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野瀬 敏行 [大日本土木 (株) カブール営業所 所長]

ドキュメント内 10&11 OCAJI 60 OCAJI JICA MSHI40 TSUCHIYA TSUCHIYA (ページ 44-48)

1. この指とまれ!海外事業部設立

大阪支店に配属された当時は、大阪、京都、奈良 での現場生活。給料日前は現場に泊まり、金欠社員 同士で500円募金し、集金したお金で当時2級酒の 1升ビンと乾き物を買ってコップ酒宴会。酔った頭 で描く将来像は「30歳前に九州支店に転勤し結婚、

まあそれなりに工事所長になって平日は各作業所を 回り、週末は家族と過ごし実家に行き親の世話をす る…」。そんなささやかな夢を持って3K現場生活を 過ごしていた時に、海外事業部をつくるのでやる気 のある者この指とまれ!とメンバー募集のアンケー トが回ってきた。

根っからのラテン系博多人気質で人生一度くらい 海外経験もよかたい!と、手を挙げていざ上京した ものの、東京市ヶ谷の交番で「新宿の大日本土木は どこですか?」「お兄さん、あそこに見える高層ビル、

あそこまで新宿だよ」といった始末。

そんな井の中の蛙にとって、初めての海外赴任が 1977年、24歳の時であった。時を同じくして、海外 建設協会入会を果たした。人生一度のつもりだった 海外経験、自社の海外活動と歩みを共にして38年。

齢を重ねた古カエルが記憶をたどってまとめた小史 を寄稿させていただく。

2. 請け負い前の出向で海外経験

当時の海外事業部社員は10人もおらず、やる気 は120%だが全員が海外未経験という状態であっ た。いきなり請け負って赤字のリスクを取るよりも、

海外向きか否かの判断も兼ねて、海外要員の育成が できれば一石三鳥ということで、ひとまず全員出向 としてスタートし中東各地へ散ることとなった。当 時はまだ海外へ行くのが珍しく、羽田で見送りの万 歳三唱を受けて当たり前という、古きよき昭和の時

代である。

世は産油国における石油、セメント、淡水化プラ ント建設ブームであり、日本のコンサルタントや、

プラントメーカー、建設業者など多数が、サウジア ラビア、イラク、アラブ首長国連邦、クウェートな どへ海外進出していた時期だった。私自身も1977 年から、アブダビ、イラク、サウジアラビア、ヨルダ ン、バーレーンと中東7年の出向生活をし、他社で ご飯を食べさせてもらいながら貴重な経験を積むこ とができた。楽しいことばかりではなかったが、「い つかは実る日が」と信じて、仕事に励んでいた。

資材の発注、梱包、輸送、通関、現地での雇用、税金、

事務所や現場の立ち上げ、第3国や地元業者との作 業、そして交渉。さらには中東の暑さ、食、宗教、習慣、

風習、民族、アラブ気質、どれを取っても、毎日の経 験が今の基盤となったことは言うまでもない。

中東はどの国も日中は気温が45度以上になる。

そんな環境下での測量作業は温度補正を何度やって も数ミリから1センチ程度の誤差が出るのは当たり 前。そこに客先のインド人の技師長がいろいろとい ちゃもんをつけるわけで、こちらは暑さで頭がイカ レ気味、おまけに「グッドモーニング」程度の英語 力、つい口より先に手が出てしまい客先からいきな りのレッドカードをつきつけられてしまったことも ある。別の出向先では所長から「土建屋の121

センチ、2センチ)は芸者の花代かもしれないがプラ ント屋はミリ単位だ!」と昭和の例えでお叱りを受 けたのも懐かしい思い出である。

この時代は世界にテロという言葉もなく社会も寛 容で、会社にコンプライアンス教育や、ファックス も携帯電話もなく、今の時代に比べるとのんびりし ていた。赴任国での出向期間が終わると、独身で小 銭も稼いだし、ドイツ、イギリス、カナダへ1カ月

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の無断遊学することもあった。それでも帰国後は始 末書一筆ですんだ時代であったし、この無断遊学は 見聞を広める上では始末書以上の価値があった。今 の時代なら懲罰ものだろうか。

さてさて、そんな出向生活の中で目標ができた。

「いつまでも下についたらアカン、いつかは海外で 自社工事の御旗の下で働くぞ!」

3. 自社の御旗の下で

1980年 受注第1号エジプトでカイロ水道タンク受注 初めての受注は、まったく経験のない円借款工事 だったために海外事業部の精鋭が集められた。

この受注をきっかけにカイロ営業所を開設し、エ ジプトでは農機具センタ−、変電所、鉄塔工事、上 下水道工事、浄水場、灌漑用水路工事と安定した受 注を続けていった。そしてさらなる受注へとアフリ カ進出。1990年代はソマリア、ギニア、セネガル、

南アフリカ、モザンビーク、ジブチ、ヨルダンへ。

2000年代に入ってからは、パレスチナ、トルクメニ スタン、レソト、マラウイ、エリトリア、カメルー ン、コンゴ、アンゴラへと進出。最近ではリベリア、

南スーダンの受注にも結び付いた。今では海外支店 の日本人技術者の8割がエジプト経験者となってい る。エジプト人技術者の育成にも力を注ぎ、多くの エジプト人技術者や技能工が今もアフリカの作業所 で活躍している。

1986年 キリバスでのコーズウエイ建設

1983年に行った南太平洋州に浮かぶ島嶼、キリ バスの冷凍施設工事での経験を生かして1986年、

キリバスコーズウエイ工事を受注した。海の満干差 を見ながらの24時間変動作業で工期は15カ月にお よんだ。時には大潮やモンスーンで基盤をひと晩で

流されることもあり、苦難苦労続きの難工事だった が、この工事が弊社の南太平洋州におけるモニュメ ントになり大きな礎となった。総合病院、離島漁業 振興、中等教育施設、港湾整備、電力施設、下水道工 事などを受注し、キリバスの教育、保健、インフラ 整備にも大きな貢献を果たしている。

南太平洋州では他にもマーシャル諸島、ツバル、

ミクロネシア、パプアニューギニア、バヌアツでも 実績を積み上げてきた。

コーズウエイ着工前のある時、まる1日かけて工 事予定地を歩いた。翌朝は体中の皮膚が頭の先から 足の指先までパリパリになり、日焼けどころか火ぶ くれ状態で動くことができず、バスタブに水を入れ て終日その中で過ごした熱い痛い思い出がある。現 場近くには日本軍が使用した砲台の残骸が今も残っ ていた。ここで日米合わせて何万人もの犠牲者が出 たのかと思うと、思わず手を合わせずにはいられな かった。

1990年 ブータンでの小水力工事

小水力工事の現場は3,000m級の山岳地帯で、標 高は200mから7,000m以上。どこへ行っても山の 中!というのが第一印象だった。藪に入ればヒルに かまれ、夜は屋根裏から南京虫が落ちてくる。道路 は切り立った山を荒く削っただけで落石も多く、幸 いなことに今まで何もなかったが運転を間違えれば 数百メートル下の奈落の底へ転落するような現場 だった。

第1期の工事は持ち出しになってしまったが、そ こで培ったノウハウを生かして第2期ではリベンジ を果たした。その後は農業開発、学校建設などを受 注し、現在では多数の橋梁工事を手掛けて微力では あるがブータンの社会基盤整備に貢献している。

現在、ブータンの国民幸福度は97%だが、1990 年代のブータンは弊社にとってはインフラ通信住環 境も含めて作業劣悪環境度100%で、どの現場より も最悪だった。でもなぜかみんなブータンを好きに なって帰国、そして再赴任するという魅力の国でも あった。

それはきっと素朴なブータン人に触れて社員も幸 福感をもらっていたからではないかと思っている。

1994年 モンゴルでの学校建設

ブータンに続きモンゴルもみんなが好感を持って 赴任していく国であった。親日的で日本語をしゃべ るモンゴル人が多く、大自然も魅力のひとつだ。室 内は暖房があるので、Tシャツ短パンで過ごせるほ どだが、冬にはマイナス40度にもなる、とても自然 環境の厳しい国である。1994年に食肉処理施設で 厳しい自然・仕事環境の洗礼を受け、その後、穀物 倉庫、気象設備、日本センタ−、給水施設、教育施設 の実績を積んできた。ただ、この国で注意すること がふたつ。ひとつは乾杯酒のウオッカである。乾杯 の一気飲みで途中から意識不明、三日酔いは間違い ない。これにはかなりの社員が被害にあっている。

もうひとつはモンゴル人の酒癖。皆さんも某力士の ニュースが記憶に新しいだろう。

2000年 東モールでの給水工事

東ティモールは、独立を目指しインドネシア国軍 と内戦状態になった後、2002年に新しい独立国家 となった若い国である。

われわれは、インドネシア国軍撤退直後のまった く予備知識もない見知らぬ東ティモールへ。至る所 で内戦の爪痕が見られ、焼け落ちた家屋、垂れ下がっ た電線、住民の目つきも鋭く他者を寄せ付けない雰

囲気の中、緊急支援ミッションとして復興支援、生 活基盤の安定に取り組む国際協力機構JICAと共 に官民一体となって参入した。2000年に緊急灌漑 施設、給水改修に着手し、その後主要都市給水工事、

工科大学改修、橋梁、護岸工事などに関わった。

政府開発援助大綱の基本方針である「人間の安全 保障」「平和構築支援」を「民生支援」を通じて、多 少なりとも生活基盤の安定を今後も果たしていきた いと思う。

2002年 アフガニスタンでの空港建設

2001年9月11日、米国同時多発テロが勃発。

20024月、われわれはNGO(非政府組織)になり すまし、国連機でアフガンへ入国した。

爆撃被害の家屋、崩れ落ちた建物に住む人びと、

銃痕やロケット弾の被害の建物、焼け落ちた軍事車 両、21年間におよんだ戦争のすさまじい爪痕を目 のあたりにした。夜はロケット弾のピュードカン!

AK47のパパパパッ、トカレフ銃のパンパンパンと いう音。電気がなく闇の中でロウソクを灯しての間 借り生活、25年ぶりのマイナス10度の越冬生活、

地方に出ると至る所に軍閥のチェックポイント、放 置された戦車や装甲車の残骸、そして地雷地帯。

当時携帯電話がカブール郵便局で販売されたが、

大勢のアフガン人が「電話が使えない、壊れている じゃないか!」とクレームをつけていた。しかし原 因は充電することを知らなかったのと、まだ市内電 力がなかった、という笑い話みたいな事実である。

そんな中をわれわれは、ポンコツ車と食料と衛星 電話と寝袋を持って地方都市調査に出発。その後、

幹線道路工事、学校、道路センタ−、空港ターミナル、

誘導路駐機場、病院建設を継続して受注することが できた。2014年12月、外国軍撤退後のカブールは

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