監候に擬したが、刑部は、「賈機の妻が来福と姦通し、夫を『い らねえ(不希罕)』と罵ったことから、(賈機は)一時の怒りのために、刀を持 って妻を殺したのであり、情に宥すべき点がある」として、賈機を枷号二ヶ月 鞭一百に処すものとした。この事案において刑部が採った見解は、姦婦のみを 殺した事案については裁判官による情状酌量の余地が大きいということを示 すものと考えられる。

しかしながら、「擬抵」の規定については、「賈機一案」とは異なって、姦婦 のみを殺した夫に対する情状酌量という面が重視されているのではなく、夫と 姦夫との間の責任の分担という点が重視されているものと言えよう。確かにこ の規定については、従来のように姦通の事情を口実として恣意的に妻を殺すこ とを防止するために、妻を殺害した夫を簡単に減刑することができないように する面があるが、より重要な点は、姦通者に対する制裁を重視する面である。

言い換えると、姦婦を殺した者こそ夫ではあるものの、その原因は姦通を行っ た姦夫に由来するものであるので、最終的に殺人の責任を姦夫に転嫁すべきも のとされているのである。この規定によって、ある意味で姦夫に対する制裁が 加えられていると見ることができよう

「擬抵」の規定が制定された後の雍正 8(1730)年に起こった「王朋一案」

を通して、この条例の適用の実態を垣間見ることができる。

事案⑦「王朋一案」132(雍正8(1730)年3月奉旨・山東)

王小雷は王朋の小功服兄で、中庭を隔てて住んでいた。王朋は15歳であり、

(妻の)鄧氏はすでに19歳となっていた。(鄧氏は)未だに淫心を遂げてい なかった。王小雷がたまたま門の前を通り過ぎたので、鄧氏は遂に彼を部屋 に招き入れて姦通した。雍正 7 年 7 月5 日の晩、鄧氏は夫が外で納涼して いるのを窺って、また王小雷を部屋に招き入れ、彼を隠した。その後、王小 雷は王朋が熟睡していると聞き、鄧氏と姦通した。王朋の父の王之瑚は、姦 通の事情を尋問して、鄧氏の母の家に告げに行った。そのため、鄧氏は羞憤 して、水に身を投げた。鄧氏は、王有訓などに救われて、まだ死亡してなか ったが、王朋は激怒し、彼女の首を繩で絞めて、即座に死亡させた。その後、

王小雷が(官府に)捉えられ、姦通したことを認めた。

原審の山東巡撫は、「夫が姦通の現場で姦通者を捉え、俄に怒り、姦婦を殺 したが、姦夫が即座に逃げた後に、捉えられて(官府の)取り調べによって、

132 『成案彙編』巻17「本夫非于姦所獲姦止殺姦婦將姦夫擬絞案」、人命二、葉77 72