第一章 明代における「殺死姦夫」条の成立に関する考察
五 明律における「殺死姦夫」条の性格の再検討
以上、明代までの「殺死姦夫」条の成立経緯及び同条の明代における展開を 考察してきた。すなわち、元の規定を分水嶺にして、単独の「殺死姦夫」条の 有無によって、唐律・宋刑統と元の規定・明律という2つの異なる体系が存在 し、さらに各々の明律に対する注釈書を通して、「殺死姦夫」に関する法理が より緻密に展開されてきた。ここまでの点を前提として、さらなる検討を要す ると思われる問題は、唐代から元代までの規定に比べると、明代における「殺 死姦夫」条の特徴はどのようなものなのか、また、明代における同条文の捉え
84 『明律集解附例』(五)巻27、捕亡、「応捕人追捕罪人」条、1892頁。
85 『臨民寶鏡』巻9、捕亡、「応捕人追捕罪人」条、37葉。
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方はどのようなものであったのか、という問題である。そこで、これまでの考 察の結果に基づいて、以下、3つの点を中心として、明律における「殺死姦夫」
条の性格についてさらなる分析を行う。
(一)薛允升による「殺死姦夫」条に対する理解・批判について
唐律における「殺死姦夫」に関する規定と明律における「殺死姦夫」条との 比較について、参考に値するのは、清代の律学者の薛允升により書かれた『唐 明律合編』という注釈書である。
まず、本章ですでに言及した『唐律』捕亡律第3条「被殴撃姦盗捕法」条に ついて、薛允升は以下のような見解を表している。
これは、傍人が姦通・強盗及び凶行などを行った人を殺すことに関わる律で ある。(この規定が)明律には載せられていない理由については、未だ明ら かでない。(この規定が存在しないと、)姦通、強盗、凶行といった行為を行 うことを目撃したとしても、そうした(犯罪行為を)咎めることが許されな くなるのではないか。これは、なお律意に合うと言えるのか。また、唐律で は、拒捕と不拒捕(の区別)が重視されているが、今の条例では、応捕、非 応捕(の区別)が重視されている点も、また各々異なる86。
此旁人殺死姦盜及行兇罪人之律也、明律不載、未知何故。是目睹行姦、行盜、
行兇諸事、皆不准過問矣、豈律意乎。再、唐律重在拒捕、不拒捕、今例則重 在応捕、非応捕、亦各不同。
まず説明しておきたいのは、ここでいう「今例」とは、おそらく明律ではな く、清の条例であると考えられることである。しかしながら、清律の律本文と 部分的な条例は、明律の規定を踏襲したものであるため、清律は明律と同じ体 系によるものと考えてよいと思われる。そして、薛允升の見解によると、唐律 の「被殴撃姦盗捕法」条を明律の「殺死姦夫」条と比べたとき、前者では、「拒 捕・不拒捕」を中核とする緊急危害に対する防衛的な機能が重視される一方、
後者では、「応捕・非応捕」を中核とし、姦通者を捕えるべき者であるか否か が重視される。さらに言うと、ある意味で、「殺死姦夫」条が明代に確立され てくる過程の中で現れていた変化、すなわち緊急危害に対する防衛的な規制か ら姦通行為の抑止への転換を、薛允升はすでに意識していたものと言えよう。
また、薛允升は『唐明律合編』における「殺死姦夫」の節の冒頭に「律後小 註」の内容について述べている。そして、薛允升はこの「律後小註」の内容に 対して、以下のような評価を述べている。
86 『唐明律合編』474頁。
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この小註はいつ起こったものか分からないが、倶に律の不備を補っており、
最も簡潔かつ適当なものである。後に屢々削除・改定を経て、遂にこの(小 註の)意味は全く失われてしまった87。
此小註不知起於何時、然俱係補律之所未備、最為簡当。後経屢次刪改、遂全 失此意矣。
『唐明律合編』に記載されている「律後小註」の内容から見ると、その内容 は崇禎朝の『臨民寶鏡』の内容とほぼ一致している。そのため、薛允升にとっ て、明代最後の注釈書の内容に当たるものが、おそらく「殺死姦夫」条の完全 な形であると捉えられていたのであろう。
また、薛允升は、「殺死姦夫」条の部分的な変化を把握していた一方で、唐 律に基づいて「殺死姦夫」条を批判する姿勢を強く示していた。例えば、前述 のように、元代では「姦通の現場で即座に姦夫・姦婦を殺したときは、無罪と なる」という原則が確立されていたが、この点について、彼は以下のような見 解を述べている。
即座に(姦通者を)殺したとき、罪責を論じないということは、すなわち「夜 故なく人の家に入るとき、家宅の主人が即座にこれを殺しても、罪責を論じ ない」という意である。唐律にはこの条文は存在しないが、これはすべて「夜 無故入人家」に含まれていたと考えられる88。
登時殺死勿論、即夜無故入人家、主家登時殺死勿論之意也。唐律無此名目、
蓋統括於夜無故入人家之内矣。
このように彼は、明律における「殺死姦夫」条では、「姦通の現場で即座に 姦通者を殺すことは無罪となる」という中核的な原則は、唐の時代にすでに「夜 無故入人家」条に内包されていたものと考えている。この点に限らず、彼は、
『唐明律合編』における「殺死姦夫」の節において、唐律の規定が明・清律よ りよいものとする点をいくつか指摘している。そうすると、薛允升にとっての
「殺死姦夫」条の法理的な原則は、唐律の「夜無故入人家」条から切り離すこ とができないのではないかと考えられる。
このように、「殺死姦夫」条の法的な性格として、薛允升は主に「夜無故入 人家」条の側面、すなわち緊急危害に対する防衛的な規制としての性格を重視 しているものと考えられる。しかしながら、本章で考察した明代の注釈書から 見ると、姦通者を殺す行為について、単に緊急危害に対する防衛的な規制とい う側面からだけ取り扱うのではなく、他の側面から「殺死姦夫」条を理解・解
87 同前、474頁。
88 同前、475頁。
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釈する見解が、徐々に明代の中期・後期に浮かび上がっていたと考えられる。
特に、姦通者を殺すことが正義の行為であると観念されていた点は決して無視 できない。
(二)元代の規定と明代における「殺死姦夫」条との関係について
では、なぜ明代において唐律・宋刑統に存在しなかった「殺死姦夫」条が生 じたのであろうか。本章では、その理由について、元代の遊牧民族の慣習が漢 民族の法に影響を与えた可能性を示唆した。ここで改めて私刑主義の視点から、
元代の規定と明代の規定との間にどのような関係があるかについて検討して みたい。
まず、遊牧民族の慣習法においては、姦通者を死刑に処する規定があったと いう点からすれば、遊牧民族にとって姦通の犯罪としての悪性は、従来の漢民 族の感覚より遥かに強いものと考えられる。このような前提があるため、重大 な悪性を有する姦通者を私人が殺す行為を無罪とする規定が生じたことも、不 思議ではないと思われる。ただ、前述の薛允升の見解が指摘しているように、
明律における「姦通の現場で即座に姦通者を殺したときは無罪となる」という 中核的な原則は、唐律における「夜無故入人家」条に内包されていた点からす れば、姦通の現場で即座に姦通者を殺した夫が無罪となるという法的な効果に ついては、漢民族と遊牧民族の法とを問わず、同じ結果を導くことができると 言えよう。
では、漢民族と遊牧民族の法との間の異なる点は、一体どこにあるのであろ うか。注目に値するのは、前述の『元典章』における「任閏兒一案」である。
「任閏兒一案」において、夫が姦夫を縛って殺したときにも無罪となるという ことからすれば、この措置は「夜無故入人家」条の規定と相当に異なるところ があると考えられる。ずなわち、従来の「夜無故入人家」条においては、即座 に侵入者を殺した場合とすでに拘執についた侵入者を殺した場合とについて、
別々の措置がとられていた。こうした法理と異なって、元代においては、姦通 者がすでに拘執についたか否かを問わず、姦通者を殺した夫は無罪とされるの である。この点から考えると、元代の「殺死姦夫」とは、漢民族の「夜無故入 人家」条の法理と異なって、明らかにある種の私人による制裁として、国家法 により認められた行為であったものと考えうる。
明の『大明律』では、元の規定を踏襲した上で単独の「殺死姦夫」条が制定 されたが、元代の私刑主義をそのまま受け継いだものとは言えない。特に、姦 夫姦婦が拘執に就いたにも関わらず夫がこれを殴殺した場合については、前述 の「任閏兒一案」においてとられた措置とは異なって、明代の「問刑条例」に は、「夫が姦夫姦婦を拘執して殴殺した場合には、杖一百徒三年」という規定 が現れている。この点からすれば、明代においては、姦通者を殺した行為はも
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