第 8 章 賢者と観照
第 2 節 真の思考と観照
「幸福について」では、鏡像の本体に当たるものが「知性や思考()」 という表現で説明されていた。思考が、鏡面より上位の真の魂の活動の側に配されている ことは明らかだが、経験的に考えれば、われわれはしばしば誤った思考をする。プロティ ノスは、そのような思考を偽りの思考と呼び、偽りの思惑と同列において、実際には思考 ではなく、表象であって、魂の思考的部分の判断を待たずに判断しているのだ(Ⅰ. 9. 4-10) と説明する18。欲求や激情といった情念も、これら偽りのものに属すと言われることから、
カタルシスによって取り除かなければならないのは、このような偽りの思考も含まれるの であろう。
前節でみた意識の構造から考えると、表象にかかわる部分が、外的な知覚の働きに傾き すぎることによって知性の似姿をうまく受け取ることができなくて、感覚的な表象にかか わる活動だけで判断した場合に誤った思考が生じると考えられる。これを身体の調和が乱 れて鏡面が壊れ、知性の似姿が映らない状態とみることもできよう。プロティノスが鏡面 の上位に配する思考は、真の思考と言われる誤らない思考であり、賢者の幸福もこの上方 部分にあると考えられる。プロティノスは真の思考について次のように述べている。
少なくともそれが本来的な仕方で真実の魂に属する思考であるならば、思考が知覚の
印影の判断をするときには、すでに形相を観照しているのであり、またいわば自己意 識によって()観照しているのである。(Ⅰ1.9.18-21)
ここでの自己意識は、先のに相当するような外的な知覚を伴う
18 Blumenthal(1971, 100-103)は、思考に関連する語(とあるいは、
とあるいは)をプロティノスが区別をつけて用い ているのか検討している。それによると、文脈によって多少の違いはあるものの、これ らの語は自由なヴァリエーションで用いられているようである。上位の思考と下位の思 考に用語上の区別があるかという問題も、Ⅰ1の場合には「真の」という差別化がなさ れているので問題ではないだろう。
第8章 賢者と観照 147 意識とは異なり、純粋に魂の思考の自己意識で、経験的な意識を超えた概念に向けられて
いる19。Smith が、賢者に二重の意識の存在を考えているのも、このような意識に注目し
た結果である20。が用いられているのは、知性本来の自己知、すなわち主体と客体が完 全に一致する自己知と類比させていると考えられる。プロティノスの形而上学では、上位 に行くほど主客一体化の傾向が強まるが、魂の観照の段階は、知性本来の自己知にもなぞ らえられる自己意識を持つのである。
思考についてのここでの記述は、前章の「知覚から生きもののうちに生じる印影はすで に知性内容である」という文と対応する内容を示している。そのときの文脈では、知覚が 働いているときには魂の観照が先行していると理解できたが、ここでは「すでに形相を観 照している」と言われることから、思考に対しても観照が先行していると解釈することが できる。
しかし、真の思考と観照の活動の関係はもう少し考えてみなければならない。というの も真の思考も鏡面の上位で働いているのだから、観照の活動が先行するというよりも、両 者は同一ではないかという可能性もあるからである。
プロティノスが「観照する」という語を用いるときには、その観照対象は「形相」とい われる。この形相が、単なる感覚的なものから抽象化された形のようなものを指示してい ないことは、前節でみたとおり、それが「知性内容()」と言われることや、観照の 先行性から確認できる。つまりこの形相は、魂の上位の知性由来のものである。
このように観照の活動は、常に知性へ向けられている。一方思考は、知覚の印影の判断 といった外部のものの認識に働きが向けられている。おそらくこの両者は、上位の魂にお ける機能の相違ではないかと考えられる。
プロティノスは「認識する諸存在とかなたのものについて」第 4 章で、自己を認識する ものに2種類あると述べる。ひとつは魂の思考の本性を認識するもので、いまひとつはこ れより上位で、自分自身が知性となることによって、知性にもとづいて自己を認識するも のである。そして、後者の場合、人間とは全く別のものとなって、自己を上方へ運び去り、
ただ魂の優れた部分だけを引きさらって思惟する。この部分だけが、知性活動への翼をは やすことができるのだ(Ⅴ3. 4. 7-14)と言われる。
19Dodds(1973, 136)はとを同じレベルの自己意識
(self-consciousness)と見て、ともにプロティノスにおいては重要ではないと考えている
がこれは適切ではない。
20 ただしSmith(1978, 296-298)は、を知性的レベルだけでなく世界魂
のレベルにも適用させている。また Warren(1964, 91)、Schwyzer(1960, 357)らは ストア派の共感との関連を指摘する。
第8章 賢者と観照 148 前者は魂が思考のレベルで認識する段階で、後者は魂ではなく、知性の自己認識だとみ るべきかもしれない。しかし、「自分自身が知性になる」という表現から考えると、まだ知 性になっていないものが、これから知性になるところだとも考えられる。またそれが、知 性そのものだとすれば「知性にもとづいて()」という表現もでてこないはず である。そうだとすると、これもやはりまだ魂の段階にあるもので、しかも思考レベルの 魂よりも上位にある魂である。もっとも、プロティノスは第3章で、これを魂の部分と呼 ぶべきだろうかと自問して、むしろ「われわれの知性と呼ぶだろう」(Ⅴ3. 3. 22-27)と言 っている。この段階は、知性と魂のまさに分水嶺にあたるところであろう。
ところで、自己認識と観照は異なるのではないかという反論が予想されるが21、プロテ ィノスは第5章において、観照と自己認識をほとんど区別することなく用いている。観照 とは、究極的には、自己が自己であるところのもの、つまり自己の根源の認識であろう。
知性は最も純粋な仕方で自己認識する。したがって、魂のうちで、常に知性に直接触れ、
まさに知性となって自己認識することのできるものこそが観照する魂である。知性になっ たという次元ではすでに知性であるが、知性になるという次元ではまだ魂であるような。
そうすると、観照する魂こそが、知性への翼をはやすことができるところであり、もしわ れわれが知性への上昇を願うならば、ここにこそその突破口があるということになる。
一般的に魂の知性的な部分と言われるときには、観照と思考の働きを包含するひとつの 魂として捉えることができるけれども、思考は相対的に外部に向けられた活動であり観照 によって支えられている。いわば思考にとって観照は、知性の把握を可能にさせる自己自 身の鏡面のようなものかもしれない。しかし観照の方は、すでに直接観ているのである。
以上のことを踏まえて、改めてプロティノスの「知覚から生きもののうちに生じる印影 はすでに知性内容である」や「思考が知性の印影の判断をするときにはすでに形相を観照 している」で述べられている「すでに()」という語に注目してみるならば、この語は 時間的な遡及を許さない関係を含意していると考えられる。Smith は、上位の活動と経験 的なレベルでの活動を「同時に(simultaneously)」という語で示し22、ほかの研究者のう ちでもそのような記述をしている人も多いが、厳密にいえば、両者の関係に同時という時 間的な表記はふさわしくないだろう。
つまりこれは、「同時」や「先」という時間的な概念によって把握されるものでもなく、
「内」と「外」という空間的表現さえふさわしくなく、時空間を超越しながらもわれわれ の内奥に常に現前し、光のように内面を照らしている永遠的なある相の存在を指示してい
21 鷲見、1996、21。
22 Smith, 1999, 235.
第8章 賢者と観照 149 るのである。外的な知覚や知覚を伴う意識は観照と二相をなし、思考と観照も二相をなし
―ただし場所的な意味ではないが―これら内面の諸活動すべては観照する魂へ収斂されて いると考えることができる。
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以上のようにプロティノスの観照とは、人間が知覚や思考の能力を働かせることに先行 する魂の働きであり、時間的なプロセスのうちにないということが明らかになった。した がって観照は、一般に理論と実践といった表現で捉えられるような、実践に対立するよう な概念ではない。
われわれはすでに、プラトンとアリストテレスの観照が、実践に対立する概念としてみ るべきではないということをみた23。プラトンの美のイデアの観照は、それによって不死 となり幸福になるといわれるが、その不死性は無時間的永遠を示唆していた。観照するも のは美のイデアに触れ、イデアとともに無時間的永遠のうちにいるとみなすことができた。
アリストテレスの観照は、実践的な知恵や論証にかかわる知識といったものも包含する根 本的な知性の現実活動だとされている。つまり、観照は実践活動を可能にしている働きと いうこともできるであろう。
プロティノスの観照の捉え方は、プラトン、アリストテレスの思想を引き継いでいると 考えられる。だがさらにプロティノスにおいては、人間の知覚や思考が詳細に分析され、
そこに観照の無時間性が示されている。つまりプロティノスは、観照の内容とその無時間 性を、プラトンやアリストテレスよりも理論化しているということができるであろう。
この章では、賢者の徳は観照であるということから観照についてみてきた。賢者が幸福 であるというのは、時間にかかわるプロセスのうちに自己の主体がないありかたをしてい るということを示している。魂が知性に向かうこのような観照の局面において、時間を超 える無時間性というものが、幸福であるということにおいて、非常に重要な意味をもつと いうことが次第に明らかになってきた。そこで魂の観照が時間を超えているということは どういうことなのか、次に魂の時間性と永遠性の問題について考えていきたい。
23 本稿第4章、第5章。