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ラシーヌの『イフィジェニー』「序」に対して、ペローのラシーヌへの反駁はすぐに行 われた。ラシーヌはそれにはもう答えず、「アルセスト論争」は一応の終わりを迎えたが、

論争自体は近代派ペローと古代派ラシーヌ、ボワローという構図で「新旧論争」へと引き 継がれていく。

ここではまず、ペローのラシーヌへの反駁から見てみよう。

第一節 ペローの反駁

ペローは『イフィジェニー』が出版された数週間後、「アカデミー・フランセーズのシャ ルパンティエ氏へ、ラシーヌ氏の『イフィジェニー』序について

À M. Charpentier de l’Académie françoise , sur la Préface de l’Iphigénie de Monsieur Racine」という題で、「アカデ

ミー・フランセーズ」終身秘書官シャルパンティエ (François Charpentier) [=小アカデミー の一員でもあり、ペローの同僚であった]宛ての手紙を書く1。1994年ノーマンら「アルセスト 論争」に関する論考を纏めた編集者たちは、この手書きの手紙は出版された彼の全集から は削除されたと思われるが、関心を抱く集まりには出回ったであろうし、ラシーヌ自身も 読んだと思われると推定している2。ペローの友人で宮廷筆頭画家ル・ブランは早速そのコ ピーを手に入れようとシャルパンティエに頼んでいる3

この手紙の中で、ペローはこう書き出す。「初めはラシーヌ氏の『イフィジェニー』「序」

における私に対する名誉毀損を無視し、『アルセスト批評』に対する異議を検討にも値し ない言いがかりとみなそうと決めた」が、「多くの人々に悪い印象を残したままには出来 ないので反論を試みる4」としている。その反論は前回の『アルセスト批評』と論点におい ては重複する点が多いが、その要旨は次の通りである。

1 Charles Perrault, « À Monsieur Charpentier de l’Académie françoise, sur la Préface de l’Iphigénie de Monsieur Racine » dans Alceste suivi de La Querelle d’Alceste, éd. par William Brooks, Buford Norman et Jeanne Morgan

Zarucchi, op. cit., pp. 113-122. 上記編者はこのペローの本文について、ペローの伝記を書いたボヌフォン

が直接資料を見つけて取り上げたと紹介している。Paul Bonnefon, « Charles Perrault: Essai sur sa vie et ses

ouvrages », op. cit., pp. 411-412. ボヌフォンはペローのこの手紙の抄録を掲載し、「この返答文はラシーヌ編

者が引用したものではなく、わたしはただペローの小論集のなかに印刷されたものを見つけたのだ。それ は新旧論争の只中に現われ、だぶんまもなく流通の過程で外されたものだろう」としている。なお、ボヌ フォンの言うラシーヌ編者が取り上げた資料は以下のピカール編に収録されているが著者は2兄のピ エール・ペローとされている。Raymond Picard, Nouveau corpus racinianum, recueil-inventaire des textes et documents concernant Jean Racine (Paris: Éditions du CNRS, 1976), p. 89.

2 William Brooks, Buford Norman et Jeanne Morgan Zarucchi éd. « Introduction » dans Alceste suivi de La Querelle d’Alceste, op. cit., p. xxxvii.

3 Ibid., p. xxxvii. not. 81.

4 Charles Perrault, « À Monsieur Charpentier de l’Académie françoise sur la Préface de l’Iphigénie de Monsieur Racine », op., cit., p. 113. « J’avois resolu de negliger l’atteinte que me donne Mr. Racine dans la Preface de son Iphigenie, et de regarder les objections qu’il fait contre ma Critique de l’Opera comme de pures chicanes qui meritent peu d’estre examinées. Mais puisque vous jugez que je dois y respondre et que ces objections, toutes mal fondées qu’elles sont, ne laissent pas de faire impression sur l’esprit de bien des gens: voicy ce que j’ay à dire pour ma defense. »

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キノー氏が悲劇《アルセスト》を書いた時、古代に熱中するあまり、愛好家の何人か がその作品を全面的に非難した。まずエウリピデスから、アドメトスとアルケスティス の最も美しい場面を削除したと言う非難に関しては、キノー氏はエウリピデスのその場 面はわれわれの時代の舞台では美しい効果を上げ得ないと考えた上で、アルセストに夫 の介在なしにその死を決意させるためにこの場面を避けたのだ。その他にも死に臨んだ アルケスティスが処女を失った寝台の上で号泣する場面や、アドメトスがアルケスティ スを慰めるため、彼女の等身大の像を作って死後も貞節を誓う場面などは、現代ではよ い効果が得られないと考え、エウリピデスの『アルケスティス』からキノー氏がこれら の場を削除したことを私は妥当とした。

またアドメトスの父親ぺレスに対する卑劣な会話や、アドメトスの従僕がヘラクレス の蛮行を非難する言葉などについて、キノー氏がエウリピデスをそのまま模倣しなかっ たのは、われわれの時代の風習に合わないからだ。物事はそれ自体で良いものであるだ けでは十分ではなく、その時代、場所、その人柄などに合致していなくてはならない。

ラシーヌ氏が誤りを指摘したアルケスティスの台詞について、自分が参照した版を挙 げると以下の二つである。一つには

1597

年のポルテュス版 (Æmilius Portus: l’impression

d’Hierôme Commelin)

、第二に

1602

年のカントリュス版 (Canterus: l’immpression de Paul

Estienne)

のいずれもギリシア語版であり、ラシーヌ氏が指摘したようにラテン語版で

はない。反対の版があることは知っているが、妻に勇気を持って死に臨むように説得す るほうがいいと、アドメトスに言わせている編者もいる。

エウリピデスでのアドメトスの言動は破廉恥なもので、自分で死ねず妻を死なせたア ドメトスは卑怯者になっている。[=私が参照した]二人の編者が間違っており、私がそ の版に従ったことは認めたにしても、二人の別れの場面で、たとえいくら優しい言葉を 続けてもアドメトスが妻の死に同意したことは間違いない。これは今日、観客に石持て 追われる行為であると思われる。

もしラシーヌ氏がエウリピデスの名声に応え、私の批評に対抗したいならば、アドメ トスのやり方が誠実であることを示し、今日の慣習に合致し、われわれの舞台で美しい 効果を上げることを証明しなければならない。われわれの舞台では、愛する人のために は死んでも、自分のために愛する相手が死ぬことを望むような恋人たちを見ることは絶 えてないのだ。

次にアルケスティスを年経た妻としたのは間違っているという指摘については、父親 や母親について分別ある考えを言える息子がいるという反論が可能である。彼は子供で はなく年若い息子であるだろう5。またコロスは、アルセストが年若くして死んでいく と歎くが、四十、四十五歳で死ぬ妻は若いと言われるであろう。

以上二点によりラシーヌ氏は、私が重大な過ちを犯したように非難し、他の点は批評 するに値しないかのように振る舞われる。しかしラシーヌ氏が、アルケスティスの新婚

5 このペローの指摘はエウリピデスでの、母の死に対して残された息子のエウメロスに長い台詞が与えら れていることを指す。前に引用した、「一緒に老後を迎えられないとは父上も甲斐のない結婚をされたも のだ」というのもその一部である。

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の床を思い出して号泣する様子や、アドメトスが自分の代わりに死んでくれる者を求め て友人から両親、妻へと渡り歩いたり、エルキュールがジュピテルの息子にしては野卑 に描かれていることなどに何も非難を加えないのは興味深いことだ。

ラシーヌ氏は私に二つの大きな間違いを指摘し私を貶め、親切にも古代の名作は批評 しないように、クインティリアヌスの格言まで持ち出された。それに答えるに私はキケ ロ (Marcus Tullius Cicero) の言葉で以ってする。「われわれが作り出した物事において はギリシア人たちのそれよりもっとわれわれは賢明であり、彼らから受け継いだものに 関してはわれわれの仕事の主題として相応しいと判断した時にそれらによりよい価値 を認めた、そういう意見を私はいつも持っていた」。クインティリアヌスとキケロは幾 分異なった意見だ。キケロは雄弁家で執政官であり、古代ギリシアを讃える必要もな かった。

私が自由主義者と思われるかもしれないが、過去の作家たちが神聖不可侵であるとい う理由で、現代の作家たちから同じ輝きを剥ぎ取るということはできない。現在、古代 ギリシアと同じくらいに力量のある作家、ラシーヌ氏を始め五、六人の現代の詩人がい る。

結論から言うと、ラシーヌ氏はエウリピデスの記念を讃えるために何も変えないほう がいいと提唱される。私の批評の指摘箇所にすべて答えるのは容易なのに、そうしな かった。よって、答えることは不可能であり、彼が弁護しなかったことはすべて彼によっ て[=自分と同じように]断罪されたとみなしてよいであろう。私が間違っていたと彼が 指摘した点を除いて。すなわち私は正統な版を用いたが、アドメトスとアルケスティス の台詞を取り違えたことを除いて。

アドメトスは卑劣漢で、キノー氏がアルセストを自発的に死なせたことは正しかった と考える。古代や現代の作家への完璧な知識をお持ちのあなたに判断をお願いする。

こうペローは結んでシャルパンティエに判断を仰ぐ。ボーサンは「このペローの返答は かなり気高いものである6」と批評する。エウリピデスにおけるアドメトスの行為や人格へ のペローの非難は現代でも通用すると筆者には思われる。

ラシーヌは前述したヴァニュクセンらによると自ら『アルセスト』を書くつもりであっ たとされる。われわれはエウリピデスの原作を梗概から検討し、ペローが批判するように

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世紀の観客にはもちろん、今日でも首を傾げざるを得ない風習、倫理観がそこにはうか がえることを確認した。ラシーヌはそれらの点について、どのように考え、どのようなア ドメート像を想定していたのか興味深い点である。

ラシーヌの「序」の後半で行った『アルセスト批評』の批判では、ペローがエウリピデ スと比較し丁寧にキノーの「筋書きミ ュ ー ト ス」の展開を追いながら、悲劇の劇作上の「驚くべきも の」について行った数点の考察に対して、確かに正面からは答えていない。ラシーヌはエ ウリピデスの原作には検討を与えず、そこに見られる問題点には言及しない。

6 Philippe Beaussant, Lully ou le musicien du soleil, op. cit., p. 548.