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飛島建設の海外事業を振り返る
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粗悪で、建設に関わっていた職員のほとんどが肝炎 にかかったと聞いている。1977年7月に軍事クーデ ターにてハク陸軍参謀長が大統領の座に着いた、ま さに混乱の中での着工だったようだ。
その後、1983年には2番目の無償案件となった
「イスラマバード小児病院第1期、第2期建設工事」
を、1986年には引き続き「イスラマバード看護婦・
医療技師養成学校建設工事」を受注。当時、東京支 店勤務だった私も国際支店に異動、1983年11月に 新婚での単身赴任となった。初めての海外がパキス タンで、その後もパキスタン勤務は続き、合計17年 の勤務になった。
両案件はイスラマバードの中心に位置し、今でも
日本の援助案件としてランドマーク的な存在とし て、パキスタンの保健医療改善に寄与している。
当時のハク大統領は、当案件にかなり興味を示し 頻繁に建設現場を訪問、竣工を心待ちにしていたの を記憶している。引き渡し式には、当時の中曽根首 相が出席した。当時の新聞記事では「パキスタンは 国際的な犠牲を背負っているからこそ、支援する 責任がある。と対パキスタン援助の継続を表明」と あった。
竣工後、コンサルタントの常駐監理者ならびに当 社作業所長に対し、ハク大統領より外国人に対して 授与される勲章としては高位の勲章である「シタラ・
イ・カイディアザム勲章」(星のカイディアザム勲章)
が授与された。工事に携わったわれわれ日本人職員 全員が、陸軍司令本部の大統領執務室に呼ばれ、約 1時間の懇談にて慰労の言葉と共に記念品をいただ く栄誉を授かった。
昔は今と異なり治安もよく、全国を仕事や旅行で 飛び回り、のどかな田舎風景を楽しんでいた。一方、
生活環境は厳しく、チキン、マトン、チキン、マト ンと毎日カレー攻めでうんざりの食生活だった。辛 さで汗が吹き出しタオルが手放せないほどだった。
パーティに呼ばれるとヤギの頭が出てきて仰天した ことも! 時どき日本から訪ねてくる上司が、イン スタントラーメンを持参してきてくれ、皆に5個ず つ配給され、1カ月に1回、ラーメンを大事に食した ことが今でも忘れられない。携帯電話がない時代、
日本への業務連絡の電話は1週間に1回に制限、通 信手段は紙テープ式のテレックスだった。新婚の妻 には、せっせと手紙を書いたものだ。1年振りに成 田に着いた私は、妻が私だと気が付かないくらい、
真っ黒で痩せこけていたようである。
その後、パキスタンの核実験や、債務返済繰延べ
ハク大統領による小児病院現場視察。大統領と握手する筆者 イスラマバード小児病院
問題で、日本政府の援助が停止した時代もあったが、
パキスタンに進出してこの38年間、保健医療施設・
教育訓練施設・研究施設・農業試験施設・洪水警報 施設・上水道施設・太陽光発電施設などの無償援助 案件を手掛けてきた。また日本大使館や総領事館の 事務所・公邸の改修工事、日本人学校建設、さらに パキスタンに進出している日系民間企業の工場建設 も手掛けている。2002年のアフガニスタン戦争終 結以降、隣国アフガニスタンにも進出し、無償援助 工事や日本大使館工事を受注し、現在も首都カブー ルにて日本大使館の工事を継続して施工している。
2005年10月8日、パキスタン北部の山間部を震 源地とするマグニチュード7.6の大地震が発生し、
87,000人と言われている犠牲者を出した。当時イス ラマバードに駐在していた私も、さすがの揺れに思 わず事務所を飛び出したことを今でも鮮明に覚えて いる。その後、イスラマバードにある当社施工物件 の被害調査に走り回った。幸い被害はなかったが、
それ以降、日々の業務内容が一変し、震源地に近い エリアに建設した無償援助工事の3カ所の小学校 の被害調査、土木学会および日本建築学会調査団の コーディネート、度重なる現地調査、現地政府各種 機関とのセミナー開催の段取りなど多忙を極めた。
被害の大きかったバタグラム村では、多くの政府 機関建物や学校が崩壊し、多くの子どもたちが亡く なった。日本政府の援助で建設された小学校に通っ ていた生徒は、建物には大きな被害もなく全員無事 だったため、われわれの調査時にはお母さんたちか ら、日本がつくってくれた建物のおかげで子どもた ちが助かったと泣きながらに感謝されたことが今 でも忘れられない。日本の援助が生きた瞬間でも あった。
外務省の統計ではパキスタンの在留邦人数は現在 917名。事務所のあるイスラマバードおよびカラチ には日本人会があり、それぞれ160名程度の日本人 が生活している。少人数のコミュニティでもあり、
和気あいあいとお互い助け合いながら暮らしてい る。日本人会では年間を通じいろいろな行事がある が、当社も過去毎年、盆踊り大会の実行委員長の大 役を仰せつかっている。
まもなく進出40周年。当社の名前、歴史がここパ キスタンに根付き、現地職員も日本企業の一員とし て働けることに誇りを持っている。われわれも当社
地震により倒壊した村
地震調査セミナー風景
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の職員である以上に、日本国民として恥ずかしくな いように日々の言動には注意し、日本とパキスタン の友好に寄与することに誇りを持って、日本の技術 力・管理方法をスタッフならびに協力会社に伝え 続け、この地での当社の火を消さないよう今後も頑 張っていきたいと思っている。
3. 私の海外工事原風景・ブルネイ・ダルサラーム国
(平和の国ブルネイ) 〈富田奉〉
私の海外工事の出発点はブルネイである。25歳 から54歳までひとつの国で働くなんて、まさか終 点がブルネイになるとは思っていなかったが、振り 返ると「仕事冥利に尽きた」の一言である。ここで、
私の海外初体験談を中心に、当社のブルネイ事業の 足跡に軽く触れたく思う。
私は1978年4月に入社し、仙台支店が最初の赴 任地であった。2年半という短期間だったが、宮城 県仙台市(支店ビル+マンション)を皮切りに、岩手県 滝沢村(工場)、宮城県牡鹿郡鮎川町(体育館)、山形県 鶴岡市(ホテル)、岩手県大船渡市(超高層煙突)と、駆 け足で渡り歩いた。最後の赴任地・大船渡市で煙突 工事に携わったが、ここの作業所長が、私と海外を 結び付けた。所長は超高層煙突工事のプロで、スリッ プフォーム工法に精通しており、シンガポールでも 経験を積んでいた。どう思ったのか「お前は海外に 向いている、海外はいいぞ」と、突然言い出し、私 がふたつ返事で「面白そうです、いいですね」。こん な短い会話の中で、私の人生は180度変わったので ある。
その3カ月後には、ブルネイに出発していた。
1980年8月、25歳の時だった。
東南アジア・ボルネオ島 でタラップを降りた時 の熱い空気は今でも覚えている。親戚、諸先輩の人
からは「帰ってきたら南方ボケになっているぞ、や めろ」と再三言われたが、若かった私には「この熱 気! やるぞ!」という、カァッとする熱い思いだ けだった。
当時はエアコンもなく、天井ファンのみ。シャワー 設備は水のみ、お湯は必要ないと言えば必要ない。
ヤモリが天井から落ちてきたことを思い出す。寝て 起きれば、汗がびっしょり。残業中は上半身裸で仕 事をしていた。私は、リングウォーム(日本名はタム シだろうか)が原因の皮膚病にかかってしまった。丸 いポチポチが体を一周すると死ぬぞと脅かされなが ら、懸命に中国製の薬で焼いて治療した。
当時ブルネイはまだイギリスの植民地だった。
1984年2月23日に独立することになっており、そ の日に向かって国づくりを始めたばかりの頃であっ た。当社は1978年にブルネイでの営業を始め、偶然 とはいえ、この国の発展に寄与する幸運を得た。私 が担当したのは、国立競技場基礎工事であった(上 部工事は入札準備中だった)。当社は既に3件(ブルネイ
空港整備場、シェル本社ビル、ロジスティック倉庫)の工 事を施工中だったが、技術職員が足りないというこ とで、国内から急遽3名(全員が海外初体験、私はNo.3) が招集された。私みたいな半人前でも選ばれたのは、
きっと体が丈夫ならよいだろう、という考えからで あろう。
仕事はハードだった。現地は広大な土地があり、
整地されているのは真ん中の運動場のみ、あとは ジャングル、そしてジャングル。どこまでが工事範 囲か分からない。ブルドーザーで、ジャングルと沼 地をバッタバッタと切り開き、土地をつくった。沼 地からは、いろんな動物が出てきて、労働者たちは 喜んでいた。
図面、スペックは日本のものとはまるで違う。英