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第 6 章 ストア派とプロティノスの賢者

第 1 節 賢者

1.パラリスの牛と賢者

ストア派の賢者像を残された断片集から描き出してみると、彼らは賢者に妥協のない完 全性を求めている。賢者は誤った考えも思いなしももたない。知性を持ち全てを徳にもと づいて行うので、あらゆることをうまく行い、後悔することもない。外的な禍に影響され ることはなく、恐怖にとらわれたり苦痛を恐れることもない。賢者は常に全く幸福で、い かなるものにも妨げられることはないと言われる7

ストア派は、賢者の幸福がどのような外的なものによっても妨げられない例として「パ ラリスの牛の中で焼かれようとも幸福である」と主張していたという8。彼らがどのような 意味でこれを述べていたのか、残された断片集から詳細を知ることはできないが、少なく とも、パラリスの牛の中で焼かれ苦痛のうちにいる主体と幸福な主体としての賢者とを区 別していたということは推測できる。

6 後期ストア派はプラトン主義に接近しており、プロティノスとの類似点もより多くみられ る。プロティノスに対するポセイドニオスやピロンとの関係は、ストア派の影響に関し てしばしば取り上げられるテーマである。Cf. Graeser, 1972, 6-9.

なお本章は以下の論文を加筆修正したものである。伊藤、2009。

7 SVFⅢ. 548, 549, 556, 557, 560, 567, 572, 582.

8 SVFⅢ. 586.

6 ストア派とプロティノスの賢者 104 プロティノスもパラリスの牛の議論を取り上げ、次のように述べている。

しかし、常に彼(賢者)のもとには、最大の学ぶべき対象があって、たとえパラリスの 牛と言われるもののうちにあっても、ますますそうなのである。その牛を彼らは2度も、

いや何度も快いと言っているけれども、それは意味もなく言われているのである。とい うのも、彼らの場合には、(快いと)口にしたものと、苦痛のうちにいるものとが同じな のだから。しかし、われわれの場合には、苦痛のうちにいるものとそれとともにいるも のとは別のもので、たとえ後者が前者と一緒にいるのが必然である間でも、善全体をあ ますところなく観照しているであろう9。(Ⅰ4. 13. 5-12)

プロティノスが、「苦痛のうちにいるものとそれとともにいるもの」と語る際の二重の人 間とは、「生命あるものとは何か、人間とは何か」(Ⅰ1[53])で述べられているような、「知 性的()」10と言われる上位の魂と、身体とむすびついて合一体のうちにあると言われ る下位の魂のことである。本来の人間とは上位の魂であり、生きものはこの魂から届けら れる能力と素材からなる合一体と言われる11

プロティノスの体系に照らせば、苦痛のうちにいるものは合一体のうちの魂であるけれ ども、本来の魂として生きる賢者は苦痛とは係わりがないと主張することが理論上可能と なっている。というのも、合一体のうちで蒙る外的影響を、上位の魂はただ把握するだけ だからである12。つまり、賢者は苦痛に気付いていても、苦痛で苦しむことはない。

では、苦痛のうちにいるものが、「快い」と口にしたものと同じものといわれる批判はど のような意味においてなされているのだろうか13。プロティノスのここでの議論の核心は、

9 Ⅰ4. 13. 5-12.

10 Ⅰ1. 13. 6.

11 「生命あるものとは何か、人間とは何か」で述べられている二重の人間については、本 稿第8章で取り上げる。

12 Ⅰ1. 7. 9-11.

13 プロティノスの常の議論のやりかたとして、批判の対象となる者の名を挙げないことが 多いため、「彼ら」がストア派を指すのか確定はできない。「快い」という議論を提起し ているのはストア派ではなく、エピクロスであろうとみる研究もある(McGroarty, 2006,

175; Bréhier, 1976, 82)。確かにエピクロスにも、類似の表現が伝えられているし(D L 10.

118)、プロティノスのここでの批判は、当時幸福をめぐってしばしば取り上げられたテ ーマに沿っているということも予想される。ただストア派の断片集でもこの議論が確認 できるのだから、プロティノスの批判の対象のひとつがストア派に向けられていたと考 えることは十分可能である。主要な翻訳、注釈書でも、ここでの「彼ら」を指すものと してストア派とエピクロスの名が挙げられている(Henry/ Schwyzer, 1964, 83;

Armstrong, 2000, 204-205; Harder, 1960, 5b, 327-328. 田之頭、1986、253)。Dillon

(1996, 323)は「彼ら」をストア派と解釈している。ここでは、プロティノスとストア

6 ストア派とプロティノスの賢者 105 パラリスの牛で焼かれても賢者が幸福であるということを主張するためには、苦痛のうち にいる主体と幸福な主体としての賢者が別々でなければならないということである。した がって、ストア派の場合プロティノスによって両者が同一と言われるのはどのような意味 においてなのかということに焦点を当てて考察を進めていきたい。まずストア派の賢者の 魂がどのような構造をしているのかみてみよう。

2.ストア派の魂の構造

ストア派は魂を気息と考え14、これを非物体的なものとみなしていない。その根拠として は「死とは魂が体から分離することである。ところが非物体的なものが物体から分離する ことはない。非物体的なものが物体的なものと結合することはないからである。しかるに 魂は体と結合しまた分離する。それゆえ魂は非物体的なものではない」15と説明される。

非物体的なものが物体的なものと結合することはないという大前提は、プロティノスの 観点からみれば承認しがたいと思われるが、この前提はストア派の物体概念から導かれた ものである。すなわちゼノンは、何らかの作用を及ぼすものも受けるものも物体以外では ありえないと考えた16。魂も身体に作用を及ぼすのだから、物体とみなされているのである。

ストア派の魂の諸機能としては、最高の部分と言われる主導的部分と、感覚器官、音声、

生殖にかかわる部分が区別されている。人間の魂を検討する場合は、魂の主導的部分が重 要である。主導的部分は、表象、同意、感覚、衝動を作り出すと言われる17

ストア派は動物にも感覚だけでなく、表象と衝動を認めているが、動物と人間では衝動 の仕方が異なり、人間の場合、もろもろの表象に判断を下してそれらの表象と一緒に引き ずられることはないという18。つまり表象に同意を与える働きは判断のうちにあり、判断に よって同意を与えるまでは、人間には行為に繋がる衝動や欲求は生じないのである。この 判断する能力によって、人間はロゴスなき動物たちと区別される。

ストア派の賢者の幸福は、ロゴスの完成によって達成されると言われるが、ロゴスが完 成していない状態はパトスとの関係から説明される。次にパトスに関して考察をすすめて いきたい。

派の対比を主題としているので、エピクロスについては検討しないこととする。

14 SVFⅠ. 135-138.

15 SVFⅠ. 137c.

16 SVFⅠ. 90.

17 SVFⅡ. 836.

18 SVFⅡ. 714.

6 ストア派とプロティノスの賢者 106 3.ロゴスとパトス

ストア派では、すべてのパトスは判断と思惑から生じると言われ、パトスの主なものと して、苦痛、恐怖、快楽、欲望が挙げられている19

プロティノスの場合、上位の魂はパトスの影響を受けることがないが、合一体のうちの 魂のレベルでは思考の誤りや思惑があり、苦痛や恐怖といったことも生じる。上位の魂は 観照にかかわる魂で、それ自体は下位のものに影響を受けるようなこともない。

ストア派の魂の場合、主導的部分が感覚器官に係わる下位部分に命令を出しているのだ から、上位の魂に相当すると思われるのだが、パトスもこの主導的部分にあると言われる とき、ストア派には独自の魂の枠組みがあることがわかる。

プルタルコスはストア派の説として「パトスとは、劣り誤った判断が強い力を獲得する ことから生じる劣悪で放埓なロゴス」20であると伝えている。つまりパトスとはロゴスの対 立概念ではなく、ロゴスの一種の劣ったもの、ロゴスの完全でない状態を示している。ロ ゴスが「過剰」とか「逸脱」と表現される状態へ変化することによって、非ロゴス的と言 われるようなパトスの状態に陥るのである21

クリュシッポスは「知者は苦痛を感じはするが、拷問されることはない……それは魂に 伝えないからだ」22と語っていたと言う。「魂に伝えない」と言われる魂は主導的部分のこ とである。賢者の場合、主導的部分は完全なロゴスが支配しているため、苦痛を知覚して もパトスに陥ることはない。賢者は「パラリスの牛の中で焼かれようとも幸福である」と いう主張はこのような理由によると見られる。

ロゴスの不完全性によってパトスの状態となるような主導的部分の構造をみると、プロ ティノスの場合とはかなり異なっていることが理解されるが、Dillonが指摘する類似点「感 情に属するすべてのものを排除する」ということがプロティノスにも見られるのはどう考 えるべきだろうか。

通常パトス()という語は、受動的な意味をもち、受難、苦しみ、激情などと訳さ れる。ストア派の理想的な魂の状態は、一般的に非パトスすなわち「無情念」(アパテイア)

であると言われるのだが、この見解は、ストア派の賢者の冷厳な人物像へ結び付けて解釈 されがちである。だがストア派の賢者に全く感情的なものがないのかというと必ずしもそ ういうわけではない。というのも、彼らには「よい情念」(エウパテイア)という概念があ

19 SVFⅢ. 380.

20 SVFⅠ. 202.

21 SVFⅢ. 459.

22 SVFⅢ. 574.