第 3 章 ロバートソンの実物的経済変動論
3.3 マクロ的分析の基礎としての「個別産業の変動」(2)――「需要の現象」
3.3.3 購買力分析による需要と供給の結合
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ここにおいて,農業要因の導入が要請される.人間は,「努力」によって獲得した購買力 を,様々な財貨と交換する.ただし,「努力」量(供給側の要因)を不変とすれば,財貨の 産出量も変化しないので,購買力も一定である.しかし,唯一,人間の意思では産出量をコ ントロールできない「産業」がある.それが農業である.農産物の生産には,人間の「努力」
が不可欠ではあるが,その産出量については自然の支配している部分が圧倒的に大きい.そ のため,農産物の豊凶は,人間のコントロール外であり,「自然の恵み bounty of nature」
(SIF, 75)に大いに依存する.このような人為的でない産出量の変化が,農産物と工業産品
の交換比率(価格)を変化させ,ひいては,個人の購買力を変化させるのである.これがロ バートソンの着眼点であった.
ここにおいて,「需要の現象」の議論が,個別産業の分析だけでなく,〈個別産業の集合 体〉をも分析対象とした理由も明らかとなろう.ロバートソンは,人間対自然という構図を 設定することで,「自然の恵み」が人間による生産活動(工業)に影響を及ぼすことを示し たかったのである.「供給の現象」の議論では,具体的な個々の個別産業が分析対象であっ たが,購買力変化の考察において,工業(人間)が農業(自然)に対置され,分析対象が
〈個別産業の集合体〉に拡大したのである.分析対象が産業全般に向かって範囲を広げつつ あるという意味で,農業要因が導入された第Ⅰ部最後の2つの章(chaps. Ⅵ-Ⅶ)は,「産業 全般の変動」への橋渡しという役割を担っているといえる.
3.4 「個別産業の変動」と「産業全般の変動」の理論的ギャップ
SIF第Ⅰ部では「個別産業の変動」の要因が考察された.前半の「供給の現象」では,近代 産業の特徴とそこで投資活動をする人間の本性が,不可避的に過剰投資を発生させることが 明らかにされた.後半の「需要の現象」では,外生的ショックと購買力の移転とが,個人の 需要に関する意思決定を変化させ,「産業」の供給を変動させることが示された.このよう に「個別産業の変動」理論は,供給と需要の両側面が連関している.しかし,需要・供給の いずれの側面においても,「努力」,すなわち,個人の意思決定における変化が,「個別産
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業の変動」を引き起こす決定的な要因となる,という点では共通している.第Ⅰ部でこのよ うに構築された理論は,第Ⅱ部「産業全般の変動」理論の前提として引き継がれる.
また,第Ⅰ部の後半あたりから,農業が「消費財産業」や「建設財産業」の生産活動に及 ぼす影響という,よりマクロ的な視点からの分析がはじまった.しかし,この段階の議論に おいても, 全部ではなく一部・ ・の「産業」の分析にとどまっていた.つまり,ここまでの議論 においては,分析対象となる「産業」の単位がどれほど大きくなろうとも,産業全般(経済 全体)の分析には至っていなかった.このような,個別産業と〈個別産業の集合体〉の変動 を合わせて〈部分的・ ・ ・産業の変動〉と呼ぶとすれば,第Ⅰ部の〈部分的産業の変動〉と,第Ⅱ 部の「産業全般・ ・の変動」との間には,乗り越えるべき理論的ギャップが存在する.
〈部分的産業の変動〉では,実物経済ということをそれほど意識する必要はなかった.な ぜならば,価格の上昇が,需要の増大によって容易に示せたからである.しかし,「産業全 般の変動」においては事情がまったく異なる.というのは,貨幣の存在しない実物経済では,
一般物価水準の上昇・下落は起こりえないからである.ロバートソンが主張したように,価 格上昇による集中的投資が繁栄をもたらすとすれば,価格下落はその逆を意味するであろう.
そうすると,一方の繁栄は他方の犠牲を意味することになる.そのため,経済全体の同時 的・同方向的なトレンドを証明することは困難である(SIF, 125).ゆえに,〈部分的産業の 変動〉理論を,「産業全般の変動」理論にそのまま適用することはできず,過剰投資とは別 の,あるいはそれを補完する新機軸が必要となる.
そこで,一方の繁栄は他方の犠牲をともなう,という問題を克服するために,一般的には,
2つの方向性が考えられる.
第一に,貨幣を導入することが考えられるだろう63.直面している課題は,一般物価水準の 上昇・下落を説明することであるから,貨幣量の増減によるインフレ・デフレを想定すれば,
63 SIF以前の経済変動論の多くがこの手法に頼っていた(SIF, 9-10).近代生産体制の性質を重視したアフタリオンでさえ,
その例外ではない.ロバートソンは,アフタリオンの議論が「貨幣の毒気monetary miasma」に覆われていると批判してい る(Robertson 1914b, 85).また,SIFにおいても,アフタリオンやツガン-バラノフスキーのことを,「物事のたんなる貨 幣の下を掘っているふりをしているが,議論の重要な段階において,つねに貨幣的な用語に逆戻りしてしまいがちな人々」
(211-212)と評している.
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その問題を容易に克服することができる.しかし,SIFの目的は,貨幣要因がなくとも経済変 動が必然的に生じることを示すことなので,当然ながら,この手法は使えない.
第二に,集中的投資によって生じたある個別産業の繁栄が,他産業に波及し,その無限的 連鎖が生じることで経済全体が繁栄する,と想定することでも,この問題を克服しうる.し かし,ロバートソンは,このような手法も拒否した.その理由を以下で検討する.
経済全体の変動を説明するために,個別産業間の相互的な波及が想定されることがあった
(Lescure [1906] 1923).このような既存の波及理論を,ロバートソンはどのように考えてい たのか.
波及理論は,「消費財産業」と「建設財産業」が,相互に影響を及ぼし合うことを示す理 論である.ロバートソンは,この理論を 2つの部分limbに分けた(SIF, 122).第一の部分
the first limbは,「消費財産業」から「建設財産業」への波及を示す理論であり,第二の部分
は,「建設財産業」から「消費財産業」への波及を示す理論である.現在では,前者は加速 度原理,後者は乗数理論として知られている.しかし,加速度原理に関しては,後にロバー トソンが語っているように,SIF執筆当時,それは特別な名前をつけるまでもないほど当然な 理論であった(Robertson 1959, 94,訳123).他方,乗数理論は当時,レスキュール64が「反
響repercussion」(Lescure [1906] 1923, 36)と呼んでおり,ロバートソンもその用語を用い
た(SIF, 125).
Presley(1979, 60)によると,ロバートソンは,SIFにおいて加速度原理を否定していたに
もかかわらず,1937 年の論文では,ケインズの乗数理論に対抗する必要から,加速度原理の 重要性を高く評価するに至った.つまり,ロバートソンは,後になってから加速度原理の重 要性に気づき,それを強調するようになった,という評価である.
しかし,この見解は,加速度原理と乗数理論を混同しており,かつ,ロバートソンの意図 を汲みきれていないようにみえる.
64 Jean Lescure (1882-1947) は,フランス歴史学校の創設者であり,ボルドー大学の法学部教授であった.『トラストとカル
テル』(1908)や『フランスにおける貯蓄』(1914)などの経済学的な著作を多数著したが,なかでも『全般的な恐慌と周 期的な過剰生産』(1906)がもっとも有名である.
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確かに,ロバートソンは,波及理論の第二の部分,すなわち,乗数理論(「建設財産業」
から「消費財産業」への波及)に関しては,「レスキュール氏によって,口先だけで説明さ れているように,無から有を生みだしているようであり,流砂を土台としているようにみえ
る」(SIF, 125)と批判している.ロバートソンは明確に乗数理論を否定した.
しかし,「議論している理論の第一の部分〔加速度原理〕は,……もっともらしい反論か ら無傷で生き残っている」(SIF, 125, 〔 〕内は引用者)とロバートソンが主張したよう に,彼は波及理論の第一の部分,すなわち,加速度原理(「消費財産業」から「建設財産業」
への波及)については認めている.しかも,本稿の 3.3.2でも指摘したように,彼は加速度原 理の存在を当然視していたのである(SIF, 89).
しかし,波及理論をこのように批評した上で,ロバートソンは次のような問題を提起した.
「その理論の両方の部分both limbs〔加速度原理と乗数理論〕が,より根本的な批判にさらさ れている.無限・ ・に・続く・ ・連鎖・ ・というかたちで,ある産業から他の産業に繁栄が伝達されるとい う考え全体が,思考の初歩的な混乱を意味していないか?」(SIF, 125, 〔 〕内および強 調は引用者).
ここでロバートソンが疑義を呈しているのは,実物経済において,一方の繁栄は他方の犠牲 をともなう,という問題があるにもかかわらず,一部の個別産業における繁栄を起点として,
その繁栄が,経済全体へと無限・ ・に・波及・ ・して・ ・いく・ ・,という考え方の妥当性に対してである.決 して,加速度原理そのものを否定しているのではない.確かに,上の引用文だけをみれば,
あたかもロバートソンが波及理論そのものを否定したかのようにみえる.しかし,彼の問題 意識,すなわち,一方の繁栄は他方の犠牲をともなう,という問題を認識しておれば,彼が
「無限に続く連鎖」という部分に疑問を抱いたということがわかるだろう.
既存の波及理論に対するロバートソンの見解は,次のように要約できるだろう.波及理論 は,加速度原理と乗数理論に分けられる.そして,既存の理論によれば,加速度原理と乗数