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第一節 ラシーヌと「驚くべきもの」の概念

それではラシーヌにとって「驚くべきもの」とはどういう概念なのか、その「序」の前 半から見てみよう。

第一項 超自然的な「驚くべきもの」

ラシーヌは『イフィジェニー』「序」を、その結末の変更についての説明から始める。

それはトロイアへの船出の風を起こすために、神託により告げられたイフィジェニーの供 犠に関してであるが、自分が知るそれまでの詩人による解決策として

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つの策をラシーヌ は述べる。第一にアイスキュロス、ソポクレス、ルクレティウス、ホラティウスその他で はイフィジェニーの血が流されたとする。第二はディアーヌがイフィジェニーを哀れんで 代わりに牝鹿を置き、王女をタウリスへ連れ去った。それはエウリピデスやオウィディウ スにおいて取られた結末である。第三に血は流されたが、このイフィジェニーは別の王女 で、エレーヌがテゼーとの間で秘かに産んだ不義の娘であったという説をとるステシコロ ス (Stesichorus) などの詩人の名を、パウサニアス (Pausanias) が伝えている。ラシーヌは 特に第三のパウサニアスの伝によってエリフィール (Ériphile) という別の女を作り出す ヒントを得たと述べる。そしてこう続ける。

イフィジェニーほどの徳深く愛らしい娘を、恐ろしくも殺してしまい〈舞台〉を汚 すようなことがあったなら、それはどんな見せ方になっていただろう。また、私の

〈悲劇〉を〈女神〉や機械仕掛け、あるいはエウリピデスの時代は信じられていた が、われわれの時代ではあまりにばかばかしく、あまりに信じがたいものである変 身の助けで終わらせていたとすれば、それはどんな見せ方になっていただろうか6

ラシーヌはエリフィールというエレーヌとテゼーとの間の不義の娘に、イフィジェニー の身代わりをさせることで結末を解決した。ラシーヌが「エリフィールを見つけられなかっ たなら、この悲劇は書こうと思わなかった」と言う時、それはラシーヌの修辞的な巧みさ を言いたかったからではなく、反対にオペラの機械仕掛けの効果にとても近いテクニック で、それで以ってトラジェディ・リリックよりも語られる劇の優越性を示したかったとフォ レスティエは説明する7。ラシーヌの『イフィジェニー』初演の

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年前、いまだフランス・

オペラが存在せず、「真実らしさ」の原則が全体的に支配していなかった時代では、ロト

6 Jean Racine, « Préface d’Iphigénie » dans Œuvres complètes, t. 1, Théâtre-Poésie, éd. Georges Forestier, op. cit., p. 698. « Quelle apparence que j’eusse souillé la Scène par le meurtre horrible d’une personne aussi vertueuse et aussi aimable qu’il fallait représenter Iphigénie ? Et quelle apparence encore de dénouer ma Tragédie par le secours d’une Déesse et d’une machine, et par une métamorphose qui pouvait bien trouver quelque créance du temps d’Euripide, mais qui serait trop absurde et trop incroyable parmi nous ? »

7 Georges Forestier, Jean Racine, op. cit., p. 485.

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ルーの『イフィジェニー』では王女は牝鹿に変えられたし、機械仕掛けも用いられた。

ラシーヌは「序」において、超自然的な「驚くべきもの」、すなわち女神の登場や機械 仕掛け、変身などのばかばかしく信じられないような奇跡は用いず、人間関係だけの解決 方法でいかに聴衆を感動させたかを誇る。そして、その比較の先には、これら機械仕掛け や女神の登場を用いるオペラへの対抗心、優越感がうかがわれるであろう。

その場面はラシーヌでは『イフィジェニー』第五幕最終場での

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行にも及ぶ「ユリスの 語り」のシーンである。機械仕掛けでディアーヌが空から降りてくるのではなく、第三者 の言葉でその状況が報告される、いわゆる活写法 (l’hypotypose) が用いられている。ユリ スは驚愕した兵士の言葉として「雲間からディアーヌが祭壇に降りてこられ、炎の中に立 たれて、われわれの香と祈りを受けて、天に携えられたと彼は信じている」と伝える。つ まりディアーヌの出現は、ユリスの口を通した兵士の語りという二重の括弧入りの口上で あり、しかも「目撃した兵士が信じている」という、慎重に予防線を張った表現が使われ ている。

古典主義の研究家ジェヌティオは、17世紀において古代神話を扱う時、「古代神話を救 う唯一の方法は、想像力を抽象的な純粋の慣習に還元して古代神話を寓話に変形し、古代 神話に真実らしさを与えること、そして教化に用いることだった8」と述べる。

ラシーヌはここで、前述したコルネイユの展開した、神話の「真実らしさ」についての 定義は採らない。コルネイユは

1650

年自作の機械仕掛け音楽劇『アンドロメード』の大団 円において、主役の四人セフェ、カシオープ、ペルセ、アンドロメードにジュピテルが「そ う名づけられている星座があるゆえに天に迎える旨を申し渡し」、機械仕掛けで「恋人た ちの結婚式を祝うために、四人とも天に昇らせる9」という結末にした。そして

1660

年『三 劇詩論』において、コルネイユは「神話・伝説がわれわれに伝える神々や彼らの変身はす べて不可能なことであり、それでもそれが語られるのを聞くのに慣れ親しんできたという われわれ共通の認識および、伝説の理解によって、ほんとうと信じられるといわざるを得 ない10」と論じている。ジェヌティオが論じるように、古代神話・伝説はいわば寓話化さ れることで、人々はその話を慣習的に理解し、それがほんとうと信じられるようになるの だ。

しかし、1674年時点のラシーヌには、コルネイユの時代には存在しなかった、そして今 や自らの古典悲劇の存在を危うくするほどの人気を誇る、古代神話を扱い機械仕掛けを多 用するキノー/リュリの《アルセスト》があった。ラシーヌは機械仕掛けや変身を使わず 人間関係のみで、古代神話の「真実らしさ」を自分が表現できたことを誇ると共に、オペ ラに対して古典悲劇の正統さを主張しようとする強い対抗意識がここには見えると思われ る。

また古典劇の研究家である小倉は、この劇の結末でラシーヌが用いた超自然的な「驚く べきもの」の用法において、イフィジェニーの分身エリフィールに「犠牲の血とともに神

8 Alain Génetiot, Le classicisme (Paris: Presses Universitaires de France, 2005), p. 445.

9 Pierre Corneille, Argument d’Andromède, éd. Christian Delmas (Paris: Librairie Marcel Didier, 1974), p. 9.

10 本論文19頁参照。

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性が喚起されるという詩的方法11」を考察している。「イフィジェニーとアシールの結婚 という結末の世俗性とエリフィールの人身犠牲による神聖化はここでみごとなコントラス トをなし、神々の意志の不可解性が示唆される12」とする。小倉によればラシーヌは《ア ルセスト》のように夢幻的世界を現出させることによって観客の感受性に触れようとした のではなく、あくまでも真実らしい展開のなかで詩的喚起という方法をとおして、神々の 意志の不可解さ、残酷さという祝祭劇の枠組みでは直接的には表現しがたいテーマを感じ 取らせようとした13。そして、ユリスが活写法で超自然的な「驚くべきもの」を語る時の 劇作上の効果について次のように述べる。

五幕最終場の語りでユリスが「神々は祭壇の上に雷鳴を轟かせる」(1778行目)と伝え るとき、観客は、夢幻世界への導入を示す約束事である音楽が、観念的に作り上げら れた舞台のなかで鳴り響くのをきいてはいなかっただろうか。

[...]また女神を運ぶ機械

仕掛けを想像の舞台上に見てはいなかっただろうか。

[...]ラシーヌは、王を含む宮廷人

たちを席巻しはじめた新しい演劇の効果をみずからの劇作法に生かしていったのであ る14

小倉の解釈によれば、ラシーヌは「エリフィールの神聖化」を行い、そのユリスの活写 法にはオペラの効果を意識的に利用して「ことばによる詩的ほのめかしという方法を核と した劇作法をさらに深化させることになった15」。小倉はラシーヌがオペラの音楽や機械 仕掛けの効果を「ことばによる詩的ほのめかし」によって利用したと論じる。それはラシー ヌが、とりも直さずオペラの効果を念頭に入れていたということにもなろう。この「ユリ スの語り」は、超自然的な「驚くべきもの」の扱い方について、ラシーヌが仕掛けたオペ ラへの挑戦であることは明確だと思われる。しかし、ラシーヌは超自然的な「驚くべきも の」について、その扱い方をオペラと違えたというだけであり、その使用を排除したので はない。

ラシーヌ研究家のフォレスティエは『イフィジェニー』の結末に使われた超自然的な「驚 くべきもの」について次のように称賛する。

ラシーヌの『イフィジェニー』は確かに主題と共存した「驚くべきもの」で劇が終わ る。しかし、それは古代の「驚くべきもの」とも、当時の機械仕掛け悲劇ともオペラ とも関連性のない「驚くべきもの」である16

そしてラシーヌが用いた「驚くべきもの」は「崇高さ」であると次のように述べる。

11 小倉博孝、前掲論文、99頁。

12 同上、102頁。

13 同上、105頁。

14 同上、105-106頁。

15 同上、106頁。

16 Georges Forestier, Jean Racine, op. cit., 492.

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『イフィジェニー』の結末では、観客の驚きは突然悲劇の最高度の緊張から解放され、

避けようもないと思われていたことに予期しない逆転が起き、血が流されると共に和 らいだ気持ちが目ざまされる。しかしそれは会話で与えられることによって..............

である。

ここでの「驚くべきもの」はまさに詩的な驚嘆であり――それはもう一度繰り返すが 崇高さ...

である17

フォレスティエによれば、この『イフィジェニー』の結末についてラシーヌは、古代の エウリピデスの牝鹿への変身による「奇跡」も用いず、コルネイユの『アンドロメード』

やキノー/リュリのオペラ《アルセスト》のように機械仕掛けも用いず、言語の暗示力のみ によって「崇高さ」の解決法を創意し、こうしてラシーヌはオペラの音楽や視覚的誘惑に 打ち克ったことを証明したのだった。そしてフォレスティエはキノー/リュリの《アルセ スト》と『イフィジェニー』との違いを次のように強調する。《アルセスト》は同じギリ シアの伝説に拠りながらも、むしろ純粋に妖精物語の世界へ観客をいざなう。それに比し て『イフィジェニー』では、終末のユリスによる尋常でないことを話す語りは、もっと詩 的であり、修辞上の言葉による活写法を用い、観客の想像力を膨らませる。人間社会にの み立ち向かう登場人物たちである18。このように、ラシーヌの超自然的な「驚くべきもの」

の使い方を称賛している。フォレスティエにとってはラシーヌの超自然的な「驚くべきも の」はオペラでの使われ方とは異次元の「崇高さ」まで達している。しかしながら、ラシー ヌの大団円が超自然的な「驚くべきもの」の概念で締めくくられていることは確かである。

そして、ディアーヌは舞台上には姿を見せないが、その託宣が悲劇全体を動かしている基 本動因である以上、この悲劇では「人間社会にのみ立ち向かう登場人物たちである」と断 言できるであろうか。

やはりこの「ユリスの語り」に関して、古典主義研究者シェレルはカルカス[=神官] の神託という超自然的な「驚くべきもの」の用いられ方に言及する。この神官カルカスの 姿はディアーヌ同様に舞台上には隠されたままである。その神託は、開幕時のディアーヌ によるイフィジェニーの供犠の要請、そして大団円のエリフィールによる身代わりの犠牲 の託宣と、この悲劇の展開の主動力となっているが、いずれもアガメムノンの台詞やユリ スの語りで表現されている。

シェレルは次のように述べる。ラシーヌにとってエウリピデスにおけるイフィジェニー の牝鹿への変身は受け入れ難いので、エリフィールを身代わりにした。よって結末は真実 らしくなる。しかし、この結末は最後の瞬間、神がカルカスに送った「犠牲になるのはイ フィジェニーではなくエリフィールだ」という奇跡的な霊感から導かれるものである。「真 実らしくないもの

l’invraisemblance

はただ単純に置き換えられ、もっと隠されただけだ19」 と述べる。シェレルによれば次作の『フェードル』の、ネプテューヌが送った怪物による イッポリートの死という結末においても「ラシーヌは[...]奇跡的な叙述と真実らしい叙述を 並べている。そしてこの「驚くべきもの

le merveilleux」[=

シェレルは超自然的な意味に使っ

17 Ibid., p. 492.

18 Ibid., p. 495.

19 Jacques Scherer, op. cit., p. 380.