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「客観性の皮を被る」ということが引き起こす問題

「研究にとっての成果至上主義の主観」にせよ、「研究者自身の演奏観主導の主観」にせ よ、それが表れている記述において問題なのは、反例が参照されることがないという点で ある。もし読み手が、実体験などを通じて反例の存在に触れる機会を予め持っていなかっ たとしたら、その記述を通じて、あたかもその記述に当てはまらない反例自体が存在しな いかのように現実を認識してしまう。そこに書かれていることは、あくまで現象の一側面 を、特定の主観に基づいて切り取った「部分的真実partial truths」(藤田、北村 2013: 31)で あるにもかかわらず、それが「部分的」であることが、その記述内の情報のみからは判断 できないようになっている。さらには、反例の内部で機能しているはずの価値観の物差し とは異なる、別の価値観の物差しがその記述内で機能していることも、読み手には分から ない。これが、記述が「客観性の皮を被る」ということである。

たとえば筆者は、そうした読み手の典型例だったと言える。筆者は、古楽運動に関する 先行研究に加え、本章で触れた評論や書籍など、ピリオド側の視点から書かれた記述から

モダンの演奏家に関する知識を得ていた。それは前にも述べた通り、論文なり書籍なり、

一般公開される媒体に、モダンの演奏家に関するモダン側の視点から書かれた記述が掲載 されることはほぼなかったためである。こうして、モダン・オーケストラのインサイダー にとっての現実とピントのずれた現実理解が誘発された状態で調査に望んだ結果、現場で の実体験を通じて、面食らったり、共感できなかったり、話が通じなかったりという数々 のカルチャー・ショックを経験することで初めて、様々な反例の存在を知るに至ったので ある。

ここでさらに問題なのは、研究者本人も反例の存在を意図的に隠しているというわけで はなく、反例の存在自体に気付いていない.......

。すなわち、主観的、一面的になっていること を対象化できずに、客観的なことを記述していると認識している可能性がきわめて高いと いう点である。それが起きるのは、第 1章から第 3 章で指摘したように、研究者が所属す る共同体(第 1章では音楽学、第2章および第 3章ではピリオド)に対して不利に働く物 事が目に入らなくなる(あるいは、意図的に目に入れなくする)力のためである。この力 が生まれるのは、ある共同体、すなわち「人間の生活における重要な『ことがら』につい て一定の価値観や確信を共有する人間の集まり」(竹田 1993: 148)の内部に属する人間は 必然的に、同じ集団の人間により、自分が誰か、何が真実か、何が正しいのかを教わり、

そうした感覚を自明の事実と認識するためである。それゆえ、この人間は自身の所属する 集団の価値観を自明視・優先視しがちであり、その結果、それ以外の集団の価値観を対象 化することが困難となるのである(Gergen 2009 :114)。

音楽学に親しみのある人間にとっては常識的にきわめて重要だと思われていることが、

演奏の現場では大して重要なことではないと思われていたりする。あるいは、自分にとっ て「一流」の演奏家の条件はこれだと当たり前のように考えていたことが、演奏の現場で は大して必要な条件だと思われていなかったりもするし、逆に自分にとっては演奏家とし て問題のある態度ではないのかと思い込んでいたことが、演奏の現場ではまったく問題視 されるようなことではないと考えられていたりする。こうした認識のすれ違いが起きてい ることに気付かず....

、自集団の価値観で相手の価値観を無意識のうちに上書きしているとき にこそ、「主観性が客観性の皮を被る」のである。

こうした事態を避けるためには、カルチャー・ショックを受け、反例の存在に気付くこ とが必要となる。しかし、西洋芸術音楽の演奏研究の担い手にとって、カルチャー・ショ ックに見舞われることは、決して容易ではない。なぜなら、研究者と研究の対象となる演 奏家は、社会的対場という小規模な共同体単位では所属が異なっているとしても、より大 きな共同体単位では、共に「西洋芸術音楽」という同じ文化圏に属しているからである。

それが証拠に、西洋芸術音楽の演奏研究の担い手は、アマチュアかプロフェッショナルか という次元はさておき、そのほぼ全員が西洋芸術音楽の演奏経験者であり、研究者である と同時に、クラシック音楽の一愛好家でもある(場合によっては評論家も兼ねている)と 言って間違いない。西洋芸術音楽の演奏文化に(程度の差はあれ)それなりに精通してい るという点では、演奏家と研究者は同じ立場にある。

さらに言えば、演奏家と研究者(演奏研究の担い手に限らず、音楽学の研究者全般)は、

どちらが音楽のことをより「本当にわかっているのか」を競い合う覇権争いをしているよ うな側面もある33。だからこそ(一部の)研究者は、自分の演奏観にそぐわない考えを、た とえば「記録するに値しない演奏家として程度の低い考え」だと判断して切り捨てる。あ るいは、「間違った演奏理念」だと判断して矯正しようとする。もしくは、そもそもそうし た演奏家の考えを知る機会を持たず、自分の理想とする演奏家像に共鳴する演奏家だけの 世界に「安住」し、その世界のみを記述の対象とした結果、その考えが存在すること自体 に気づかない——こうした事態が招かれるのである。

演奏をはじめとする、西洋芸術音楽の実践を研究対象とみなす動きは、1980 年代終わり 頃から、民族音楽学的アプローチに対する注目が集まったことにより生じた(Nooshin 2014:

1)。それ以前は、作曲家や作品の本質を追求することが音楽を研究することと同義である とみなされ、演奏者や聴衆の存在は後景に追いやられていた(中村 2010: 162)。しかし、

西洋芸術音楽以外のあらゆる音楽を対象とする学問として開始された音楽民族学において は、演奏者よりも作曲者が副次的存在となる音楽や、楽譜自体が存在しない音楽を扱うこ とも珍しくない。西洋芸術音楽も、ある特定の地域における特有の価値体系や習慣を持つ 民族音楽の一つであるという文化相対主義的な見方の必要性が指摘されるようになると、

西洋芸術音楽の研究対象や方法論は著しく拡大された。研究者自身の属する文化圏(とり わけ西洋文化圏)は音楽民族学的アプローチが適用されていない「最後の砦」であり、研 究者にとって馴染みのある対象を、アウトサイダーの視点から捉えることの有効性が指摘 されたのである(Nettl 1995: 1-2)。こうして、たとえば「ミュージッキングmusicking」(Small 1998)のような、西洋芸術音楽の「音楽」が指す意味を拡大する新しい概念も次々と生み 出されることとなった。

しかし、研究者にとって馴染みのある文化を研究対象とすることにはリスクもつきまと う。自分が既に馴染み、居心地の良さを感じている文化の中で、あえてカルチャー・ショ

33 その一例として、筆者が所属している東京芸術大学では、「楽理科の学生は実技の学生を、頭が悪いと思 って見下しているんだって。まともに楽器も弾けないくせに音楽の何が分かるんだろうね」というブラッ ク・ジョークと、その逆バージョンを耳にすることがある。

ックを受けるということは、自分がまったく馴染んでいない文化の中でカルチャー・ショ ックを受けることよりも、きわめて困難である。同じ「西洋芸術音楽文化圏」に属してい るぶん、「相手も自分と同じように現実を認識している(あるいは、認識するべき)」こと を当たり前のように想定して、実はそれが「分かったつもり」にしかすぎないことに考え が至らない。結果として反例の存在に気付くことはきわめて困難となり、主観的、一面的 になっていることを対象化できずに、客観的なことを記述していると認識してしまう。本 論で引用した、反例の存在自体が言及されることのない記述も、この構造によって引き起 こされていた可能性はきわめて高い。

そうなれば、本論で扱ったピリオド対モダンの問題系のように、反例に関する内容は書 かれ続けず、反例の存在が「(意識的にせよ無意識的にせよ)隠された」特定の主観に基づ く記述ばかりが累積されることになる。内容が偏っていることに、実体験などを通じて気 付くことのできる人間が生存しているうちはまだ良い。しかし、反例の存在を知る人間が、

その反例に関する記録を残さないまますべてこの世を去ったとしたら、内容が偏っている こと自体にいずれは誰も気付かないまま、その偏った記述内容が演奏史の「一般常識」と なってしまうのではないだろうか。研究対象を拡げ、新しい概念が生み出されたことは確 かな成果であっても、この問題が疑問視されることのないまま残されていたのでは、西洋 芸術音楽の演奏研究は大きなリスクを抱えたままになる。