第 9 章 観照と永遠
第 1 節 永遠の生命
プロティノスは「幸福について」で、「思惟するものの現実活動がわれわれである」(Ⅰ
4. 9.29)と述べるが、「思惟すること()」は、魂の一般に行う推理思考()
や分析的思考()とは異なり、知性そのものの直接的な知の働きに対して用いられ る語である。幸福であるといえるためには、通常の思考の段階ではなく、知性の思惟と同 一のところまで達しなくてはならないということを意味する。そこで、知性の思惟とはど のようなものか、そしてそれが永遠とどのようにかかわるのかみていきたい。
前章でわれわれは、アリストテレスの現実活動と動の対比の意味するものが、プロティ ノスにとっても重要な意義を持っていたということをみた。その対比のうちには永遠と時 間の関係が含意されていて、動と時間は密接に結び付けられていた。「動は時間のうちに ある」1というのが、アリストテレスの基本的見解である。プロティノスの場合は、感覚界 の量的な物の動きと魂の動が区別され、後者が現実活動と同一に捉えられ時間のうちにな いとされていた。そこには物の動と魂の動が、明確な対比のもとに語られているというこ とをみた2。プロティノスにおいては、アリストテレスが動と現実活動の区別のうちに含意 していた、物を主体としてみるか、魂を主体としてみるかという根本的な世界観の違いを、
より厳密に区別したということができるであろう。
このように、プロティノスは動という概念を、魂にも適用するのだが、これはプラトン の自動する魂の思想3に由来すると考えてまちがいはないであろう。そしてさらに彼は、プ
1 『自然学』223a14-15。
2 アリストテレスの「動」は、プラトンでは「他動」に分類されるような「動」である。ア リストテレスとプロティノスの「動」の概念の違いについては以下を参照。山口、1985、 37。
3 プラトン『パイドロス』245c-246a、『ティマイオス』46d-e、『法律』895c-897b、966e など参照。
第10章 永遠の生命と美の観照 171 ラトンのイデア界の最大の類の概念に従い4、動を知性界の類として語っている。
「永遠と時間について」では、永遠は5つの類のどれに相当するのかという議論がなさ れていた5。ここでもう一度プロティノスの永遠に関する議論をみてみよう。
知性界の諸能力として、「基体()の側面でみれば有であり、生命に関して 人が注目するときには動であり、すべてが同じありかたをしている点で静であり、これら がいっしょで一つであるという限りで、異や同であるとみなすことができる」(Ⅲ7. 3. 8-11) と述べられている。ここでは、「有」は知性の基体の側面であり、「動」は知性の生命の側 面であり、同一のありかたという点では「静」、これらに区別があるという点では「異」
であり、一つであるという点では「同」と言われる。
そして次にプロティノスは、これらの類を永遠と結び付け、ひとつの生命としてまとめ あげようとする。すなわち「異をいっしょにし、現実活動(つまり「動」)は止まること がなく、思惟()あるいは生命が同一で、常に同じありかた(つまり「静止」)で隔 たることがないようにして、これらのすべてを、すなわち同じもののうちに常にとどまっ てすべてを現にもっている生命を見た人は、永遠を見たのだ」(Ⅲ7. 3.11 -17)と言う。
この一節では、動は現実活動と明確に言いかえられ、永遠は、「(現実活動としての)動」、
「静」、「同」、「異」をすべてそのうちにもつ生命だとされている。したがって5つの類の うち「異」、「同」、「動」、「静」がひとつの生命としてまとめられているが、「有」は含ま れていない。生命についてはこの一節の前に「生命に関して人が注目するときは動」とさ れ、その「動」は現実活動と言い変えられているのだから、生命は現実活動のことを意味
4 プラトンは、同じ形相()を異なる形相と考えたり、異なる形相を同じ形相と考え たりしないように類に従って分類することの重要性を主張する。それは、問答法
()の知識に属することであり、これをなしえるのは哲学者であると考える
(253d-e)。類の意義は形相相互間の明瞭な区別の把握であり、ソフィストの詭弁に対抗
しうる思考の訓練でもある。そこでは、5つの類「有」「動」「静」「異」「同」が相互に 関係性を持ちながら、ある相では結び付き、ある相では相反しあうことが説明される(『ソ フィステス』253d以下)。要約して言えば、「有」が実在ならば、真に在るのだから知性 と生命と魂を欠いてはならない。また知性と生命と魂は活動しているという点で「動」
を含意する。そして知性は同一のありかたをしているのだから、「動」ではないという意 味で「静」ということもみとめなければならない。したがって「有」は「動」でもあり
「静」でもある。ところで、「有」「動」「静」は異なるものである。したがってこれらに は「異」がある。またそれぞれはそれ自身と同一である、したがって「同」もある。ま た「有」は、「動がある」「静がある」といったように、他のすべての類が分有すること ができる。つまりすべてに行きわたっている。この点ですべてのものは「有」るものと 言うことができる。同様にそれぞれは異なるものという点で、それぞれは「異」を分有 する。このときそれぞれは「ある」とは異なるので「あらぬ」ということもできる。プ ラトンはここにおいて、パルメニデスの根本命題「あるものはあり、あらぬものはあら ぬ」の批判と吟味を行っているといえる。
5 本稿第2章第2節参照。
第10章 永遠の生命と美の観照 172 する。したがって知性の生命とみなされる永遠とは、知性の現実活動の側面を担っている ということができるであろう。さらには、生命は思惟とも言い変えられている(Ⅲ7. 3.
14-15)。
「永遠は、基体ではなく、基体からいわば輝き出るもの()だ」(Ⅲ7. 3. 23-24) と言われるが、この場合、基体とは知性の「有」、すなわち思惟されるものの側面である。
したがって永遠とは、基体としての「有」から輝き出るものとしての生命であり思惟する ものであるということが理解される。そしてそれが知性の現実活動である。
ただし永遠は、知性の「生きる」という現実活動の側面を表しているからといって、永 遠が「あるもの」ではないということではない。というのも、思惟することと思惟される ものは一にして二だと言われるのだから、本来区別のない同一のものなのである。このよ うな、働きの点では区別されうるが、実在の点では同じものという、知性界の一にして二 というあり方が、あるものと永遠との関係にも言えるのである。
このように永遠はあるものの側面をもつとはいえ、プロティノスは、「永遠と時間につい て」で、少なくとも6回は「永遠は生命である」と述べている6。そのことからみても基本 的に永遠は、あるものの<生命>として位置づけられているとみなすことができる。<思 惟されるもの>に対する<思惟する>という現実活動、<あるもの>に対する<生きる>
という現実活動が、永遠を最も特徴づけるものだと言っていいであろう。このことから、
プロティノスの永遠と時間論は、存在論というよりも、生命論としての意義が大きいよう に思われる。
では魂にとって、知性の思惟に至るということは、どのように理解すればいいのだろう か。プロティノスは次のように述べている。
もし誰かが、そのものの観照をやめることをせず、それとともにいて、その本性に魅 了されて、尽きることのない本性によってこれを行うことができるならばどうだろう か。いやその人は、自分自身も永遠へ走っていって()どこにも傾かないだろ う。その人のうちの永遠的なものによって、永遠と永遠的なものとを観照しながら、
同じものであろうとし、永遠的であろうとするだろう。(Ⅲ7. 5. 7-12)
「その人のうちの永遠的なものによって、永遠と永遠的なものを観照」するという一節 が、プロティノスが求める観照のありかたである。それは「知性の永遠的なものを、魂の 永遠的なものによって観照する」ということである。魂にはもともと永遠的なものがある
6 Ⅲ7. 3. 16-17, 3. 36-38, 5. 25-27, 6. 8, 11. 1-4, 11. 45-46.
第10章 永遠の生命と美の観照 173 とみなされており、それが知性とともにある魂でありその現実活動ということになる。こ のように現実活動は観照とみなされるけれども、栄養摂取などのような時間にかかわる魂 の現実活動が区別されているように(Ⅰ4. 9. 25-30)、すべての現実活動ではなく、知性の 永遠的なものの観照を意味する場合にそれは一致すると考えられなければならないだろう7。
「永遠へ走っていって()」という表現も、時間的な動のうちにいた自己から永遠 的な現実活動となる自己へと移るその隔絶性、超越性を表しているのであろう8。すなわち、
「見る」にしても、感覚世界の対象物に主体を置けば、時間的な動とともに自己もそれに 従って見ているのであろうが、「見る」が自己の活動としてとらえられれば時間的な経過は ないのであって、ただひたすら「見る」のである。
アリストテレスが「見る」は、目的が達成され部分がないと主張していたように、魂の
「見る」働きには、プロセスは必要なく時間のうちにはない。プロティノスの「見る」は
「観る」であって、すでに魂は観照しているのである。つまり感覚対象を見るのではなく、
それを可能にしているものを観照するのである。見る視点を、物の世界から魂の視点に変 えることが求められている。
そこで最後に、自己のうちの永遠的なものによって永遠的なものを観照するということ について考察する。
第 2 節 われわれのうちの永遠的なものと美の観照
7 ただし「自然、観照、一者について」(Ⅲ8[30])で述べられているように、自然も観照し ているとみなされる場合は別である。このときの観照は「弱い観照」といわれる。Hunt
(1981)は、プロティノスの観照を上位の領域の観照とそれ自身の領域の観照という2 つに区分し、観照は観照の対象のイメージの現れと考える。知性の観照にも、一者へ向 けられた観照と自己自身を観る観照という2段階が考えられたので(第7章第1節参照)、 観照にも一定の区別が認められる。Huntの主張する、観照は対象のイメージの現れとい う所見は興味深い。しかしなぜそのことが可能なのかと言う点で彼は言及していない。
これまでわれわれが考察してきた観照の無時間性が明確に捉えられれば、なぜ観照にお いて対象が現れるのかということが説明可能になると考えられる。
8 Beierwaltes(1967, 191)は、「走る」という語は「超越の活動(der Akt des
Transzendierens)」を示す語であり、一者との合一を示唆していると見る。たとえば
Ⅵ9. 11. 16でも「走る」という語が用いられていることに注目して、この語が
やと同じような意味をもつ術語ではないかと考える。「傾かない
()」ということも、「尽きることのなさ()」や「静止()」
も、Ⅵ9. 11.14では、忘我のうちでの一者との合一の状態を特徴づけていると見る。し
かしこの語は「知性界へ赴くこと」として見るだけでいいのではないかと思われる。
というのも、Ⅴ1. 1. 7では知性界から感性界へ降りていくときにこの語が用いられ、
またⅤ8. 11. 10では、知性界への向き直りの際に用いられている。つまり、感性界と
知性界との境界を超えるときに用いられている語と捉えることができる。