第 5 章 アリストテレスの観照―観照と実践の問題―
第 2 節 知性主義への批判
第 2 節 知性主義への批判
Cooperは、『ニコマコス倫理学』の第1巻と第10巻との内容の不一致に疑問を呈してい
る8。すなわちアリストテレスは第 10 巻第7 章で、究極的な幸福は「観照的活動であるこ とは述べられている」(1177a17-18)と言っているのだが、これに対して、Cooper は「不 用意で誤っている」と問題視している9。彼が指摘するように、幸福を観照的活動だとみる ことはいまだ議論されておらず、第10巻においてこのことがいわば唐突にでてきている観 があるのは確かである10。
Cooper は、第10巻では、人間の生に2つのモードが考えられていると見る。すなわち
知性的な生と倫理的な生である。この 2 つの生の関係が議論となっていて、彼は『エウデ モス倫理学』や、『ニコマコス倫理学』の第9巻まででは、人間の幸福にとっての最善のも のは知性的な生であるものの、倫理的生も幸福に含まれると理解することができるが、第 10巻においては、排他的に観照的生活が選ばれていると考える。それは次のような一節か ら推量されている。
実践のためには多くのものが必要とされ、行為がより大きく美しければそれだけ一層 多くのものが必要とされる。しかし、観照する者にとっては、その活動に対してこう いったものは必要なく、むしろ観照には妨げになると言ってもいいようなものである。
ただ、その人が人間であり、多くの人といっしょに暮らすかぎりで、その人は徳に基 づく活動を選ぶのである。だからその人は、人間的に暮らすためにそれらのものを必 要とするのである。(1178b1-7)
Cooperはこの箇所を重要視して、アリストテレスは選択と行為に結び付く思慮(
)をも、合一体のうちに置き、これを知性に属する徳とみていないことに少し困惑 している。そしてこの区分は『デ・アニマ』の合一体と知性の扱い11に類似していることを 指摘した後、アリストテレスの他の倫理的言説との整合性をとるために、ここで述べられ ている知性の生の優位は、いわば理想を語っているのだろうと解釈する。
同様の問題を扱ってAckrillは、第1巻で述べられている幸福は、包括的(inclusive)に
8 Cooper, 1986, 144-180.
9 Cooper, 1986, 156.
10 牛田(1997)は第10巻の観照に関する記述の唐突さと、不自然な論述の流れから、そ の箇所は別のところから挿入された可能性があると述べている。
11 アリストテレス『デ・アニマ』429a。ここでは、知性は身体のうちになく、器官もない といわれる。
第5章 アリストテレスの観照 97 とらえることができると見る12。つまり部分と全体のように、何か唯一の目的があるのでは なく、いくつかの目的からなる包括的な構成体として幸福を捉えるのである。しかしそれ は第10巻の場合の観照とは相容れない。そこで観照と実践は切り離されていて、両者をむ すびつけることにアリストテレスは失敗しているとAckrillは考える。
彼は「アリストテレスは、観照と徳の実践とが、最善の人の生のうちでいかにむすびつ いているかという問いに答える試みに、なぜこれほど著しく失敗しているのか」と問い13、 アリストテレスの「できるだけ自己を不死的なものにせよ」ということは、観照のために は徳の実践だけでなく、ほかのばかげたことでもなすべきであるという非人間的な結論に すら至るだろうと疑念を呈する。
そしてこの解決策として、両者の間にやりとりを認めることが提案される。つまり一方
(観照)がより重要だが、他方(実践)と比較にならないほど重要というわけではないと いった選択がありうると考えるのである。無論彼は、一方の神的なものとの交換というこ とはやはり困難だろうということも認め、アリストテレスの幸福論は、極端論的な結論を 包含するとみなしている。
Keytは、このような観照優位の幸福論のはらむとされる非人間性を極端化し、「厳密な知
性主義(strict intellectualism)に従うならば、観照的活動のための余暇に必要な富を得る
ために、他人から盗んだりだまし取ったりすることが、その人にとっては正当化されるだ ろう」と述べる14。厳密な知性主義とは、観照的な活動が善き生にとって唯一なものであり、
実践的な活動は観照的活動の手段としてのみ価値を持つという立場である。Keyt は、
Cooperがその立場に立つとみていている。
この厳密な知性主義に対して、Keytは、知性の活動に優位性を持たせながらも、倫理と 知性の活動を結び付ける穏健な知性主義(moderate intellectualism)の場合を考える。そ れは価値の全体を最大化するために、より劣る価値の活動は、より優る価値の活動の犠牲 になりうるという交換条件的観点(trade-off view)であって、Keytはこの場合もその結論 は厳密な知性主義に劣らず不快であると考える。いずれにしても、観照的な活動のために は実践的な活動は犠牲にされるべきものであるのだからである。Keytは Ackrill がこの立 場に立つだろうと見る。
Keyt自身も穏健な知性主義の立場に立つのだが、「不快な結果」を避けるために、第10 巻を第1巻と整合性をもたせるように解釈し、Adkinsの次のような議論に答える。
すなわちAdkinsは、アリストテレスの場合「燃える建物から隣人を救うために自分の観
12 Ackrill, 1980.
13 Ackrill, 1980, 32.
14 Keyt, 1991, 368.
第5章 アリストテレスの観照 98 照的な活動を中断するのを拒否する人の行為を大目にみるかもしれない」と議論する15。
これに対してKeytは、アリストテレスが「その人が人間であり、多くの人といっしょに 暮らすかぎりで、その人は徳に基づく活動を選ぶのである」(1178b5-6)と言っていること に解決の道を求める。観照する人は「人間として」倫理的徳に従って活動することを選ぶ とアリストテレスは述べているのだから、観照する人は常に人間であるという点で、倫理 的な徳が獲得されれば常にそれにしたがって実践するはずだと彼は考える。
Keytは、人は思慮と倫理的徳の生のうちでのみ、自己を不死にするよう求めるべきなの だと解釈して、何とか観照と実践の対立を調停しようと試みる。
一方Heinamanは、できるだけ幸福を観照以外のものも加えた全体として見ていこうと
する解釈の誤りを指摘する16。彼は、幸福と徳は別の次元で考えなければならず、幸福は現 実活動であって、徳は<身に付いたありかた()>と言われていることに注意を促す
(1098b31-1099a7)。幸福は自己充足であるといわれている第 1 巻も、幸福は観照である
と言われている第10巻も不一致はなく、自己充足に最も適合するのが観照なのだから、ア リストテレスの立場に変わりはないし、完全な幸福は観照のみであって、その他の諸善と は区別すべきだと彼は解釈するのである。
そうするとHeinamanは、幸福から観照以外のものを排除するのかとも思われるが、彼 によれば、その他の諸善もそれ自体で選択されうるし、徳に従う魂の活動が幸福であると 言われているのだから、倫理的徳も活動しているならば幸福と認められる。つまり<完全 な>幸福は観照の現実活動だが、倫理的な徳の実践などを幸福に入れることも否定されて いるのではない。
彼は「一つの倫理的徳の要求が他の倫理的要求と争う状況がありそうではないのと同様、
観照と倫理的徳の要求が争うという状況もありそうではない」17と述べて、Keyt の議論で 見たような、燃える建物から隣人を救いだすことも観照する人には十分にありうると考え る。だがこのHeinamanの結論はいささか苦しいようにも思われる。観照に従事する人は、
倫理的な実践を行うことを選ぶかもしれないが、選ばないかもしれないとすると依然問題 は解決していないのである。
KennyもHeinamanと同じく、観照のみをアリストテレスの完全な幸福とみる立場に立
っているが、観照についてより踏み込んだ考察をしている18。
彼は研究者達が、なぜアリストテレスが知性主義に陥っているとみるに至ったのかとい う主な理由として、彼らがアリストテレスの称賛者として、アリストテレスの成熟した倫
15 Adkins, 1978, 313.
16 Heinaman, 1988.
17 Heinaman, 1988, 51.
18 A. Kenny, 1992.
第5章 アリストテレスの観照 99 理学的著作に、そのような「奇妙な教義(a strange doctrine)」を負わせたくなかったか らだろうということを挙げている19。Kennyは、第1巻と第10巻を別々のものとして扱う ことも、その両方を矛盾するとみなすことも、まして現代の哲学者によって倫理的に受け 入れられるような解釈も失敗するだろうと述べる。
そして彼は、Heinaman が示す火事の事例に関する解決策に対して、観照する人が倫理 的徳を欠いていることを当然視することは軽率だと述べる20。Heinamanの場合、完全な幸 福としての観照と倫理的徳は明確に区別され、観照する人は実践のほうがよいかどうか選 ぶことになるのだから、観照のうちには倫理的徳を見出すことはできないということにな るだろう。
Kennyは、この問題の解決を『エウデモス倫理学』に求める。その第8巻においては、
アリストテレスは、善は何であれ神の観照に最も貢献するのが最善なものであり、最も高 貴な基準であるが、しかし神に仕え神の観照を妨げるものは悪なのであり、魂のうちの非 理性的な部分をできるかぎり小さくすることが魂にとっての最良の基準であると述べてい る(1249b16-23)。
したがって観照とは神の観照との一致であり、それは善美との一致なのだから、この視 点から観照する人が非倫理的な行為をすることはありえないということが導きだされるの である。
Kenny も指摘するように、『エウデモス倫理学』の一節は、プラトンの『ティマイオス』
の影響をみることができる。プラトンは次のように語っている。
学びの愛と、真の知()を熱心に求め、自己に属するもののうちでも、と りわけ、これらのもの(神的と呼ばれる部分)に励んできた人にとって、もし真実 に触れるならば、その知は、必然的に不死的で、神的なものの知をもっているのだ。
そしてその人は人間の本性が不死に与ることが可能なかぎりで、まったく不死であ るはずだし、彼はいつも神的な力を養い、彼のうちの神霊的なものを整えるのだか ら、彼は際立って幸福であるだろう。(90b6-c6)
このようなプラトンとの類似性は、先にみた『ニコマコス倫理学』第10巻での「できる だけ自己を不死的なものにせよ」という一節にもみられる21。
19 A. Kenny, 1992, 89.
20 A. Kenny, 1992, 90.
21 Cornford(1952, 354-355)も、プラトンのこの箇所と、アリストテレスの10巻第7章
を対比させている。