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第一節 『アルセスト批評』前半、筋の展開からエウリピデスとキノーの比較

前章の『アルセスト批評』において、中断した箇所から続けよう。

クレオンは対話の論点を変更することをアリスティップに提案する。「詩句や曲につい て話す前に、主題について検討しましょう。まずエウリピデスを要約し、次にオペラを検 討します。キノーがどんな点を削除し、また創作して付け加えたかを見た後で、キノーの 戯曲が非難に値するのか、それとも称賛されるべきものなのか判断を下しましょう」。

まずクレオンはエウリピデスの戯曲の梗概5を述べ、キノーが削除した点を

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箇所、続い て付け加えた点を

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箇所提示し、それぞれについて検討する。こうしてエウリピデスの原 作を損ねたと弾劾されるキノーの戯曲擁護に掛かる。

第一にキノーによるエウリピデスの削除ではプロローグを挙げる。エウリピデスではア ポロンと死の神との対話で、始めに筋の多くを知らせてしまう。それは、演劇の最大の楽 しみである心地よい驚きと巧みな解決の仕方に反するとペローは論じる。

演劇〉の〈戯曲〉における最も高貴な美の一つは、その〈戯曲〉の筋書きや絡みで われわれが出会う、出来事の心地よい驚きと、困惑や不安が見事な解決法で解放され るのを見る喜び、そこにあるということが真実ならば。アポロンと死の神のこの〈場 面〉は、エルキュールが〈死の神〉の腕の中にいるアルセストを〈夫〉に返すために 取り戻しに行くと知らせてしまい、この喜びをわれわれから完全に取り上げてしまう のは確かです6

よってこの箇所を削除したキノーをペローは支持している。

ここに、悲劇の基本要素としてのアリストテレスが論じる「筋書きミ ュ ー ト ス7の展開とその解決 法から生じる「驚くべきもの」の重要性がペローによって、明確に提示されている。そこ にはペローの長年の友人であるシャプランが、アリストテレスのタウマストンの流れを引 き継いで定義した「魂を驚きと快楽とで魅了するもの8」という「驚くべきもの」の概念が ある。「困惑や不安が見事な解決法で解放されるのを見る喜び」とは、同じく「驚くべき もの」の一つの現われである、劇の大団円での「急転回

péripétie」を見る楽しみであろう。

古代ギリシア劇においては、劇の始まりにおいてプロローグとして観客にそれまで起き

5 ペローはプロローグと5幕に分けて解説する。

6 Charles Perrault, Critique de l’Opera, ou Examen de la tragedie intitulée Alceste, ou le Triomphe d’Alcide, op.

cit., pp. 29-30. « S’il est vray qu’une des plus grandes beautez des Pieces de Theâtre, consiste dans la surprise agreable des évenements, & dans la joye de se voir delivré par un dénouëment ingenieux de l’embarras & de l’inquietude où nous a mis l’intrigue & le nœud de la Piece. Il est certain que cette Scene d’Apollon & de la Mort, où l’on apprend qu’Hercule viendra retirer Alceste d’entre les bras de la Mort, pour la rendre à son Epoux, nous oste entierement ce plaisir, [...] »

7 本論9頁参照。

8 本論8頁参照。

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た事件を知らせ、これから始まる劇の理解のために情報を与える場が置かれた。エウリピ デスの『ヒッポリュトス

Hippolytos

』においても、冒頭アプロディテがヒッポリュトスと パイドラーの成り行きを結末まで知らせてしまう。コルネイユはこのプロローグの扱い方 について、エウリピデスの時代になると次第に粗雑になってくると次のように批判してい る。

エウリピデスでは[=プロローグで]機械仕掛けの神を導入して観客にそれまでの経緯 を説明したり、主要登場人物の一人がそれを自身で語ってしまうような、かなり粗雑 な扱い方をしている。彼の『イフィジェニー[=タウリケのイピゲネイア]』や『ヘレナ

[=ヘレネ]』での例のように、この二人のヒロインたちは最初に自分の身の上話を全 部語って観客に知らせてしまい、しかも彼女たちの語りかけを受ける相手役は誰も舞 台上にいないのだ9

コルネイユも指摘するように古代ギリシア劇においては、劇の始まりで観客の注意を引 き、続いて始まる劇の筋を紹介する慣習があった10。しかし

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世紀の人文主義悲劇の時代 になると、「急転回」に反するとして、次第にプロローグで前もって筋を知らせる慣習は 廃される。ジョデル (Étienne Jodelle) の『捉われのクレオパートル

Cléopâtre captive (1553)』

ではすでに前もって筋を知らせる意図はなく、その代わりアンリ二世に対する賛辞がプロ ローグとして置かれた11。17 世紀になるとコルネイユやモリエールは『プシシェ』などの 機械仕掛け劇で、本体の劇から独立したルイ

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世を讃えるプロローグを入れた。キノーの

《アルセスト》でも『プシシェ』に倣い、王を賛辞するプロローグになっており、エウリ ピデス冒頭でのアポロンと死の神の応対は削除されている。

第二にキノーが削除した場面としてペローが指摘するのは、アルケスティスの死の準備 をする有様を伝える侍女の語りの部分である。ペローは、エウリピデスではすでに結婚適 齢期の子供もいる年経た王妃が、死に行く床で新婚の処女を失った時を思い起こし泣き崩 れるシーンは大袈裟すぎ、現代の御婦人たちを当惑させ失笑を買うとする。しかもアルケ スティスは子供たちの前では涙一つ流さず、顔色一つ変えなかった。現代では若い恋人同 士とした方が観客は感情移入しやすいと述べる。

エウリピデスでのアルケスティスの振舞いを「われわれの〈世紀〉の趣味に全然合わな い12」とするペローの批判は、彼がこの批評の後半部でその用語を使う、当時の社会にお ける「適切さ=節度ビ ア ン セ ア ン ス

la bienséance」の観点からの興味深い指摘であろう。この社会での

9 Pierre Corneille,

«

Discours de l’utilité et des parties du poème dramatique » dans Œuvres complètes, éd.

Georges Couton (Paris: Gallimard, 1984), t. 3, p. 137. « Euripide en a usé assez grossièrement, en introduisant, tantôt un dieu dans une machine, par qui les spectateurs recevaient cet éclaircissement, et tantôt un des ses

principaux personnages qui les en instruisait lui-même, comme dans son Iphigénie, et dans son Hélène, où ces deux héroïnes racontent d’abord toute leur histoire, et l’apprennent à l’auditeur, sans avoir aucun acteur avec elles à qui adresser leur discours. »

10 Downing A. Thomas, op. cit., p. 74.

11 Sylvain Cornic, op. cit., p. 281.

12 Charles Perrault, Critique de l’Opera, ou Examen de la tragedie intitulée Alceste, ou le Triomphe d’Alcide, op.

cit., p. 32. «[...]cela n’est point du tout au goust de nostre Siecle, [...] »

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「適切さ=節度ビ ア ン セ ア ン ス

」に反する筋書きや言動は観客に違和感を与え、引いては「必然性」や「真 実らしさ」に背き、感銘を与えられないとペローは論じている。

演劇学者シェレルは、古典劇の規則として用いられる「適切さ=節度ビ ア ン セ ア ン ス

」に関して次のよ うに説明する。

「真実らしさ」と同じように「適切さ=節度ビ ア ン セ ア ン ス

」は公衆が観劇する戯曲で使われるべき 手段として定義される。[...]17 世紀の理論家は「適切さ=節度ビ ア ン セ ア ン ス

」については暗示で表 現し、どこにそれが存在するのか正確には決して述べなかったし、しばしば「真実ら しさ」と混同して用いた。この二つの概念は

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世紀に言及される「生活慣習の理論」

の中に、かなり混ざり合い介入し合っている13

シェレルによると

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世紀古典美学の「適切さ=節度ビ ア ン セ ア ン ス

」は「真実らしさ」とかなり混同さ れて使用されていた。ペローが指摘する、キノーにより削除された第二の場面、すなわち アルケスティスの、死に臨んで新婚時代の床を思い出して取り乱した様子を伝える侍女の 供述、それは

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世紀当時の生活慣習に反し、よってシェレルによれば当時の真実らしさに 反するという点において、筆者としてもエウリピデス戯曲からのキノーの削除は首肯でき る。

しかしこの箇所にはペローの誤りがあり、後にラシーヌに指摘され批判を受ける。ペロー はアルケスティスを「すでに結婚適齢期の子供もいる年経た王妃」としたが、エウリピデ スでの子供たちは年端の行かない幼子で、よってアルケスティスも「若さの華のまだ身に 失せぬ賜物14」を捨てて死に趣くのだ。しかし残された息子のエウメロスに「一緒に老後 を迎えられないとは父上も甲斐のない結婚をされたものだ」等の、幼子とは思えない長い 台詞が与えられていることも事実である。ラシーヌからすると、ペローの指摘に綻びが見 られるのが、攻撃の格好な隙を与えたのであろう。

クレオンの「適切さ=節度ビ ア ン セ ア ン ス

」からの指摘に対してアリスティップは、侍女の供述の場面 の削除は理解できないでもないが、エウリピデスでの一番美しい場面、アドメトスとアル ケスティスの最後の別れの場が省かれたのは納得いかないと反論する。キノーが削除した とする第三の場面である。クレオンはそれに対して、この場面が美しいことは認めるが、

自分が助かりたいために妻を死なせることは現代では憤慨の的になる。キノーではアド メートが知らないうちにアルセストは一人、死を決心して実行に移す。その方が優れてい て、「当世紀の趣味・生活慣習に

au goust de notre Siecle」合致している。ここでもペロー

は「当世紀の趣味」を重んじ、アドメートが臆病で意気地なしの男にならないよう心配り をしたキノーを褒める。

現代の目から見ても、この二人の別れの場面が「エウリピデスでの一番美しいシーン」

というのは納得がいかないと思われる。後に見るようにラシーヌはラ・グランジュ=シャン セル (La Grange-Chancel) の言によると「アルセストの話ほど人の心を打つものはない15」 とアルセストの悲劇性を称賛してきたとされる。しかし、エウリピデスでのアルケスティ

13 Jacques Scherer, La dramaturgie classique en France, op. cit., p. 383.

14 エウリピデス『ギリシア悲劇III』(上) 前掲書、1986年、25頁。

15 本書109頁参照。