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原点としての順治 3 年律と雍正 3 年律

第二章 清代前期における「殺死姦夫」条の規定とその裁判実態

二 原点としての順治 3 年律と雍正 3 年律

清代最初の時代たる順治期における法典編纂事業については、すでに島田正 郎による詳しい先行研究がある。それによると、順治元(1644)年に清は北京 に都を奠め、明の代わりに中国を支配する王朝となったものの、皇帝の順治は まだ幼かったため、叔のドルゴン(多爾袞)が摂政となった。国家法としては、

入関直後には暫く明律を援用する過渡期があったが、ドルゴンは新しい法典を 編纂する必要性を強く感じ、順治2(1645)年にその命令により立法機関とし て律例館が設置され、立法事業が本格的に始められた。順治3(1646)年には

『大清律集解附例』という清律が編纂され、翌年に頒行された。この『大清律 集解附例』(以下「順治3 年律」と称する)は、清の最初の法典であると考え られている98

ここで先に説明しておくと、順治3年律における「殺死姦夫」条の内容が清

掲書所収)281-309頁。

98 島田、前掲注97論文、18-22頁。ただし、最初の順治律の版本の問題については、「順治2 年律」、「順治3年律」、「順治4年律」といった諸説がある。この点については、順治3年に編 成され、順治4年に頒行された『大清律集解附例』が最初の版本という見解が通説であると思 われる。版本の問題については、鄭秦「順治3年律考」(同『清代法律制度研究』(北京:中国 政法大学出版社、2000年)所収)1-21頁、蘇亦工『明清律典与条例』(北京:中国政法大学出 版社、2000年)127-164頁を参照。

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律における原初的な形態であるが、雍正3(1725)年に改めて律の編纂事業が 行われた。法典の形から見ると、雍正3年律では、順治3年律の小註に記載さ れていた内容が単独の条例の形で現れている。そこで、順治3年律及び雍正3 年律における「殺死姦夫」の要件はどのようなものであったかについて、以下、

「夫が姦通者を殺す」という類型に限定して考察を進めたい。

(一)順治3年律における「殺死姦夫」条について

順治3 年律における「殺死姦夫」条の内容は、「律本文」と「律後小註」に分 けられ、その中で、姦通者を殺すことと関わるのは、以下の部分である99

「律本文」

凡そ妻または妾が他人と姦通し、(本夫が)自ら姦所で姦夫・姦婦を捉え、

即座にこれを殺した場合には、罪責を論じない。もし姦夫のみを殺した場合 には、姦婦は和姦律により罪責を断ぜられ、官によって没収して奴とする。

(調戯されたが、未だ姦通していない場合、或いは姦通したが、姦夫・姦婦 が既に拘執に就いた場合、或いは姦所以外で姦夫・姦婦を捉えた場合には、

皆この律の適用に拘泥してはならない。)

凡妻妾与人姦通、而(本夫)於姦所親獲姦夫、姦婦、登時殺死者、勿論。若 止殺死姦夫者、姦婦依(和姦)律断罪、入官為奴。(或調戯未成姦、或雖成 姦已就拘執、或非姦所捕獲、皆不得拘此律。)

「律後小註」

○即座に現場で姦通者を捉え姦婦のみを殺したとき、または現場ではなく、

姦夫が既に去った後に、姦婦に供述を強要してこれを殺したときは、倶に

「殴妻至死」律に依る。○(姦夫が)現場から離れ、夫が即座に門外に奔っ てこれを殺したときは、「不応杖」律のみに依る。登時にあらざるときは、

「(罪人)不拒捕而殺」に依る。姦夫が逃走して長時間経過し、或いは道中 まで追いかけて、或いは姦通の事情を聞いた翌日に、姦夫を追いかけて殺し たときは、並びに「故殺」に依る。○姦夫が已に拘執に就いてこれを殴殺し たとき、または姦夫を姦所で捉えたが登時にあらざるに殺した場合は、並び に「夜無故入人家已就拘執而擅殺至死」の例を引用すべきである。○本夫の 兄弟及び有服の親族、或いは同居の人・応捕人は姦通者を捉えることが許さ れる。その婦人の父母、伯叔姑、兄姉、外祖父母が捕姦をして、姦夫を殺傷 したときも、本夫と同じである。但し、卑幼は尊長を殺してはならず、これ

99 楊一凡、田濤主編「順治三年奏定律」『中国珍稀法律典籍続編』第五冊(哈爾濱:黒竜江人 民出版社、2002年)324頁。また、「律後小註」における「○」は筆者が段落を区分するため に加えたものである。

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に反したときは、「故殺伯叔母、姑、兄姉」の律によって、罪責を科する。

尊長が卑幼を殺したときは、服制の軽重に照らして罪責を科する。○弟が兄 の妻が他人と姦通するのを見て、姦夫を追いかけて殺したときは、「罪人不 拒捕而殺」律に依る。○部外者或いは非応捕人が姦通者を殺傷したときは、

並びに「闘殺傷」律によって罪責を論じる。

○登時姦所獲姦、止殺姦婦、或非姦所、姦夫已去、将姦婦逼供而殺、俱依殴 妻至死。○已離姦所、本夫登時還至門外殺之、止依不応杖。非登時、依不拒 捕而殺。○姦夫奔走良久、或趕至中途、或聞姦次日、追而殺之、並依故殺。

○姦夫已就拘執而殴殺、或雖在姦所捉獲、非登時而殺、並須引夜無故入人家 已就拘執而擅殺至死例。○本夫之兄弟、及有服親属、或同居人、或応捕人、

皆許捉姦。其婦人之父母、伯叔、姑、兄姉、外祖父母、捕姦殺傷姦夫者、与 本夫同。但卑幼不得殺尊長、犯則依故殺伯叔母姑兄姉律科。尊長殺卑幼、照 服軽重科罪。○弟見兄妻与人行姦、趕上殺死姦夫、依罪人不拒捕而殺。○外 人或非応捕人有殺傷者、並依闘殺傷論。

まず検討する必要があるのは、律文の途中や後ろに付されている小註が何に 由来するかという点である。これについては、薛允升の見解によると、清律に おける小註は、明の姚思仁により編纂された『大明律附例注解』における明律 の律文に付されている注解に由来するものもあれば、王肯堂により編纂された

『王肯堂箋釈』における注釈に由来するものもある、とされている 100。しか しながら、順治3年律における「殺死姦夫」条に付されている小註を見る限り、

その内容は、姚思仁や王肯堂による注釈書よりもはるかに豊富かつ詳細であり、

むしろ崇禎期における注釈書たる『刑書拠会』や『大明律例臨民寶鏡』の内容 とほぼ一致すると考えられる101

明代中期から末期まで、約150 年ほどの時間をかけて、「殺死姦夫」に関連 する様々な見解が蓄積されてきた。その最終到達点を示しているのが、崇禎期 に編纂された注釈書であると思われる。「殺死姦夫」条を見る限り、『刑書拠会』

や『臨民寶鏡』などの注釈書が、清律に直接的な影響を与えた可能性が高いと 考えられる。さらに言えば、清律における「殺死姦夫」条の内容は、明の中期 から数々の注釈書により蓄積されてきた成果を踏襲しているとも言えよう。

次に、順治3 年律における「殺死姦夫」条の内容について、その中核的な原 則がどのようなものなのかをまず検討したい。上記の「殺死姦夫」条の内容に 対する考察にあたっては、清代前期の代表的注釈書である『大清律輯註』が1 つの重要な史料となる。『輯註』においては、「殺死姦夫」条の「律後註」の冒

100 谷井、前掲注97論文、585-586頁参照。

101 順治3年律における「殺死姦夫」条の内容は、明の崇禎期における注釈書の『刑書拠会』

や『臨民寶鏡』の内容とほぼ一致するため、『臨民寶鏡』の内容については、第1章における

「崇禎朝の注釈書を例として」の箇所を参照。

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頭に、以下のように記されている。

凡そ妻・妾が他人と姦通して本夫が姦通の事情を知り、姦通を行った場所で 自ら姦夫・姦婦を捉え、即座に彼らを殺した場合には、(罪責を)論じない。

自ら姦通の現場で(姦通者を)捉えたとき、姦通の事実を証明することがで き、また(殺人の行為が)義憤によりなされ、しかも急に起こるため、故に 特別に(殺人者の)擅殺の罪を宥すこととなる。もし姦夫のみを殺したとし ても、なお(罪責を)論じない。その姦婦に対しては和姦・刁姦の本律によ って、断罪して杖を決し、官によって没収して奴とする。102

凡妻妾与人姦通、而本夫知覚、即于行姦之所、將姦夫姦婦親身捉獲、登時殺 死者、弗論。親獲于姦所、則姦有憑拠、発于義憤、事出倉卒、故特原其擅殺 之罪。若止殺死姦夫者、亦弗論。其姦婦依和姦・刁姦本律、断罪決杖、入官 為奴。

この「殺死姦夫」条における中核的な原則は、夫が姦通の現場で姦夫・姦婦

(または姦夫のみ)を殺したときは、罪責を論じないということである。元々 人を殺すことは国家法上許されないことであるので、殺害される対象がたとえ 犯罪者であったとしても、殺害者は擅殺の責任を負わなければならない。しか しながら、「律後註」によると、本条により姦通者を殺す行為が許されうる理 由として、夫が義憤に基づいて殺人を行うため、または殺人が急に起こるため、

といった点が挙げられている。

一方、姦通者を殺す行為が許される前提は、姦通の事情が確かに存在してい たということであるから、姦通の事情があることが証明されなければならない。

しかしながら、姦通の事実があったか否かを証明し難い場合が少なくない。そ して、姦通の事情が存するのを証明するためには、明確な証拠が不可欠である。

この点について沈之奇は、「この条文について、姦通、姦所、登時といった点 を見るべきである(此条要看姦通、姦所、登時等字)103」と指摘している。他 方で、「律上註」においては、「姦所、親獲、登時104」といったキーワードが記 されている。そうすると、この規定を考察するにあたっては、姦通者を捉える 場所と時間が重要な要件であろうと考えられる。そこで、この場所と時間の要 件について、以下2つの点を検討したい。

第1に、夫が姦通の現場で姦通者を捉え、即座にこれを殺した場合には、罪 責を論じない。これに対して、夫が現場で姦通者を捉えたが、即座にこれを殺 さず、姦通者が拘執された後、これを殴り殺した場合には、「夜無故入人家已 就拘執而擅殺至死」律によって、杖一百徒三年に処される。

102 『輯註』巻19、刑律人命「殺死姦夫」条、664頁。

103 同前、664頁。

104 同前、666頁。

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