第四章 清代末期・民国初期における「殺死姦夫」に関する変容
四 おわりに
本稿においては、伝統中国における「殺死姦夫」条を対象として考察してき た。本稿の最初の発想は、現在台湾に施行されている「中華民国刑法」におけ る「当場義憤殺人」罪という規定の淵源が何なのかという疑問であった。この 点については、本稿で考察したように、当該規定の歴史的淵源からすると、伝 統中国法における「殺死姦夫」条に辿り着くことができると考えられる。この
「殺死姦夫」条の変遷過程を考察すると、伝統中国における歴代王朝における それぞれ異なる法的な考え方がこの規定に作用してきた様子を窺うことがで きる。
前述のように、明律における「殺死姦夫」条においては、遊牧民族法系の思 惟と漢民族法系の思惟との間の齟齬があった。そして、伝統中国法における基 本法典たる律の規定が廃止され難いという前提の上で、姦通者を殺した者が
「殺死姦夫」条によって宥される範囲に制限を加えようとする考え方が、明・
清の両時代に終始存在していた。すなわち、明代の注釈書において生じた明律 の「殺死姦夫」条に対して制限を加えるという考え方の延長線上で、清代にお ける立法・裁判官員は、常に罪と刑罰との間の均衡点を求めながら、さらに「殺 死姦夫」条の適用される範囲を縮減させていった。
他方、民国初期において、「殺死姦夫」条が廃止されたため、同条における 姦通者を殺した者に対する寛容的な考え方は、危機に直面することとなった。
すなわち、姦通者を殺した夫が無罪となるという考え方が、近代的な刑法の下 で容認されるものとは到底考え難い。確かに、大理院の裁判官は「正当防衛」
という構成により伝統中国法と近代的な法律との間の中間点を求めたが、最終 的には「当場義憤殺人」罪の制定によって、姦通者を殺した夫が完全に無罪と なることはなくなった。
本稿の考察を全般的に見れば、「殺死姦夫」条の規定が明代において制定さ れてから、民国17(1928)年の「当場義憤殺人」罪の制定に至るまで、それぞ れの時代において行われた「殺死姦夫」に関する規定の改廃修正には、基本的
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に、国家法によって「殺死姦夫」を宥すべきであるという考え方に対して制限 を加えようとする傾向が見られる。ただ、「殺死姦夫」条の中で生まれた姦通 者を殺した者を宥すべきという考え方は、明・清の時代の改正、そして法典近 代化の過程を経ても、なお執拗に生まれ変わりながら現在の刑法典にも生きて いる。この点から見れば、伝統中国の法は、一定程度現在の中華民国法に対し てなお影響を及ぼしていると思われる。
また、「殺死姦夫」と関わる問題について、なお残された課題は多い。例え ば、清代後期における「殺死姦夫」条に関する改正や、当該改正と関連する裁 判の実態についての考察は、なお不十分なところがある。もしそれを考察する ことができれば、清代の全期における「殺死姦夫」と関わる問題をより一層解 明することができるかもしれない。また、民国期における大理院の解釈例と判 決例についての考察も不明なところがなお多くあり、さらに後の最高法院の時 代にこうした解釈例や判決例がどのような影響を及ぼしたのか、さらに「殺死 姦夫」事案に「正当防衛」を適用することが認められない理由は何か、といっ た問題もなお考察する必要があると思われる。こうした点は今後の課題とする こととし、とりあえず本稿を終えることとしたい。
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参考文献
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二 注釈書・官箴書・文集・画報
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本は、国立公文書館により出版された電子データ版である。
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9. 同『大理院刑事判例輯存1912-1928(分則編)』(台北:犂斎社、2013年)
四 専書・論文
(一) 和文専書
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2. 滋賀秀三『中国家族法の原理』(創文社、1967年)
3. 島田正郎『北方ユーラシア法系の研究』(創文社、1981年)
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6. 穂積陳重『タブーと法律――法原としての信仰規範とその諸相』(書肆心水、
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(二) 和文論文
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3. 川村康「慶元条法事類と宋代の法典」(『基本資料の研究』所収)
4. 岸本美緒「時代区分論」(同『風俗と時代観――明・清史論集1』(研文出版 社、2012年)所収)
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7. 佐藤邦憲「明律・明令と大誥及び問刑条例」(『基本資料の研究』所収)
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