• 検索結果がありません。

M

夫人[=モンテスパン夫人]とその姉

T

夫人[=ティアンジュ夫人]はキノーのオペラ に飽きられて、ラシーヌ氏に

1

つ作らせるよう王に提案された。ラシーヌ氏はお二 人にかなり気楽にその約束をしていたが、私と共に何度か相応しいとされたその仕 事に、決していいオペラは書けないとその時まで考慮していなかった。なぜなら音 楽は語る術を知らないからだ。

[...]しかし事は進んで引返せない所まで来ていたので、

結局彼はオペラの仕事を引き受けた。その主題は《ファエトンの墜落》であった。

彼はその数行を王の前で朗誦さえして、王は満足されているように見えた。しかし、

ラシーヌ氏はその仕事をいやいやながらしか取り掛かっていなかったので、私が一 緒でなければ成し遂げられないときっぱりと打ち明けて、なによりも私にプロロー グを書くように言った。私はそのような才能を持ち合わせていないし、恋の詩は書 いたことがないと彼に表明しても無駄で、彼はその決心を押し付け、プロローグを 私にというのは王の命令だと言った4

ボワローは自分の才能や傾向に反する、オペラの台本を書くという仕事に不本意にも携 わった経過を述べているが、そこには《ファエトンの墜落》が上演されなかったことの言 い訳もあると思われる。続いてボワローは、自分が書いたプロローグの梗概を述べた後、

こう続ける。

われわれはこの惨めな仕事に仕方なくかかずらっていたが、突然幸運な事件がこの 仕事から引き離してくれた。事件というのは、キノー氏が御前に罷り出て、両目に 涙を一杯ためて、自分が受けた侮辱を述べ、もう〈陛下〉のためにディヴェルティ スマンの仕事はお受けできないと直訴した出来事だ。王はキノー氏に同情され、先 ほど述べた御婦人たちにはっきりと、彼に悲嘆を与えてはならないと宣告された5

このことについて

1992

年の著作でボーサンは、このボワローの話、ラシーヌたちがオペ ラ台本を書く仕事に「いやいやながら取り掛かった」という言葉をそのまま信じてはなら

4 Nicolas Boileau-Despréaux, « Préface du Fragment d’un Prologue d’opéra » dans Œuvres complètes, éd. F. Escal (Paris: Gallimard, coll. Bibliothèque de la Pléiade, 1966), p. 278. « Mme de M. et Mme de T., sa sœur, lasses des opéra de M. Quinault, proposèrent au roi d’en faire faire un par M. Racine, qui s’engagea assez légèrement à leur donner cette satisfaction, ne songeant pas dans ce moment-là à une chose, dont il étoit plusieurs fois convenu avec moi, qu’on ne peut jamais faire un bon opéra, parce que la musique ne sauroit narrer; [...] mais, il etoit trop avance pour reculer. Il commença dès lors en effet un opéra, dont le sujet étoit la chute de Phaéton. Il en fit même quelques vers qu’il recita au roi qui en parut content. Mais comme M. Racine n’entreprenoit cet ouvrage qu’à regret, il me temoigna résolûment qu’il ne l’achèveroit point que je n’y travaillasse avec lui, et me déclara avant tout qu’il falloit que j’en composasse le prologue. J’eus beau lui représenter mon peu de talent pour ces sortes d’ouvrages, et que je n’avois jamais fait de vers d’amourettes: il persista dans sa résolution, et me dit qu’il me le feroit ordonner par le roi.

» Philippe Beaussant, Lully ou le musicien du soleil, op. cit., pp. 553-554.

5 Nicolas Boileau-Despréaux, op. cit., p. 279. Philippe Beaussant, Lully ou le musicien du soleil, op. cit., p. 554. « Nous étions occupés à ce misérable travail, dont je ne sais si nous nous serions bien tires, lorsque tout à coup un heureux incident nous tira d’affaire. L’incident fut que M. Quinault s’étant présenté au roi les larmes au yeux, et lui ayant remontré l’affront qu’il alloit recevoir s’il ne travailloit plus au divertissement de Sa Majesté, le roi, touché de compassion, déclara franchement aux dames dont j’ai parlé, qu’il ne pouvoit se résoudre à lui donner ce déplaisir. »

144

ないとする。ラシーヌはオペラの台本を書きたかったからこそ、『エステル

Esther』、『ア

タリーAthalie』を後に書いたと説明する6また、オルシバルも

1949

年の論考で、キノー が失脚した状態は

1677

年《イジス》以来のことであり、

1679

年ラシーヌとボワローが《ファ エトンの墜落》を書いていた時、キノーが泣いて王に訴えたとするボワローの話は信じら れないとする7。しかも同年には王の許しが出て、キノーは次作《プロゼルピーヌ》の制作 に取り掛かっていた8

その後オルシバルによると、ラシーヌとボワローは

1683

年に小さいオペラを書いたと見 られるが、ラシーヌ自身の著作集には見当たらない。1685年

7

月ソー(Sceaux)で行われ た祭典に、ラシーヌが《平和への田園詩

L’Idylle sur la Paix

》を書いたことは確かである。

リュリが音楽を書き、ヴィガラーニの弟子ベランが装置を受け持った9

1689

1

月、ラシーヌはマントノン夫人 (Madame de Maintenon) の依頼でサン=シール 女子学院の生徒のために、音楽付きの宗教劇『エステル』を王の御前で上演する。音楽は 宮廷音楽家のモロー (Jean-Baptiste Moreau) が担当した。その時にはすでにリュリは

1687

年、キノーは

1688

年に世を去っていた。信心深いマントノン夫人の要請、しかも貧しい貴 族の子女の教育のためという理由で宗教的主題が取り上げられた10

『エステル』の「序」でラシーヌは次のように述べる。

計画にしたがって筆をすすめるうちに、すでに胸中をしばしば去来した構想を、あ る意味で実行していることに気付いた。すなわち、古代〈ギリシアの悲劇〉のよう に、〈合唱隊〉と〈歌〉を〈劇の筋〉に結びつけ、かつて〈異教徒〉が偽りの〈神々〉

を讃えて歌うのに使った〈合唱〉部を、真の〈神〉を褒め讃えて歌うのに用いよう ということであった11

このラシーヌの「かつて〈異教徒〉が偽りの〈神々〉を讃えて歌うのに使った〈合唱〉

部」を、「真の〈神〉を褒めたたえて歌うのに用い」るという箇所について、白石は「偽 りの神々の讃歌」を「真の神の讃歌」に転用できるとラシーヌが主張しているとする。こ の前提として、ラシーヌが前述した『イフィジェニー』「序」において主張した「パリの

6 Philippe Beaussant, Lully ou le musicien du soleil, op. cit., p. 554.

7 Jean Orcibal, « Racine et Boileau librettistes » dans Revue de l’Histoire littéraire de la France ( Paris: Armand Colin, 1949), p. 251, not. 2.

8 Étienne Gros, op. cit., p. 130.

9 Ibid., p. 313. Jean Orcibal, op. cit., p. 253. Lecerf de la Viéville, Comparaison de la musique italienne et de la musique françoise, op. cit., t. 2, pp. 128-132.

10 それまで「王立音楽アカデミー」の舞台では教会側からの批判を避けるためにも、聖書から主題を採 ることは控えてきたが、イエズス会のルイ=ル=グラン学院(Collège Louis-le-Grand)などでは16882 月シャルパンティエの《ダヴィッドとヨナタス David et Jonathas 》の例に見られるように宗教的主題のオ ペラも上演されていた。James R. Anthony, op. cit., p. 151.

11 Jean Racine, « Préface d’Esther » dans Œuvres complètes, t. I, éd. Gerges Forestier, op. cit., p. 946. « [...] je m’aperçus qu’en travaillant sur le plan qu’on m’avait donné, j’exécutais en quelque sorte un dessein qui m’avait souvent passé dans l’esprit, qui était de lier, comme dans les anciennes Tragédies Grecques, le Chœur et le Chant avec l’Action, et d’employer à chanter les louanges du vrai Dieu cette partie du Chœur que les Païens employaient à chanter les louanges de leurs fausses Divinités. »

145

趣味は古代アテネのそれと同じ12」という論点を指摘する13

たしかに『エステル』には合唱隊や歌が筋書きと結びついて用いられ、そこに古代ギリ シア劇の影響は見られるものの、主題は古代オリンポスの神々が支配する世界ではなく、

『旧約聖書』から採られた宗教劇であった。ラシーヌ曰く「偽りの〈神々〉の讃歌」から

「真の〈神〉の讃歌」への転用は、ペローに従えば古代の趣味を当代のキリスト教が支配 する社会の「適切さ=節度ビ ア ン セ ア ン ス

」に置き換えたともいえるであろう。そのことではわれわれは ラシーヌが『イフィジェニー』において、エウリピデスをパリの趣味に合わせて筋を変更 し、機械仕掛けや変身という手段を排除したことを確認した。ラシーヌは古代の趣味とル イ

14

世時代のそれとが相違することを認識していたのだ。

そして古代を崇敬しているはずのラシーヌが古代ギリシアの異教の神々を指して「彼ら の偽りの〈神々〉leurs fausses Divinités」という用語を使う時、そこに二つの文脈が受け取 れると考える。一つにはこの戯曲がキリスト教の信仰心深いマントノン夫人の依頼でサン

=シール女子学院のために書かれたことである。聖書から題材を引いた音楽劇の上演が可 能になったのは、いまやルイ

14

世の寵愛深いマントノン夫人が主宰するサン=シール女子 学院において、その生徒が学内で限られた招待客の前で披露するという条件の下に許され た上演であり、お金を払った一般観客の前で行われるパリ市内の「王立音楽アカデミー」

上演とは状況が異なっていた。しかも王は老い、簡素な生活を好むマントノン夫人の影響 もあり、かつてのリュリとキノー時代の華美で祝祭的なオリンポスの神々に自らを擬すこ ともなくなった。よってラシーヌのオリンポスの神々に対する「偽りの神々」という言葉 が出てきた要因にもなったと思われる。

二つには、やはりそこに古代ギリシアと同じくオリンポスの神々を用いるトラジェ ディ・アン・ミュジックに対する暗黙の対抗意識と批判が読み取れると考える。古代ギリ シア悲劇の再興を目指し劇の筋書きに音楽とダンスを結びつける試みはトラジェディ・

アン・ミュジックによりすでに成され、当時の観客から支持されていた。しかしそこで登 場するオリンポスの神々は、ルイ

14

世がそれらに擬されることを辞めた今、キリスト教に とって偽りの神々であり、聖書を主題とした題材はキノー/リュリのトラジェディ・アン・

ミュジックでは試みられていない。よってラシーヌは自分こそが「偽りの〈神々〉の讃歌」

ではなく「真の〈神〉の讃歌」を筋に結び付け、真の古代悲劇を再現する演劇を作り上げ たと誇りたかった。

1691

1

月、ラシーヌは同じくマントノン夫人の依頼でサン=シール女子学院のために、

同じく『旧約聖書』から主題を採ったモローの音楽付きの『アタリー』を書いたが、数回 のリハーサルのみで終わった。『アタリー』の大団円には機械仕掛け劇の影響が見られる。

よってラシーヌは機械仕掛け劇や豪華な装置に終生興味を持ち続けたとヴァニュクセンは 述べる14

12 本論文124頁参照。

13 白石嘉治「新旧論争とラシーヌ『エステル』」、上智大学仏語・仏文学論集(36)、139‐156頁、東京:

上智大学仏文学科、2002年、146‐147頁。

14 Jacques Vanuxem, op. cit., p. 317.