第三章 清代後期における「殺死姦夫」条の変化 ―― 条例の変遷を中心として ―― 75
二 清代後期における「殺死姦夫」条例の改正経緯について
清代後期における「殺死姦夫」条例に関する最初の改正事業は、乾隆5(1740) 年に行われ、それ以降、「殺死姦夫」条例の内容は徐々に変化していった。以 下では、前述の諸点について、清代後期における「殺死姦夫」条例の改正経緯 を考察する。
(一)主体と客体について
「殺死姦夫」条例の改正経緯の考察として、まず、「殺死姦夫」条が適用さ
134 喜多、前掲注21論文、5-8頁。
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れる主体と客体の範囲がどのように変化したかについて論ずる。すなわち、国 家法によって姦通を捉えることが許される者は一体誰か、そしてこうした者が 姦通を捉える権限を行使できる範囲はどこまでなのか、といった問題である。
以下では、この点について検討を進める。
1.主体について
「殺死姦夫」に関する規定が適用される主体とは、姦通者を捉えることが国 家法によって許される者を指す。概観的に言うと、清代前期においては、「殺 死姦夫」に関する規定が適用される主体は大きく3つの類型に分けられる。す なわち、(1)夫、(2)夫以外の親族、(3)同居人・応捕人、である。
姦通者を捉え得る者として中心的に位置づけられるのが夫であることは、後 期においても変わっていない。問題となるのは、夫以外の誰が姦通者を捉える ことができるかという点である。清律において、夫以外の者の捉姦に関する最 初の条例は、順治3年律の小註を踏襲して制定された雍正3年の条例であると 思われる。この条例の内容は第二章でも触れたが、説明の便を図るためここで 改めて引用する。
本夫の兄弟及び有服の親属、或いは同居人・応捕人は姦通者を捉えることが 許される。その婦人の父母、伯叔姑、兄弟姉妹、外祖父母が捕姦して、姦夫 を殺傷したときも、本夫と同じである。但し、卑幼は尊長を殺してはならず、
これに反したときは、「故殺伯叔母、姑、兄姉」の律によって、罪責を論ず る。尊長が卑幼を殺したときは、服制の軽重に照らして罪責を論ずる135。
この条例においては、姦通を捉えることができる主体として、夫の兄弟、有 服の親族、または同居人・応捕人が挙げられている一方、姦婦の親族(一部の 親族に限定される)が姦夫を殺傷した場合には、夫が姦夫を殺傷した場合に関 する規定も適用されるものとされている。
その後、この条例について乾隆5(1740)年に一部改正が行われ、その際に 同居人と応捕人が姦通を捉えることができる主体から削除された。そして、主 体となる者は、夫の兄弟、有服親族、及び妻の父母、伯叔姑、兄弟姉妹、外祖 父母のみに限定されることとなった。また、乾隆21(1756)年の改正によって 以下のような「条例19」が改定された。
「条例19」
本夫・本婦の伯叔、兄弟及び有服の親属は、皆姦通者を捉えることが許され る。即座に姦夫及び姦婦を殺した場合には、並びに「夜無故入人家已就拘執
135 『光緒会典事例』巻801、刑律人命「殺死姦夫」条、冊19、15191頁。
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而擅殺」律によって、杖一百徒三年に処す。姦通者を傷害した場合には、罪 責を論じない。即座にではなく姦通者を殺した場合には、「擅殺罪人」律に よって、絞監候に処する。姦夫を捉え、他の理由によってこれを死亡させた 場合には、また「謀故」によって論じる。姦通を犯した証拠があり、姦通者 がまた凶を逞しくして拒捕をしたならば、即座にではなくこれを殺したと しても、倶に「罪人拒捕」によって科断する136。
本夫本婦之伯叔、兄弟及有服親属、皆許捉姦、如有登時殺死姦夫及姦婦者、
並依「夜無故入人家已就拘執而擅殺」律、杖一百徒三年、傷者、勿論。非登 時而殺、依「擅殺罪人」律擬絞監候。若捕獲姦夫、或因他故致斃者、仍以謀 故論。如犯姦有拠、姦夫逞兇拒捕、雖非登時、俱依「罪人拒捕」科断。
「条例 19」の制定によって、夫以外の親族が姦通者を殺した事案に対する 措置が確定されたとともに、主体となる者は、本夫・本婦の伯叔、兄弟及び有 服の親族に限定され、これにより夫の側の親族と妻の側の親族の範囲が一致す ることになった。この点から見ると、主体となる親族の範囲は、雍正3年律よ り広げられたものと言える。
また、注目すべきは、法定刑の変化である。すなわち、雍正3年律において は、夫以外の親族(妻の側の親族については夫の側の親族よりも範囲が限定さ れる)が姦通者を殺傷した場合にも、夫が姦通者を殺傷した場合に関する規定 が適用されると規律されていたが、「条例19」により、加害者が夫である場合 と夫以外の親族である場合の法定刑が明確に分けられた。その結果ついて、以 下の「表3-1」にまとめておく。
表3-1
夫 夫以外の親族
現 場 で 即 座 に 姦 通 者を殺した
罪責を論じない 杖一百徒三年(「夜無故入人家已 就拘執而擅殺」によって)
即 座 に で は な く 姦 通者を殺した
杖一百徒三年(「夜無故入人家已 就拘執而擅殺」によって)
絞監候(「擅殺罪人」律によって)
「表3-1」を見ると、加害者が夫か夫以外の親族かを分けて、それぞれに対 する刑罰が明確に定められ、差別化されていることが分かる。具体的には、同 じように姦通者を殺したパターンであっても、夫以外の親族に対する刑罰は、
夫に対するそれよりも重いものとなっている。そうすると、「条例19」の規定 により、清代後期においては、夫以外の親族が姦通者を殺すことに対して厳罰
136 『大清律例彙輯便覧』巻26、刑律人命「殺死姦夫」条、3586-3587頁。また、本稿中に挙 げた条例の順序は、同書中に挙げられた順序に基づくものであり、「条例 1」以降の条例の番 号は筆者がその順序によって付したものである。
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化の傾向が生じていると考えられる。
他方、乾隆5(1740)年に同居人と応捕人が主体から削除された理由は一体 何なのか、なお検討する必要がある。『根原』では、同居人に姦通を捉える権 限が認められなくなった理由については、同居人のすべてが同姓であるわけで はなく、親族関係がない者さえいることがあり、こうした者に姦通を捉えるこ とを認めれば、怨恨によって他人を中傷する弊害を生ずるおそれがあるためと されている137。
また、第二章では、応捕人とは、官府の衙役であり、かつ犯罪者を逮捕する 義務がある者と述べた。そして、応捕人の姦通を捉える権限が削除された理由 については、応捕人が直ちに家の屋内に立ち入って姦通者を逮捕することが認 められるとすると、恣意的な逮捕が行われるおそれがあるため、応捕人が勝手 に人家に入って姦通者を捉えることは認められるべきではないと考えられた ようである138。
ところで、康煕期の『福恵全書』では、独居の婦人の姦通行為を抑止するこ とは、地保の義務であるとされている 139。ここにおいては、姦通及びそれを 捉えることは、一家の中にとどまる問題ではなく、村落共同体の風俗に関わる ものと考えられている。そのため、村落共同体の秩序を維持する義務を有する 地保も、姦通者を捉えることが許される主体とされている 140。黄六鴻の見解 は1つの例として、康煕期までの考え方を反映しているかもしれない。しかし ながら、こうした見解によると、姦通を捉えることができる主体の範囲が過度 に拡張されるのではないかという疑問が残るであろう。結果から見ると、清代 後期には、「殺死姦夫」条が適用されうる主体の範囲はある親等までの家族成 員に限定されており、その権限は私人の支配の下に限定されたと言える。
以上の考察からすれば、「殺死姦夫」が適用されうる者について、加害者が 夫か夫以外の親族かに分けて明確に定める条例が制定されたため、それぞれの 主体に対する刑罰が明確となったとともに、夫以外の親族が姦通者を殺しても 無罪とはならないという措置が定着してきたと言える。こうした点から見ると、
主体に関する改正を通じて、「殺死姦夫」条例においては、姦通者を殺した者 が容易に無罪とはならないようにされたのみならず、裁判官員が加害者を減刑 するについての裁量の余地も制限を受ける傾向が現れていると考えられる。
137 『根原』巻75、刑律人命「殺死姦夫」1198頁。
138 同前、1198頁。
139 (清)黄六鴻『福恵全書』(『官箴書集成』(合肥:黄山書社、1997 年)第三冊に所収)巻 19、刑名部、「強姦」、431頁。
140 伝統中国の社会においては、村の長老、郷董ないし地保といった者は、軽微な犯罪を処理 する権限があり、さらに村規・族約といった地方的なルールによって、そのルールに違反する 者に対して処罰を与えることができた。処罰の形態は、犯した事情の軽重によって決められる。
例えば、説諭、罰金、罰戲、鞭責、村外追放、さらには処死などの処罰がある。極めて重大な 犯罪行為を犯した者に対しては、水死や生埋めなどの処罰の方式もある。村の裁判権・処罰権 については、戴炎輝『清代台灣之郷治』(台北:聯経出版社、1979年)152-154頁を参照。
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