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ピリオド・アプローチの問題

まず、ピリオド・アプローチが問題となりうるのは、モダン・オーケストラでピリオド・

アプローチを行うことを「中途半端」と捉える団員が少なくないことによる。作曲家が生 きていた当時の演奏の再現を目指すという方向でやるのであれば、可能な限りそれを突き 詰めた状態でやるべきであり、なぜそれを中途半端な状態でしかできないモダン・オーケ ストラでやる必要があるのかという矛盾を拭いきれない団員は少なくない。たとえば、次 のような見解を述べる団員もいる。

まずピリオド奏法っていうのはじゃあ何なんでしょう、ってことなのよ。要するに、

あの時代の奏法を再現したいっていうふうに思うんであれば、「再現」だよ。再現し たいって思うならば、ガット弦を張って、古楽器を使ってやるべきだと思う。あれは、

要するにその、ピリオド奏法ってものに対して、ある何かの魅力と、それから作曲家 自身にさらに近づきたいってことで、あの、完全に再生しようとする。これは分かる ような気がする。なぜなら、作曲家が、その時代に何かを考えたものが見えるかもし れないから。もしタイムマシンがあったら、作曲家本人に会ってさ、聞いちゃえば早 いんだけど、今現在それできないから、だからそれを再現するために、そういうこと を実験していくしか方法が残されてない。だからそれは良いこと。じゃあ、現代楽器 を使ってそれをやるのはどうなんだろう。必要ないでしょう。要するに、お寿司が食 べたければ、日本に来れば良い。日本人が握ったお寿司を、ヨーロッパで食べればい い。それを、フルーツロールだの、ベジタブルロールだの、やってね、食べて、これ はお寿司だよって満足してるヨーロッパ人を日本人が見て、そりゃないだろって言っ

てるのとまったく同じなの。だからたぶん作曲家本人が、その今やってる、現代やろ うとしてるピリオド奏法を見た場合、何やってんの、って思うよね。

あるいは、ピリオド・アプローチが持ち込まれている際の自分たちの状況は、「ストレー ト」にピリオドを行っている側の人たちからしてみれば、中途半端に映るのではないかと 考える団員もいる。第 2 章で明らかにしたように、モダン・オーケストラには、完全にピ リオド・アプローチが浸透することはない。その点を踏まえて、次のように語る団員もい る。

たとえば東京交響楽団が、いくらスダーンがアプローチ、ピリオド的であって、ナチ ュラルトランペット使って、バロックティンパニでやってても、他の人たち、モダン なんだよね。それは古楽の人たちからすると中途半端で、彼らは我々のことをなげか わしく思ってるのかもしれない。モダンの楽器とモダンなりの吹き方で、アプローチ がピリオド的なアプローチで、ノンヴィブラートで、そんなことやってるけど、古楽 の人たちは、それを実際どう感じているのだろうと思うことはあります。自分たちが がやってるモダンなグループが、そういう古楽のアプローチやってることこそ、滑稽 なのかもしれないっていうのは、そういう意味。

ここで指摘されているように、セクションによってピリオド・アプローチの採用の仕方 が不統一になるという点は、モダン・オーケストラの団員の側も中途半端だと自ら感じて いる場合も多い。このことに演奏するホールの問題も重ね合わせた上で、ある団員は次の 様に述べる。

ただ、少なくともやっぱり、モダンでピリオドをやる今のスタイルが、一番良いとは 思わないです。ピリオドをやることで、やっぱりその、すっきりしたスマートな感じ、

良いんだけど、でもそれは大きなホールでやっても、ってこといっぱいあるんですよ ね。だけど、定期だから場所が決まってるじゃないですか。だから、もちろんそこの 場所でそういうことをやるってのも、お客さんとしては面白いかもしれないですよね。

でも僕らとしては、もっと小さい小屋で、すっきりやるんだったらやれたら、きっと もっといいだろうなって。それから、楽器だって、たとえばティンパニはピリオドに するときにバロックみたいなのを使うけれども、弦楽器は普通に弾いてるじゃないで すか。

さらにこの点に加えて、モダン楽器でピリオド奏法を行っても、それは「似非ピリオド」

にしかならない点を、中途半端だと自ら感じている団員も多い。たとえばCC氏は、「今[自 分たちが]やっているのは言ってしまえば、なんちゃって古楽奏法」だと形容していた。

あるいはU氏は、ピリオド・アプローチ自体については、「いえいえ、あれはあれで、良い とは思うんです」と述べた上で、「ただ、現代の楽器であれの真似を、要するに真似なわけ ですよ。だから真似をするのはどうかなっていう」と語っている。またV氏も、「真似する、

取り入れることがすごく良いことかっていうのは疑問。本当に素晴らしいことだとは思え ない」と述べている。あるいはJ氏は、「モダンの楽器を使うんだったら、やっぱりその楽 器のね、あの、性能を全部出したいわけですよ」と語る。

第1章でも触れた通り、彼らにとってモダン楽器とピリオド楽器とはまったくの別物で、

どちらが良い悪いというわけではまったくなく、それぞれにはそれぞれの良さがあると彼 らは考えている。だからこそ、たとえばピリオド楽器はモダン楽器ほど大きな音は出ない からといって、モダン楽器でそれを真似るために最大音量を常にメゾフォルテまでに抑え るといったようなことは、かえってモダン楽器の良さを殺してしまうことになると彼らは 考える。またコンセプトの面でも、やはり作曲された当時の音を再現しようと思うのなら ば楽器も昔のものを使うべきであって、そのピリオド楽器から得られた響きだけをモダン 楽器で表面的に模倣するのは、むしろコンセプトからは遠ざかっているので無意味なので はないかと考える団員もいるのである。

ただ、モダン楽器でピリオド楽器の音を模倣することが技術的に不可能だから「似非ピ リオド」になるとは、今回対象としたオーケストラの団員は考えていない。第 2 章で、実 はピリオド奏法といっても、必ずしもモダン奏法と特別に異なる奏法を指示されるわけで はないという点を指摘したが、プロフェッショナルの奏者、とりわけその中でも高い演奏 技術をもつ奏者にとっては、模倣すること自体はできるのだと、彼らは言う。逆に言えば、

そうした指揮者の指示についていけない奏者の場合、奏者の側がオーケストラを辞めさせ られるそうである。そうした彼らの考えは、たとえば以下のような会話に表れている。

A:本当のプロフェッショナルっていうのは、ほとんどすべて、たとえば指揮者に、

「こういうふうに吹いて」って言われたら即できるんです。こういうふうに振ります、

こういうイメージで。じゃあ、それこそあの、古楽のその、「こういう音に近づけて」

って言ったら、もちろん楽器変えなくても、もちろんそれは瞬間的にできないと、こ こにいられないから。もしそれができないからといって、「ただ古い楽器に変えて、

楽器を変えさえすれば、昔の演奏っぽくなる」という発想のもと古楽器を使うのだと したら、それは素人考えということになるのだと自分は思います。やっぱり、プロの オーケストラプレーヤー、演奏家っていうのは、自分に一番合う楽器を使う。一番自 分の思い通りに言うことをきいて、自分の理想とする、自分の中の、きわめて理想に 近い音が出るものを楽器として使う。自分の意思とか、指揮者に言われたことをすべ て変換して、それでパーンと出せるような楽器を使ってるっていう話なんです。とい うことは、もちろんもうほんとに、100%、180度音色は変わらないにせよ、これにで きるだけ近づけて、って言われたときに、相当、皆近づける能力は絶対に持ってます。

だからフランスの指揮者が来ようがロシアの指揮者が来ようが、ドイツの指揮者が来 ようが、たとえばテンポが変わろうが、ニュアンス違おうが、音は軽め、重め、だか ら料理人と同じ。好みの味付けにしてみますよ。って。

(中略)

G:できるオーケストラはもうそのへんが、すごいですよね、反応が。

A:そう、反応とか順応性とか、もう半端じゃないと思いますよ。あとその譜読み の速さとか、初見能力とか。。

G:で、次の指揮者になると、ちゃんといつもの通りになりますからね。

しかし、難なくこなせるからといって、何の問題も生じないのかといえば、それはまた 別の話である。折衷的で、いわば「ぶれている」アプローチをなぜやる必要があるのか、

そこに本質性を見出せない団員にとっては、それをやるのは芸術的な理由以外の、より「軽 薄な」理由によるものだと映る。完全にモダンでもなくピリオドでもない折衷というのは、

「誰もやったことのない穴場を狙える」という意味での、オリジナリティの創出方法だと いう見方がなされることは多い。たとえ指揮者自身はそういうつもりがなくとも、団員か らは、そうしたアプローチの採用根拠とは、芸術性ではなく商業性を優先した結果だと判 断されるわけである。そうした団員の考えはたとえば、インタビューで得られた以下のよ うな見解に反映されている。

それがまあ、なんか目新しくて面白いって言う人と、8割方は、おかしいと思ってる んですけど、2割3割そういう人がいれば、それはそれで商売になるっていうのが、

この世の中ですからね。自分としてはあれは、やるんだったら徹底的に、楽器も全部 その当時の楽器を使ってやらないと意味のないことだと思います。人と違ったことを すると皆に注目される、自分が売れたいから、そういった理由でピリオドを採用して