次に団員の間で共通しているのは、一般には「ピリオド・アプローチの採用」という認 識が優先される現象に対し、団員の間では「指揮者の望んだアプローチの採用」という認 識が優先される点である。この「ピリオド・アプローチの採用」を否定する認識は、「ピリ オド・アプローチ」の定義に対する疑問から成り立っている。第1節において、モダン・
オーケストラにおいて、ピリオド・アプローチは、いわば「完全なるピリオドにはならな い」ことが確認されたわけであるが、彼らにとって、「ピリオドにはならない」という言葉 は、実はもう一つの意味を持つ。それは、「そもそもピリオドなんてものがあるのか、そう 考えるとピリオドになりようがない」という意味である。
インタビューにおいて筆者は、たとえば「モダン・オーケストラにピリオド・アプロー チが持ち込まれることについてどう思いますか?」「指揮者から指示されるピリオド奏法に はどのようなものがありますか?」というように、あえて「ピリオド」という概念は「当 たり前にあるもの」という前提で質問を用意していた。こうした質問に対して、もちろん
「ピリオド奏法というとたとえば…」といった形で答えが返ってくることもたくさんある のだが、中には逆に以下のような質問が返されることも度々あった。
まず「ピリオド奏法」っていうのはじゃあ何なんでしょう。(Q)
だから、「ピリオド」って何ぞやって感じですよね、何回も言うけど。(L) 「ピリオド奏法」っていうものは何なんでしょうね。(H)
あるいは、次のような言葉が返ってくることもあった。
スダーン先生の「ピリオド的」っていうのが、どこまでピリオド的かっていうのも わからないので。(X)
「ピリオド奏法」というのをね、僕はどういうものなのかわからないというか。(J)
言わずもがな、彼らはピリオドという言葉の一般的な定義を純粋に知らないわけではな い。上記の発言はどれも、敢えて無知の振りをするというポーズの表れである。複雑で多 くの矛盾をはらんだ経験を重ねた結果、それを一言で集約するには、「ピリオドって何」「ピ リオドがわからない」という表現に帰着するほかないのである。
彼らが「そもそもピリオドなんてものがあるのか」という疑問を持つのは、ピリオド・
アプローチの多義性を彼らが見抜いていることによる。まず彼らが指摘するのは、「歴史的 演奏習慣」と言われているものは推測の域を出ない代物という点である。たとえばある団 員は次のように語る。
団員:実際その、どうなのかって結局わからないので。だって実際その時代に生き てた人がもういないわけで。かじった知識で皆やってる。その当時の録音が残ってる わけでもないし。だから、弦楽器のそのピリオド奏法って言われてるやつでも、もし かしたら違ってるのかもしれないし。(中略)そういうことに関しての疑問点はある んだけど、どうやっても解決できないものなので。タイムスリップしない限り絶対。
ただ絶対その、今その言った古楽器のピリオドであるとか奏法にしても、「現代ピリ オド」だと思うので。どうやっても、どう考えても。
筆者:モダンのオーケストラでやってるからってことではなくて?
団員:いや、そうではなくて、ほんとに昔はやってた形ではなくて、現代にアレン ジされてるピリオドになってるはずなんで。それは、本物はこれだって思えるかって、
そこがね。だからそれを判断できる人っていないので、それがほんとに正しい、昔か らのっていうのをそのまま引き継いできてるものかもしれないんだけどねえ。そこは ちょっとわからないので、それは、だからやらないってのも変だけど、実際その今の、
自分の楽器に関しては、そういうニーズがほとんどないので。現代奏法ばっかりなの で。だから余計にわからないというのがあるんだけども。
前述の、「ピリオド」という概念は「当たり前にあるもの」という前提で質問を用意した ことが「あえて」だというのは、実は、おそらくそうした「挑発的な」質問を用意してお けばこの種の回答が返ってくるのではないかという予想があったためである。それを予想 でき、筆者としては驚くことなくすんなり回答を受け入れられたのは、この回答と同じ見 解が、先行研究を読むことで既に得られていたからである。たとえば「ピリオド演奏は最 もモダンなスタイルを擁している」(Taruskin 1988: 152)といったように、ピリオドとモダ ンはいずれも、後世の人間が現代的な発想で現代のコンテクストにおいて実践する演奏で あるという点ではどちらも同じであるという見解は、「ピリオド対モダン」の問題系に関す る研究における最先端、というよりも今となっては大前提の見解として流布している。
それに対し、ピリオド・アプローチの多義性を指摘する回答として、知って驚きという よりも知るたびに興味が増していったのは、ピリオド・アプローチの指揮者の指示が、作
曲家が生きていた当時の演奏を再現することを目指しているはずなのに一定ではないとい う点に関するものだった。確かに、ピリオド・アプローチの指揮者だからといって、結果 として出てくる演奏が、どの指揮者もまったく同じにはなっていないことは、演奏会を聴 きに行ったり、CDを聴き比べたりした自分の経験でもなんとなくはわかっていたので、こ の回答に対して驚きはしなかった。むしろ興味深いと思ったのは、指示内容がどのように 違うのか、本番の演奏をただ鑑賞しているだけではわからなかったり、気づかなかったり する部分も多かったのが、調査を通じてその具体像を掴むことができたことである。たと えば、U氏はスダーンと飯森の指示内容の違いについて、以下のように説明する。
うちスダーンとかがその奏法でやるときっていうのは、彼はやっぱりベートーヴェン くらいまで。ブラームスになるともうヴィブラートをかけさせてます。スダーンさん は、我々管楽器にはノンヴィブラートっていう指定はまったくされていないです。逆 に飯森範親ってうちの正指揮者がやるときには、モーツァルトとか古典をやるときに は、管楽器にも「そこはノンヴィブラートでお願いします」って。基本的にはノンヴ ィブラートでって彼は言ってます。スダーンさんは、まったく管楽器にはその指示は しない。弦楽器にはノンヴィブラート、基本だよって最初に仰ってて。それもやっぱ り古典、ロマン派前期くらいまでですね。そのあとのベルリオーズ(Louis Hector Berlioz, 1803-1869)とかマーラー(Gustav Mahler, 1860-1911)とかやるときには、ち ゃんとヴィブラートをかけさせますよ。だから今の、現代のをやるときは、彼はそう いう奏法。飯森さんなんかは、マーラーなんかでも「ここはノンヴィブラートで」っ ていう場合もありますし。好みというか、考え方もありますよね。たとえば、オーケ ストラの並びなんかひとつとっても、対抗配置。それがイギリス式っていうのもある のかもしれないですけど、わりとその当時はそういう演奏して。その並びにも、こだ わりのひとつだと思うんですけど、でもスダーンさんはそれをさせない。普通の並び のまま。なので、まったく本当に人によって考え方も、オーソドックスっていうのも 違うってことですよね。
こうした指揮者による指示内容の違いに関する回答は、Z氏からも得られた。
筆者:ノンヴィブラート以外の指示でピリオド的っていうのは何かあるのでしょう か?たとえば、開放弦をできるだけ使うとか。
Z:開放弦をできるだけ使えっていうのは、えっと、トン・コープマン(Ton Koopman,
1944- )だけが言ってた。
筆者:あ、そうなんですね、皆さん言うわけじゃないんだ。
Z:そうなの、そこがね、スダーンも飯森さんも、ヴィラブートのこととかは言う んだけど、ポジションのこととかは言わないので。だから、なんか逆に言うとだから、
まだまだそんなに別に古楽的じゃないなって気がします。コープマンは一回だけだけ ど、彼はそこがすごかったので、弦楽器の人は極力全部1stポジションで弾いてくれ、
とか言われて。1st ポジションで、当然なめらかに弾くためにこう上がるものを、全 部移弦して、全部開放弦は全部開放弦で使ってくれって言われたから、あれはもうす ごい衝撃的だった。
筆者:人によるんですね。
もちろん、「人による違い」というのは、ピリオド側の演奏自体にも認められている。た とえば、Y 氏は「いわゆる古楽っぽい演奏の人たちだって、ここ数十年で変化しているじ ゃないですか。だからどれがいいってのも、もちろん、ないわけでしょ」と述べる。しか し、モダン・オーケストラには、その「人による違い」に拍車がかかる構造が存在してい るのである。
モダン・オーケストラは、本章第 1 節で確認したように、そもそもピリオドを突き詰め られない構造のオーケストラであるから、ピリオド・アプローチの指揮者としては、その 分のギャップを埋めるためにフレキシブルに対応することになる。たとえばある指揮者は、
ピリオド楽器での演奏時の弦楽器と管楽器の音量バランスを求めて、モダン楽器の演奏時 には木管楽器の人数を倍管にした上で、自分が必要と思うところのみ倍の人数で吹かせた り、弦楽器は逆に自分が必要と思うところのみ半分の人数で弾かせたりしていた。しかし、
他のピリオド・アプローチの指揮者が皆それと同じギャップの埋め方をするわけではない。
先ほどのBB氏の話にあったように、スピーカーを利用して音量バランスのギャップを埋め る措置を取る指揮者もいるかもしれない。そのギャップを埋める方法を決めるのに、歴史 的資料のような従うべき「マニュアル」はない。モダン・オーケストラでは、そこがより フレキシブルになるぶん、人による差異の振り幅はピリオド・オーケストラよりも大きく なるのである。
だからこそ、指揮者自身としては歴史的演奏習慣に近づけることを狙いとした上でそう した措置を行っているとしても、団員の側にしてみれば、違う指揮者が来る度にまったく
「不統一」なアプローチを次々と言い渡されることになるわけである。同じ「ピリオド・
アプローチ」と銘打ちながらも、振り幅の差が大きすぎて、「どれも歴史的演奏習慣の再現