「研究者自身の演奏観主導の主観」とは、研究者自身の演奏に対する価値基準で研究対 象とする演奏家の持つ価値基準を上書きする主観のことである。研究者自身の持つ価値基 準が、実際には一部の演奏家自身の共感を得られない価値基準、あるいは一部の演奏家の 実態にそぐわない価値基準であるにもかかわらず、そうした反例が参照されることはない。
本論で扱った先行研究に関して言えば、それは常にピリオド対モダンの観点で物事を捉 えたり、ピリオドのモダンに対するポジティヴな効果だけに光を当てたりする研究成果を 指す。もちろん、モダンの演奏家もピリオド対モダンの観点で物事を認識することもある
32 テレビ番組「NHKスペシャル ミラクルボディー 第1回 ウサイン・ボルト 人類最速の秘密」2012 年7月14日放送。
し、ピリオドからのポジティヴな効果を認識している演奏家もいることは事実である。し かし一方でその反例、すなわちモダンの演奏家がピリオド対モダンの観点で物事を認識し ていないケースや、ピリオドからのネガティヴな効果を認識している演奏家も事実として 存在することは、第 2章および第 3 章で確認した通りである。それにもかかわらず、この 反例の存在については言及されることがない。
この種の主観が潜伏している先行研究以外の事例で特に問題視したいのが、第 3 章でも 少し言及した、タラスキンが雑誌『アーリー・ミュージック』に寄稿した記事(Taruskin 1984) である。この記事の末尾には、「今日、最も正確に再現された楽器を用い、低いピッチに調 律し、オリジナルな記譜法を読み解いているとしても、それはさして重要なことではない」
(Taruskin 1984: 12)と書かれている。「ピリオドだから」良い演奏(タラスキンの言葉では
「真に真正な」演奏)になるわけではないと発想する点では、タラスキンと今回対象とし たモダン・オーケストラの団員の考えは一致している。
しかしその一方で、タラスキンはモダンの演奏家のことを批判している。批判は、モダ ン・オーケストラの団員が、即興で偶然性作品を演奏する際に、ヴァイオリン奏者は《ク ロイツェル・ソナタ》のようなフレーズを弾き、木管楽器奏者は《春の祭典》のアルペッ ジョ、金管楽器奏者は軍隊行進曲のようなフレーズを演奏したという行為に向けられてい る。それは、彼らがいざ即興せよと言われても、家畜のように使い古されたフレーズをた だ愚直に再現することしかできない、直感や想像性の乏しさの表れなのだとタラスキンは 言う。そしてその一方で、モダンの外の領域で活躍しているピリオド演奏家のうち、一流 の演奏家は、そうした使い古しのフレーズに指が慣れてしまわないよう、あえて一定の調 弦で練習を行わないようなトレーニングを積んでいるのだと言う。タラスキンによれば、
そうした厳しい試練に自ら取り組み、因習的な習慣から自由になることこそが、音楽と直 接的に対峙する、真の真正な演奏のあり方となる。
しかし、これに対して筆者が言いたいのは、そもそもモダン・オーケストラの団員にと っての「直感や想像性の豊かさ」と、ピリオド楽器の演奏者にとっての「直感や想像性の 豊かさ」とは、同じ物差しで測れないのではないかということである。モダン・オーケス トラの団員が、即興する力を養うため、タラスキンの言うところの「厳しい試練」に立ち 向かったとして、果たしてオーケストラで演奏する際に、その力は発揮され、役立つとき が来るのであろうか。
モダン・オーケストラの団員の主な仕事は、オーケストラの因習的なレパートリーを、
どのような指揮者のもとであれ、指揮者の要望通りに演奏しこなすことである。オーケス トラの入団オーディションでも、能力審査として課されるのは、「よく演奏されるオーケス
トラの楽曲の、当該楽器の演奏譜からソロの部分や難易度の高い部分を部分的に抜き出し た『オーケストラ・スタディ』の演奏」(山岸 2013: 69)であって、即興演奏ではない。た とえ何百回、何千回と(タラスキンの言い回しでは「家畜のように」)演奏してきた曲であ っても、むしろ「手枷足枷をはめられて」自由に演奏できないことが、団員にとっての「厳 しい試練」となる。以下のD氏とA氏との、ブラームスの交響曲第1番についての会話を 参照されたい。
A:ブラームスの1番なんかそうだけど、3 楽章まで[トロンボーンは音が]何も ない。他のセクションは皆それなりに1楽章から気持ちが乗ってきて、それで 4 楽 章にたどり着いて、初めてトロンボーンは出てきて、いきなりコーラルですよ。
筆者:そうですよね。
A:すごく嫌。[その前にも音が]あったほうがいいですよね。
D:それはあったほうがいい。少しでもくれればと思います。
A:これが宿命なんです。それで音を決めないといけない。やっぱり、そういうの って大変だと思う。管楽器プレーヤー、ブラスプレーヤーってのは、音を当てなきゃ いけないんだけど、どうしても外れてしまうこともある。、
D:ブラームスの1番でコラールをミスしたらね、最初から皆が作り上げてきた音 楽、終わってしまう。
A:そこまで考えるともう、手枷足枷はめられてしまう。
D:そう。
A:そこでたとえばブロムシュテットとかサヴァリッシュみたいな先生だと、もう そこでどういう音色でどういうバランスで出さなきゃいけないかってのが決めてか かられてます。ただ吹けばいい、というわけではない。そこの中でもどういう音楽し なきゃいけないかを彼らも完全に敏感に察知してるから、もう自分の中でこういう音 させなきゃいけないって思って吹く。しかも完璧に吹かなきゃいけない。これがプロ の厳しいところだと自分は思います。
D:いや。やっぱりね、息を飲むようなね、そんな瞬間っていうか。トロンボーン が上手くいったら、次の弦のメロディーが全然変わってくるんですよね。
モダン・オーケストラの団員にとっての「直感や想像性の豊かさ」とは、ここで言われ ている「どういう音色でどういうバランスで出さなきゃいけないか」ということに対して、
本章冒頭に引用したA氏の言葉にもある通り、「言われた瞬間反応する」ことができる能力
を指す。すなわち、指揮者の求める音、やりたい音楽を、想像力を働かせて瞬時に感じ取 り、それに即座に合わせた音を出すことのできる能力のことなのである。
この点についてはスティーヴン・コットレルも、筆者と同種の批判を行っている。コッ トレルは、「今日では、創造性とは過去を意識することと共にあり……[我々が絶対に知り 得ない過去の]演奏習慣を再創造するような行為においてこそ、創造性は積極的に発揮さ
れる」(Shelemay 2001: 9-10)というケイ・コーフマン・シェレメイのピリオド中心的な創
造性の定義は問題を単純化しすぎているとして批判し、何を創造的であるとみなすのかは 演奏家によって異なるのだと指摘している(Cottrell 2004: 112)。確かに、多くの演奏家にと って、創造的であることとは音楽的個性を発揮する機会を得ること、すなわち何か自分独 自の要素を演奏に取り入れていると実感していることと本質的に同義であり、彼らはそう する余地が多く許されているときほど創造的であると感じ、外的な要因によってその余地 が減らされているときほど、創造性が少ないと感じるものである(Cottrell 2004: 113)。オー ケストラの団員が、自分自身の創造性が発揮されている、自己実現ができていると感じら れる演奏を引き出す指揮者ほど高く評価するのは、そのためであろう。
しかしながら、一般的には、強烈な解釈のアイディアを持っていることが音楽家にとっ て本質的、あるいは少なくとも望ましいことであると思われることがしばしばでも、オー ケストラの団員にとっては、きわめて質の高い演奏を繰り返し行う能力が求められる状況 はとても多くある(Cottrell 2004: 113)。たとえば5日間同じプログラムを上演するツアー公 演では、たとえホールが公演日ごとに移り変わったとしても、たとえツアー中に体調を崩 す演奏家が続出したとしても、どの公演でもスタンダードを崩すわけにはいかない。自分 たちにとっては連日のことでも、お客さんにとっては、その日その日が最初で最後の本番 だからである。そうした団員の経験を反映した例として、コットレルも、「ジャズの演奏家 のように、毎晩演奏を変えることにトライすることはできないし、自分たちにはそういう ことが要求されてもいない」といったオーケストラ団員の発言を引用している(Cottrell
2004: 113-114)。だからこそ、オーケストラの団員は、状況に応じて自分自身を制御できる
ような繊細さと柔軟さがいかにあるかということによって、自分の行為を創造的であると 認識するのである。
またタラスキンは同じ記事の中で、ピリオド演奏の陥りがちな問題は、歴史的資料の通 りに演奏することを目指すあまりに演奏が画一的になることだと指摘する。だがそれでも、
資料通り行うことにとらわれすぎずに歴史的研究に基づく試みを行うことには意義があり、
それによって心と耳が開かれ、習慣的な、従って無批判のままだった解釈を超越すること ができれば、演奏家は真の真正性を得ることができるとも書いている。