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以上、先行研究の中で「モダン」と一括りにされ、ディテールがフォローされてこなか ったモダン側の演奏家は、実は個人を一人一人見ていった場合、ピリオドに関する演奏経 験にかなりのばらつきがあることが確認された。オーケストラの中で担当する楽器の違い によって、指揮者からのピリオド・アプローチに関する要求の楽器・役割には偏りがあり、

モダン楽器演奏におけるピリオド奏法の考慮の要求度合いにも楽器間で差があることが明 らかとなった。さらには、ピリオド楽器の使用経験の有無や歴史的演奏習慣に対する関心 の有無、ピリオド演奏に関する教育の有無といった、個人的な音楽経験にもかなりの差が あることもまた、明らかとなった。

では、ここまで大きなばらつきがあることを知った上で、こうしたばらつきがあること がまったくと言っていいほど触れられてこなかった今までの先行研究の状況を、改めて振 り返りたい。先行研究の、「ガーディナーがウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮す

る」(Sherman 2003: 7)という文章。これだけの情報をただ提供され、実はピリオドに関す る指示がほとんど、あるいはまったくないと感じる団員の存在を知ることがない読者にと っては、オーケストラ全体に満遍なく、指揮者のピリオド・アプローチが浸透しているよ うに想像したくはならないだろうか。たとえば、ピリオド奏法を採用する、とある指揮者 の演奏会の公式ホームページには、「作曲家在世当時のスタイルを再現する、ピリオド(時 代)奏法の要素を全面的に取り入れ」22と書かれているわけであるから、この「全面的」と いう言葉にますます引きずられ、この想像はもはや揺るぎないものとなろう。

チケットを売るためにも、一般向けの公式ホームページに、まさか「実はあまりピリオ ド奏法に関わっていない団員もいます」などと、一番のコンサートの売りを全否定するよ うな宣伝文句を書くわけにはいかないだろうから、ホームページの表現がこうなるのは納 得がいく。しかしそうだとしても、実際のところは、W氏とB氏の経験によれば、ピリオ ド奏法に関する指示の割合は、弦楽器 85%、管打楽器15%、そしてハープに至っては 0% と猛烈に偏っている。85%の弦楽器奏者の中には、ピリオド・アプローチの指揮者の次の 演奏会ではヴィブラートがしばらくかからなくなると感じる団員もいる一方、15%の管楽 器奏者に入る E 氏は、かたや傍観者である。先行研究では、このばらつきにまったく触れ ることなく、彼らは「モダン」として一括りにされているのだから、15%以下の側の団員 に関する情報をあまりにも強引に切り捨てすぎているのではないだろうか。

そうなってくると、「いくつかのピリオドにおけるトレンドが、モダンの演奏に対しても 影響を与えつつある」(Sherman 1998)というこの文章にも、やはり強引さを感じざるを得 ない。影響を与えられた当事者であるモダン側の演奏家に対する詳細な調査をしないまま、

「ピリオドがモダンに影響を与えた」と言い切ることは、果たして妥当なのだろうか。そ う思って実際に調べてみると、後の第 3 章の冒頭で引用した発言が示す通り、影響を受け ていると自ら認めているW氏やG氏のような団員もいることは確かである。しかしその一 方で、普段はモダン楽器でピリオド奏法をまったく意識した演奏をすることもなく、ピリ オド・アプローチの指揮者が来たときでさえ自分のピリオド奏法への関わりが薄いと感じ る E氏や、ピリオド奏法に関する指示を一度も受けたことのないB氏のような演奏家もい ることが明らかとなった。彼らがそれでも何かピリオドから影響を受けたとするならば、

それはW氏やG氏が受けた影響と一括りにされるような、同じ影響なのだろうか。

そして極めつけは、これまでに聴いたピリオド楽器の演奏に、自分の演奏が影響を受け ているとは思わないと考える R 氏や、ピリオド楽器の演奏を聴くこと自体は好きだけれど

22 本来ならば、このホームページのタイトルと文言の著者、URLが参照できるようここに示される必要 があるが、個人情報保護の観点から掲載していない。

もそこから影響は受けていないと考える V 氏のような、ピリオドからの影響自体を否定す る演奏家もいるという事実である。「ピリオドがモダンに影響を与えた」と言い切るのであ れば、「影響はない」という演奏家の意見もあることを踏まえた上で、それでもその見解が 妥当であることを示すデータや根拠を提示すべきなのではないだろうか。

さらに言えば、ピリオドに関する個人的な音楽経験には、一貫性もない。ピリオド楽器 の音は参考にするけれどもピリオド楽器はほとんど弾いたことがない演奏家もいる。さら には、ピリオド奏法は取り入れるけれども、昔の教本などの歴史的文献を読んだことはな いと答える演奏家もいるのである。文献を特に参照せず、歴史的根拠付けにとらわれずに、

感性的根拠付けのみを頼りにピリオド演奏の音の響きだけを参考にしている演奏家が、果 たして「歴史的情報を取り入れ」(Dreyfus 1983: 319)ていると言い切れるだろうか。

それではなぜ、先行研究ではピリオドにモダンが影響を受けていることも、歴史的情報 を取り入れていることも自明視され、あまりにも不自然なほどにその反例に目が向けられ ることがなかったのだろう。そこには、何か特別な力が働いている可能性が非常に高い。

その特別な力とは、いわば音楽学の「味方」となり、音楽学に対して不利に働く物事が目 に入らなくなる(あるいは、意図的に目に入れなくする)力のことである。この力は、先 行研究の書き手が総じて音楽学の内部者、あるいはピリオド演奏の支持者であることによ って得られる力である。ジョーン・スコットは、「肯定的な定義とはつねに、その対立物と されるものの否定もしくは抑圧の上に成立する」(スコット 2004: 35)と指摘している。だ からこそ、音楽学の価値観に対立するモダン側の声は抑圧され、彼らに関する記述はごく 簡略的なものとなるのである。

歴史的情報の重要視は音楽学の価値観でもあると同時にピリオドの価値観でもあり、楽 器の過去の形状に関する調査、過去の奏法が記された資料の収集・解読など、音楽学の研 究活動の一部はピリオドの演奏活動の一部でもある。このように、音楽学とピリオドの価 値観は重なり合い、共鳴し合う部分が非常に大きい。それゆえ、音楽学の内部者とピリオ ド演奏の支持者は共通して、昔の楽器の仕組みや響きも含め、歴史的演奏習慣に関する知 識は演奏家にとって役立つべきものであることは自明の理とされる認識論に立脚した上で 物事を捉えている。

しかし、モダン・オーケストラの団員の認識論に立てば、そうした知識はすべての演奏 家にとって必ずしも役立つとは限らないということになる。これは、ともすれば歴史的演 奏習慣に関する研究活動そのものの意義を揺るがすような認識論でもある。音楽学の価値 観に共鳴する者にとっては、理解も共感もし難い。筆者とて、文献は「読みません」と断 言される度に「またか…皆、音楽学に興味ないのかな」と内心はダメージを受けていたこ

とも事実である。だからこそ、歴史的情報に無関心な演奏家のことを、「無知」や「怠慢」

だと批判する音楽学者も中にはいるかもしれないし、筆者自身、批判したくなる気持ちも 正直まったく分からないと言えば嘘になる。

誰であれ、自分が重要視しているものを軽く見られるようなことは受け入れがたいもの である。調査中、筆者は博士論文の調査をしていることを説明したにもかかわらず、それ が「卒業」論文と称されたり、中には「レポート書いてるんだっけ、まだ終わってないの?」

と話しかけられることさえあった。さすがに博士論文をレポート課題と一緒にされるとい うカルチャー・ショックに遭遇したときには、本当にがっくりくるという言葉がぴったり の気分を味わった。しかし、博士論文も卒業論文もレポートもさして変わらないという認 識こそ、むしろ彼らにとっての常識なのかもしれない。自分の気持ちをぐっと堪えて、そ こまで音楽学に関心がないという彼らの考えを受け入れ、寄り添わなければ、モダン・オ ーケストラの団員の考えや常識を、彼ら自身の認識論に立脚して理解することは永遠に不 可能となってしまう。

前にも述べた通り、歴史研究は音楽学にとって最も重要な分野のひとつであり、過去の 演奏習慣に関する研究は、音楽学研究として意義のあるテーマのひとつであることを否定 する音楽学者はおそらくいない。しかしその一方で、演奏習慣に関する歴史的知識は自分 にとっては特に必要ではないと考えている演奏家が存在することは、動かしがたい事実で ある。ところが、彼ら演奏家の立場や現実を理解しない者は、ともするとその考えを、た とえば「記録するに値しない演奏家として程度の低い考え」だと判断して切り捨てる。あ るいは、「間違った演奏理念」だと判断して矯正しようとする。もしくは、そもそもそうし た演奏家の考えを知る機会を持たず、自分の理想とする演奏家像に共鳴する演奏家だけの 世界に「安住」し、その世界のみを記述の対象とした結果、その考えが存在すること自体 に気づかない。さらには、「歴史的知識はすべての演奏家にとって役立つはずである」とい う信念も書き手にはあるから、「役立たない」という意見からますます目はそらされてゆく。

いずれにせよ、この音楽学の価値観とは相容れない、音楽学にとって不利に働く演奏家 の考えそのものが認識され、ありのまま受け入れられ、記録されることはない。それは決 して客観的な態度ではなく、結果として音楽学を「贔屓」することになる一種の主観的な 態度だと筆者は考える。