第四章 清代末期・民国初期における「殺死姦夫」に関する変容
二 法典近代化の過程における「殺死姦夫」条の消失
以下において、「殺死姦夫」条の清代末期・民国初期における変遷について 考察を行うが、変遷の経緯について検討する前に、ここでまず「中華民国刑法」
の系譜について簡単に説明しておきたい。
(一)「中華民国刑法」の系譜について
清代末期の法典編纂の過程で起こった激しい論争を乗り越えて、清朝におけ る最初で最後の近代的な法典としての「新刑律」が宣統2(1910)年に完成し たが、翌年すなわち宣統3(1911)年に、清王朝は歴史の舞台から姿を消すこ ととなった188。
民国期に入ってからの、特に民国元(1912)年から民国38(1949)年までの 刑法典の編纂については、黄源盛の先行研究によれば、大きく2つの時期に分 けられる。すなわち、「民国初年における北洋政府時期(1912-1928)」と「南京 国民政府時期(1928-1949)」、である。黄源盛の見解に従いつつ、まずこの2つ の時期における刑法典の編纂経緯について概観しておきたい。
まず、民国初年の北洋政府時期における刑法典編纂について。民国元(1912) 年、北洋政府は袁世凱の大総統令により、「新刑律」のうち共和政体に合致し ない部分、及び「新刑律」の付則たる5 箇条の「暫行章程」を削除した上で、
他の大部分の規定を踏襲する形で、「中華民国暫行新刑律」を公布・施行した。
民国3(1914)年、袁世凱は礼教を守るべきことを理由にして、「新刑律」の付 則である「暫行章程」に基づいて、さらに拡大して「暫行新刑律補充条例」を 制定した。その後、法律編査館によって3 つの草案が作成された。すなわち、
民国4(1915)年の「修正刑法草案」、同7(1918)年の「刑法第二次修正案」、 同8(1919)年の「改定刑法第二次修正案」である。
188 清代末期における法典編纂の経緯について、島田正郎による先行研究は重要な参照価値が ある。島田正郎『清末における近代的法典の編纂』(創文社、1980年)167-202頁。
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次に、南京国民政府時期における刑法典編纂についてであるが、民国 16
(1927)年、国民政府は南京に都を定め、法典編纂事業を再開した。同年、国 民政府の司法部は前述の「改定刑法第二次修正案」を基として部分的に改正を 加え、「刑法草案」を起草し、翌年に「中華民国刑法」(「旧刑法」)として公布・
施行された。ただ、旧刑法が施行された時期は、僅かに7年であった。民国23
(1934)年、当時世界諸国の最先端の立法例や新たな刑法理論を参考にして、
旧刑法にさらなる改正が加えられた。その結果が、民国24(1935)年に公布・
施行された「中華民国刑法」である189。
(二)法典近代化の過程における「殺死姦夫」条から「当場義憤殺人」罪への 転換
以上、「中華民国刑法」の系譜について簡単に説明したが、「殺死姦夫」条の 削除について、この一連の法典編纂の中でまず注目すべきは「新刑律」である。
「新刑律」は、基本的にドイツ・日本などの法律を参考にして起草されたも のであり、伝統中国における最初で最後のヨーロッパ的な法典と言ってもよい と思われる。伝統中国法の『大清律例』とは異なり、「新刑律」の草案である 光緒33(1907)年の「刑律草案」190においては、すでに現代の刑法と同じよう に、総則と分則に分けられている。分則は大きく3つの部分に分けられる。す なわち、(1)直接に国家の存立と関わる条件を侵害する犯罪、(2)社会を侵害 し、間接的に国家を侵害する犯罪、(3)個人を侵害し、間接的に国家・社会を 侵害する犯罪、である191。
また、個人を侵害する罪の部分には11 の章があるが、その中で注目に値す るのは、第26 章の「殺傷の罪(関於殺傷之罪)」である。「殺傷の罪」の冒頭 にある説明によると、本章における諸犯罪の類型は、元々「大清律例」におけ る人命・闘殺の規定によって改定されてきたものであるとされている 192。こ の「殺傷の罪」の部分において、「殺死姦夫」条はすでに削除されている。
なぜ「殺死姦夫」条が削除されたかについては、残念ながら「刑律草案」に は明確な理由が記されていない。確かに、「新刑律」の制定過程において、礼 教をめぐる諸問題が激しく議論された部分は少なくない。特に「無夫姦」の存 廃に関する議論が代表的なものである 193。このような「姦通罪」の改正と関 わる議論と比べると、「殺死姦夫」条の削除についての議論はあまり見られな
189 黄源盛「中国法律文化的伝統与蛻変」(同注183前掲書所収)30-37頁によった。
190 「刑律草案」(黄源盛編『晩清民国刑法史料輯注』(上)(点校版)所収)35-202頁。
191 同前、87頁。
192 同前、160頁。
193 無夫姦の存廃について、黄源盛の先行研究が参考に値する。黄源盛「西法東漸中無夫姦存 廃之争」(同注183前掲書所収)231-283頁。また、「無夫姦」とは、まだ結婚していない女性、
または寡婦が他人と性行為を行ったときは、姦通罪となるということである。
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い。
ただ、「大清律例」における人命に関する罪の中で削除された犯罪類型につ いて、「殺傷の罪」の立法理由の中の「子孫、奴婢、及び妻妾を殺す」という 箇所で、「殺死姦夫」にも若干言及されている。その内容は以下のとおりであ る。
凡そ臣と民たる者は、国家の根本である。彼らの生命は、父母、尊長、本夫 に奪われるものではない。これは欧米諸国で公認された原則である。子孫、
奴婢、妻妾は、死(罪)に処すべき罪ではない場合は言うまでもなく、死(罪)
に処すべき罪であっても、なお審判官がいる。これは常人が勝手にすること のできないものである194。
この立法理由から見ると、一般人はどのような理由があっても、司法裁判を 経ずに勝手に罪を犯した者を殺してはならないという原則が、「刑律草案」に おいては重視されていたことが見てとれる。
また、「刑律草案」の分則から見れば、伝統中国法の特徴である、できる限 り犯罪類型を細分化するという立法の方式が、法典近代化の過程において徐々 に弱まっていく傾向が窺える。この点から見ると、姦通者を殺害した者を特別 に扱って減刑を与えるような規定が、「刑律草案」から削除されたことも不思 議ではないと考えられる。
ところで、「刑律草案」の総則の部分には、正当防衛の規定が導入された。
同草案 15 条 1 項の、「凡そ現在不正の侵害に対して、自己または他人の権利 を守るためになされた行為は、罪とならない(凡対於現在不正之侵害、出於防 衛自己或他人権利之行為、不為罪)。」という規定である。「刑律草案」のこの 規定の「沿革」においては、清律における「擅殺姦盗兇徒」に関する規定の中 に正当防衛の意味が含まれている、と明確に指摘されている 195。この点から 見ると、「殺死姦夫」と関わる行為は、「刑律草案」においては正当防衛に当た るものと考えられていたのではないかと推測することができる。
ここで改めて「殺死姦夫」条が削除された理由を検討すると、おそらく立法 方式の変化や、一般人が勝手に犯罪者を殺してはならないという原則が確立さ れたことと関連性があるのではないかと考えられる。具体的に言うと、立法法 式の変更によって、「殺死姦夫」条は単独の規定として分則に定められる必要 がなくなった一方、「殺死姦夫」における正当防衛の側面が重視されて、正当 防衛の概念に包摂されうることが示唆されている。
他方、本稿の序論で「当場義憤殺人罪」という犯罪類型に言及したが、この 犯罪類型が明確な形で姿を見せるのは、民国7(1918)年の「刑法第二次修正
194 「刑律草案」(『晩清民国刑法史料輯注』(上)所収)162頁。
195 同前、52頁。
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案」であると思われる。すなわち、「刑法第二次修正案」283 条1項の「現場に て義憤に激して人を殺した者は、1 年以上、7 年以下の有期徒刑に処する(当 場激於義憤而殺人者、処一年以上、七年以下有期徒刑)。」196、という規定であ る。この規定の立法理由は以下のとおりである。
本条は、原案にはなく、本案では、我が国の旧律及び外国の立法例を参照し 増入されたものである。義憤に激するとは、例えば、自己または親族が多大 な侮辱を受けた場合、或いは妻が他人と姦通した場合といった状況であ る197。
この立法理由には、ある程度の曖昧さがあると感じられる。なぜならば、参 照の対象とした中国の旧律及び外国の立法例が一体どのようなものなのかに ついて、明確に記されていないからである。また、立法理由が簡略に過ぎるた め、原案たる民国4(1915)年の「修正刑法草案」には存在しなかった「当場 義憤殺人」罪がなぜこの草案において設けられたのか、残念ながら現時点では まだ解明することができない。
ところで、大理院閉院の時まで、「当場義憤殺人」罪の規定は草案の段階に とどまっており、正式に刑法典に規定が設けられたのは民国 17(1928)年の
「旧刑法」においてである。そのため、民国17 年に閉院された大理院が「殺 死姦夫」と関わる事案を裁判するにあたり、「当場義憤殺人」罪のような特別 な犯罪類型により事案を処理することはできなかった。
三 「殺死姦夫」に関する大理院解釈例の紹介
前述のとおり、民国初期における大理院は、法律解釈を統一する権限と最高 裁判権という2つの権限を有した。以下では、前者を中心として考察して行き たい。
まず、法律解釈を統一する権限とは一体どのようなものか、簡単に説明する。
当時の「法院編制法」35条によると、「大理院の院長は法令を統一的に解釈す るために必要な処置を行う権限を有する。但し裁判官が掌理する各事案の裁判 を指揮することはできない(大理院長有統一解釈法令必応処置之権、但不得指 揮審判官所掌理各案件之審判)。」とされている。また、民国8(1919)年に頒 行された「大理院辦事章程」によると、「大理院の裁判官による法令解釈につ いては、法院編制法35 条但書の場合以外、同一の事類に対して拘束の効力が ある」とされている。こうした規定から見ると、大理院による法令解釈は、下
196 「刑法第二次修正案」(『晩清民国刑法史料輯注』(上)所収)731頁。
197 同前、731頁。
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