第 9 章 観照と永遠
第 2 節 幸福であることは現実活動である
「幸福について」では、人は感覚的な生命だけでなく、思考的な部分や真の知性も持っ ているのだから、<完全な生命()>―つまり幸福―をもつけれども、賢者と そ う で な い 人 の 区 別 は 、 そ れ を 可 能 的 に も っ て い る か 、 現 実 的 に も っ て い る か
()の違いだと述べられている(Ⅰ4. 4. 1-17)
人がある能力を可能的にもっているか、現実的にもっているかという議論は、言うまで もなくアリストテレスに帰されるものである11。ここでは、プロティノスがアリストテレス
11 アリストテレスの現実活動は、との訳として用いる。は、語 の構成から「仕事のうちにある」といった意味合いがあり、は「テロス(目的)
のうちにある」といった意味合いがあるが、アリストテレスは、両語をほぼ同義で用い ている。藤沢、1980、237-238参照。プロティノスはのほうはあまり用いない。
アリストテレスは、人が知識をもっているという意味を三種類に区別する。第一は人間 が知識をもつものに属するという場合で、第二は具体的な知識たとえば読み書きの知識 をもっている場合であり、前者は人間の類としてもつのだけれど、後者は妨げられない ならばすぐに観照すること()ができるという意味で持つのである。そして第三 が、観照している人で、現実活動において()知っている人の場合だとされる。
このとき前者は可能的に知っている人である。人間が知識を持ちうるという可能性に対 して、知識を持っている段階を最初の実現とするならば、知識を持っている人が現に知 識を用いている段階は第二の実現ということになるであろう。最初の段階は知識を所有 している状態という意味で、は「現実態」と一般に訳される。一方知識を持って いる人が現に知識を用いているというのは、たとえば建築家が建築術を用いて家を建て ているといった場合だが、この実現としてのは「現実活動」「現実活動態」「活動」
などと訳される。アリストテレスの第一段階の現実態は、人が成長して知識をもつに至 るプロセスだから、可能性から実現に至るまでは学ぶといった時間的な経過や一種の動 きをもつ。しかし第二の現実活動はプロセスを必要としない。というのもいつでも条件 がそろえば行使できるからである。その点で第一の現実態とは区別される。プロティノ スの場合も、「完全な生命」を持っていなければ人間ではないといわれるのだから(Ⅰ1.4.
第9章 観照と永遠 160 の現実活動の概念をなぜ幸福の議論に用いているのかということについて、アリストテレ スの現実活動と動の対比に注目して捉えなおしてみたい。
1.現実活動と動
アリストテレスは『形而上学』で、動()と現実活動とを次のように対比させて いる12。
動はすべて未完成である。痩せること、学ぶこと、歩くこと、家を建てることがそう である。こういうものが動であるが、それは確かに未完成なものだ。というのも、人 は歩きつつ同時に歩いてしまったということはできないし、家を建てながら建ててし まったということもできない、……。他方、人は同時に同じものを見てしまっている とともに見ているし、思惟するとともに思惟してしまっている。このようなものを私 は現実活動と言い、先のものを動と言う。(1048b30-35)
アリストテレスが分類するここでの動には、歩くといった単なる場所の移動だけでなく、
痩せるといった増大減少や、学ぶや建築するといった一種の変化も含まれている。家を建 てるということは、ある目的に向かっているプロセスであり、いまだ完成に至っておらず、
常に不完全と言う意味で、可能的だと言われているのである。家を建ててしまったら、も
9)、一般的な人は可能的に完全な生命を持っていて、賢者は現実活動の段階において完 全な生命を持っているということになる。ただし、アリストテレスの例における知識は、
後に加えられ獲得されたものだが、プロティノスの完全な生命は、加えられたものでは なく本来持っているものである。
12 動の定義は『自然学』では、「可能的にあるものの、その可能的であるかぎりでの現実活 動が動である()」(201a10-11) とされている。アリストテレスのと()は、「可能的なもの」
と「現実的なもの」という対比のほかに、「素材」と「形相(実体)」の対比としても用 いられる。たとえば、動物(素材)としては可能的なものであり、二本足(形相)とし ては現実的なものである。同様に二本足(素材)に対して人間(形相)というように、
連続的な類と種差の関係の説明に用いられる(『形而上学』1045a-b)。プロティノスは、
自己の説としては、このような意味でを用いない。プロティノスが可能的なもの と現実的なものとを、素材と形相に対比させて用いるときは、形相は常に実在の点で上 位者であり、知性界は常に現実的である。可能的ということも、上位者の「能動的能力」
として言われる場合と、「受動的な可能性」として言われる場合があることに注意が必要 である(Ⅱ5. 2. 33-34)。また素材は真に有るものではない(Ⅱ5. 5. 25-28)という点で、
アリストテレスの第一素材と言われるものに近い。アリストテレスとプロティノスの現 実活動の比較については下記を参照。山口、1979。
第9章 観照と永遠 161 う「家を建てる」とは言われない。
一方、現実活動と言われるものとしては、「見る」、「思惟する」のほかに、「善く生きる」、
「幸福である」なども挙げられる。この場合は、見ていると同時に見てしまっているし、
善く生きると同時に善く生きてしまっているし、幸福であると同時に幸福になってしまっ ているのだ(1048b23-26)と言われる。動と現実活動との区別は、現在と現在完了が同時 であると言えるかどうかにある。現実活動は、完了していることが現在にあるのだから、
常に完成した状態である。
そしてこれらは、目的に向かっているようなものではない。見ているときにはもう見て しまっているのであり、時間的な経過を必要としない13。見ているということは、同時に目 的が達成されているという意味で、目的が内在する(1048b18-23)。
アリストテレスは、動と現実活動の同様の対比を、『ニコマコス倫理学』第 10 巻におい ても「見る」「快い」といった例を挙げて説明している。
快いことが現実活動とされる理由として、動には早いや遅いがあるが、快いということ には早いや遅いはないからだとされる。「早く楽しんでいる」とは言えないからである
(1173a-b)。それは、どの時点においても完全であるのと同様に、快さは一つの全体であ り、長い時間生じても完成ということにはならない。それゆえ快いということは動ではな いとされる(1174a13-19)。
アリストテレスは、「すべての動は時間のうちにあり、何らかの目的を持っていて、その 目指すものを達成したときに完全になる」(1174a19-21)として、動が時間と不可分な関係 であると考える。つまり動は、常にある地点からある地点への動だから、それは時間のう ちにあり、完成へ至ろうとする過程だから完全ではない。それは場所の移動だけでなく、
増大減少や変化でもおなじことである14。建築の始まりから家の完成まで、時間のうちにあ り完成を目指している。動の特性は、いつまでも可能性を内包し、未完成で、時間的経過 をもつ点であるといっていいだろう。そして目的が外部にあるという点で、目的外在的だ と言えるだろう。
一方快いことについては、「いかなる時点でもその形相は完全である。だから明らかに快 いことと動は互いに異なっており、快いことのほうは、完全で全体的ななにかである」
(1174b5-6)とされる。「いかなる時点でも」ということは、時間的長さを示しているよう
13 視覚が成立する生物学的なプロセスが、たとえわずかでもあるではないかと言われるか もしれないが、プロセスにおいてはまだ「見ている」とは言えない。
14 アリストテレスは動を、性質の変化、量の増大減少、場所の移動に適用するので、動は 通常の用法よりは広い概念を持つ。『形而上学』1068a。
第9章 観照と永遠 162 にも見える。しかし次の、「動は時間のうちにおいてでなければ不可能だが、快いことはそ れが可能であると考えられる。というのも今においてあるものは、ひとつの全体なのだか
ら」(1174b7-9)という記述からみると、現実活動は時間のうちになくてもよいと考えられ
ている。
そしてさらに、「点」や「一」が生成も動きもないように、快いことは「一種の全体」(1174b14) だとされる。快いことが現実活動として考えられているのは、このような「全体で完全で、
時間のうちにない」という点においてである15。アリストテレスは、快いということであれ、
見ることであれ、それが現実活動であれば、時間のうちにないことが可能であるという捉 え方をしている。
『形而上学』において、現実活動の特性としての、完全で、目的内在で、現在と現在完 了が同時であるということは、『ニコマコス倫理学』で言われる「全体で完全で、時間のう ちにない」ことと同一の事態を示しているとみて問題ないだろう。現在時称と完了時称が 同時であることは、時間のうちにないとまでいえるのかどうかは不明だが、動が経過をも つことと対比して言われているのだから、現実活動は経過をもたず、したがって時間のう ちにないとみることが可能である。
だが引用で挙げられたような、それぞれの人間の行為の事例においては、簡単に動と現 実活動に分類できない面があると思われる。たとえば、「家を建てる」にしても、家を建て るという面でみれば動であるかもしれないが、建築家が能力を発揮しているという面から みるならば現実活動といえる面ももっている。では一方は目的が完了しておらず時間のう ちにあって、他方は完成しており時間のうちにないというアリストテレスの区分の本来の 意図は何であろうか。
2.2つの視点からの世界把握
藤沢は、アリストテレスの動と現実活動のこのような対比は、人間の行為に対する根本 的に異なる2つの視点からきているのではないかと指摘する16。すなわち、動は、人間の行
15 ただしアリストテレスは、快いということは現実活動というよりも現実活動に伴うひと つの目的で、現実活動を完全なものにするという見かたもしている(1175b31-33)。快い ということには種類があり、完全で幸福な人の現実活動を完全にするような快さこそが、
まさに人間の快さということである(1176a26-28)と述べ、快いということと幸福との 関係を捉えなおしている。つまり、幸福であることは純粋に現実活動と言えるが、快い ということはそれに伴っているのだと考えるのである。プロティノスも、賢者には快楽 がともなうだろうと考えている(Ⅰ4. 12. 7)。
16 藤沢、1980、231-326。