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第 8 章 賢者と観照

第 1 節 賢者の意識と知覚の構造

プロティノスは「幸福について」で、様々な苦しみや悲しみ、運命の打撃などを、偉大 な戦士のように撃退する賢者の姿を描写している。それは賢者の所有する徳によって可能 であるということを前章でわれわれは見た。プロティノスの考える本来の徳は、市民的と 言われるような徳ではなく、カタルシス、あるいはカタルシスが完了した時の観照である とされていた。

カタルシスは、肉体に生じる諸情念を除去し、魂を本来の非受動性に立ち返らせること によって、外的なものから一切影響をうけないようになることである。すなわち賢者自身 の幸福は、いかななる状況であっても変わることがないとされる。この外的なものに一切 影響を受けないということが、「幸福について」で最も象徴的に述べられているところが、

第9章の、賢者は病や魔術によって意識がなくても幸福であるという記述である。

1.意識

プロティノスは第 9 章で、賢者が賢者である限り意識の有無は彼の幸福に関係しないと いうことを説明するために、健康であると知覚()していなくても健康であるし、

美しいと知覚していなくても美しい、といった例をあげて(Ⅰ4. 9. 11-14)、その人の実質 にとって知覚は必須ではないことを述べている。

賢者に意識がないという場合に用いられる語はで、この語は本来は「随伴す る」といった意味が一般的だが、後に「理解する」や「注意を向ける」といった意味でも

本章は以下の論文を加筆修正したものである。伊藤、2008。

8 賢者と観照 138 用いられるようになり、特に再帰代名詞が伴うと「自己意識」と訳すこともできる。

病に冒されて意識がないことと、健康な人が自分の健康を知覚していないこととは、異 なる事態で、プロティノスは前者にを、後者にという語を配して区 別している。そしてそれらの意識や知覚が、賢者の幸福に関係しないことを次のように語 る。

もし知恵の本質が、ある種の実在にあって、いやむしろ実在自体のうちにあって、そ の実在自体は、眠っている人や、一般に自己意識がないと言われる人のうちでも、な くなっておらず、実在の現実活動()そのものと眠ることのないその活動が、

彼の内にあるのならば、賢者は賢者である限り、そのときも活動しているだろう。そ れに、その現実活動は、彼の全体に気付かれていないのではなく、彼のある部分に気 付かれていないのだろう。ちょうど栄養摂取の活動が働いていても、このような活動 の把握()が感覚的に別の人間にやってくることはないように、われわれの 植物的な部分がわれわれであれば、われわれは活動しているものであっただろう。だ がわれわれはこれではなくて、思惟している部分の現実活動()であ る。したがってその部分が現実活動しているときには、われわれが活動しているので ある。(Ⅰ4. 9. 18-30)

ここではその人が賢者であるならば、実在の現実活動は眠っているときでもその人のう ちで活動しているということが言われている。その場合、賢者に意識がないという事態は、

ちょうど身体の、栄養摂取したり成長したりする部分がわれわれに気付かれていないが働 いているように、その人の一部に気付かれていないのに過ぎないのだと言われる。いわば 身体的な意識下の働きのように、実在の現実活動も意識にはのぼってこないが働いている ということである。そしてプロティノスは、<われわれ>とは身体の栄養摂取したりする 部分ではなく、<思惟している部分の現実活動>(Ⅰ4. 9. 29)なのだと言う。

確かに身体的な栄養摂取する働きは、われわれのものであってわれわれのものでないよ うにそれ自体で活動しているので、「自己である」とは言い難いところがあるが、一般に自 己とは、意識のもとに感覚したり思考したりする部分と考えられるのではないか。しかし

Schwyzer, 1960, 369.

Warren, 1964, 89.

Schmitt(1945)は、デカルト以来、意識だけが魂的なものの純粋概念とみなされ、意

識されないプロセスは非理性とみなされており、フロイトの無意識の発見はコペルニク ス的転換だと言われたが、無意識は遠い昔―つまり古典古代―に発見されていると述べ

8 賢者と観照 139 プロティノスにとっては、気付かれないところに自己と言われるものがあると言う。そう すると<思惟している部分の現実活動>というのは、意識のもとにない思惟ということに なる。

この議論は、真のわれわれがどこにあるのかという問題にも係わってくるもので、もし われわれの実質が、意識や知覚にあるのならば、幸福な自己とはその部分にあることにな り、意識を失っている時には幸福は否定されることになる。だがプロティノスにとって、

われわれの実質は<思惟する部分の現実活動>にあり、それは知覚対象のいかなるものか らも免れているのだ。

知覚対象から免れているようなものを、われわれは経験できるのか、そもそもそのよう なものを自己といえるのかといった問題を理解するためには、経験的な自己の意識がいか にして成り立っているのかというプロティノスの考え方を見なければならない。プロティ ノスは、知性と知性のもとにいる魂が、知覚や一般的な把握の前に活動していることを説 明するために、第10章で鏡面の喩えを用いて次のように説明する

滑らかで輝いているものが静寂を保っているところで、鏡面の反射が起こるように、

知性内容()が戻り()、魂の生にもとづいて現実活動してい るものが、反対に、いわば押しやられる()ときに、把握()が あり、生じると思われる(Ⅰ4. 10.6-10)

ここで知性内容といわれるものは、前文から考えて、知性と知性のもとにいる魂の活動 内容であり(Ⅰ4. 10. 3-5)、知性だけに限定されるものではない。

は逆戻りすることで、ちょうど穏やかな水面で光が反射するようなイメー ジである。この動詞の形は能動相の分詞だが、解釈者によってはこれを受動的に訳してい る人もいる。主語が知性内容なのだから、おそらくプロティノスは意図的に能動の形にし ていると考えるべきである。というのも、彼の形而上学では、上位のものは下位のものか ら影響を受けずとどまっており、上位の能力は溢れ出すように下位へ注がれ与えられる。 受動的な訳は、光の反射のイメージに影響を受けた理解だと思われるが、「押しやられる」

と受動の動詞が使われているのは「魂の生にもとづいて活動するもの」の方である。

ている。ただし近代の無意識と同一とみなされてはならないと注意を喚起する。彼の指 摘の含意するところは、無論プロティノスの意識の考察に対するものである。

この譬えのイメージは、鏡というよりも水面で、プロティノスも水面の反射を考えてい たと思われる。訳も本義に近づけて、鏡ではなく鏡面とする。

Ⅲ8.10.1-19, Ⅴ1.6.28-49, Ⅴ3.12.39-44などを参照。

8 賢者と観照 140 つまり、ここでは知性的なものの能動的な力が、静かな鏡面に喩えられる魂のうちに届 き、そこに知性内容の影像が現れることによって把握が生じる。鏡面とは、能動主体と受 動主体の触れ合う場であるということがわかる。そして鏡面がそのような状態になくとも、

影像の本体はそこで現実活動し存在していると述べた後で、プロティノスは次のように続 ける。

魂についても、思考()や知性の似姿()がそのうちに現れてくる、

われわれのうちのそのようなものが静けさを保っているときには、これらが内に見て 取られて()、知性と思考が現実活動しているという、より先の認識とともに、

いわば知覚されるような仕方で認識されるのである()。(Ⅰ4. 10.12-16)

ここでは鏡面が静かにしているときには、知性と思考の似姿が現れ、まるで知覚するよ うに、似姿のもとのものである知性と思考が現実活動していることが認識されるというこ とが述べられている

先の引用文で、把握()という語がでたが、ここでは認識という語がそれに対 応している。Schwyzerは、をあらゆる種類の把握のための上位概念と考え、知性 的な対象だけでなく感覚的な対象をも包含すると見ているが、この文脈の場合は、把握は 知性内容に向けられていると見るのが妥当である。

そして、このような認識を得ることができない事態は次のように説明されている。

身体の調和が乱れたために、これが壊れると、思考や知性は影像なしに()

思惟し、そのときには知性活動は表象()をもたないのである。したがって 人は、知性活動は表象ではないが、表象を伴って生じると考えるかもしれない。(Ⅰ4.

10.17-21)

「知性と思考が現実活動しているという、より先の認識とともに……認識される」とい う部分の訳は、「より先の認識とともに、知性と思考が現実活動しているということが…

…認識される」と訳すことも可能だが、その場合「より先の認識」が何を指すのか不明 だし、動詞との主語は「これら」すなわち「似姿」と考えるほうが自 然である。つまり、内に見て取られて、認識されるのは「思考や知性」そのものではな く、その似姿である。そしてこの認識に先行するという意味で「知性と思考が現実活動 しているというより先の認識」が伴っているということになる。

Schwyzer(1960, 367)。 Warren(1964, 84)やMcGroarty(2006, 84)は、この「把 握」は表象能力に関係すると考えているが、感覚的な領域と知性的な領域の両方向に適 用されるという点では三者は一致している。