「研究にとっての成果至上主義の主観」とは、研究とは重要な行為であるという信念の
もと、学問的に価値のある成果は演奏家にとっても有用であると思い込む主観のことであ る。その成果が、実際には一部の演奏家自身の共感を得られない成果、あるいは一部の演 奏家の実態にそぐわない成果であるにもかかわらず、そうした反例が参照されることはな い。
その種の成果のうち、本論で扱ったものと言えば、たとえば歴史的演奏習慣に関する研 究成果を指す。もちろん、この研究成果を役立てている演奏家も一部いることは事実であ る。しかし一方でその反例、すなわちこの研究成果を役立てていないし、必要としてもい ない演奏家も存在することは、第 1 章で確認した通りである。それにもかかわらず、先行 研究では、この反例の存在は言及されることがないまま、「オーケストラやアンサンブルだ けでなく、第一線のモダン楽器のソリストでも、時代様式を踏まえた、古楽的なアプロー チはごく当然のものになった」(寺西 2015: 308)というような記述がなされる。
この種の主観が潜伏している演奏研究の事例は、古楽運動に関する先行研究以外にも存 在する。そしてその最たる例は、感性の正体を言語化しようとする研究であろう。筆者が このように考えるようになったきっかけは、フィールドワークを行う中で筆者が経験した、
ある出来事を通してのことであった。
第 1 章で筆者は、感性が優れていれば、その演奏家は団員によって「柔軟で一流」だと 評価されると書いた。では、この「感性が優れている」とは、具体的にどのような条件を 指すのだろうか。それを団員自身の言葉によって知りたいと考えた筆者は、インタビュー 中に話の流れでタイミングが合えば、「これがバッハらしい音、ドイツらしい音と思える根 拠は何ですか」などと質問するようにしていた(【参考資料2】の質問項目を参照されたい)。
しかし、この質問によって相手との間に緊張が走り、かなりヒヤリとする場面があった。
それは G 氏へのインタビューの最中のことだった。全体的な話の流れや雰囲気が窺えるよ う、少し長くなるが以下に引用したい。
筆者:ドイツらしい音、フランスらしい音っていうのは、どうやったら出せるので しょうか?
G:うーん、言葉で説明するのは難しいですけど。
A:できちゃうんです。さんざん言ってるように、ここ[=N響]の人たちっての は、言われた瞬間反応する。それができなきゃ、逆に入れない。だから、こういうふ うに、デュトワが来ました、やっぱり最初はカルチャー・ショックだった、最初にデ
ュトワが来たとき、自分は[エキス]トラで乗ってて。「春祭27」やったんですよ。あ まりにも今までと違って、そうとう皆ショックだった。彼が最初何言ったかっていっ たら、あの、ドイツビールもいいけど、たまにはシャンパンもいいだろって言ったん です。あとねやっぱり、今は彼そういうふうに振ってないけれど、(パンと手を叩く)
ここで出ろって言うんです、ここで。うち[=N 響]は、(パンと手を叩く、少し間 があって)パーンって出る。でも、叩いた瞬間に出ろって。サヴァリッシュとか、ド イツ系が多かったでしょ。で、サヴァリッシュは必ず零コンマ何秒先に振ってたって 言ってた。思いっきり。だから、テレビ見てるとほんとずれてるくらい、先に振って た。後から手が付いてくる。それが当たり前の流儀だって、それがデュトワはやっぱ り違う。これはこうだってやっぱりやっちゃったわけです。それで、ものすごいやっ ぱりフランスの香りが、それでもう皆びっくりした。その当時より、自分が思うに団 員の演奏技術はより一層レベルが高くなってるから、今なんかはほんとに全員頭の中 のイメージとか、思ったことを、すぐに。たとえば、フランス風、ドイツ風、アメリ カ風、っていうところに、ぱってやっぱ反応できる人が、黒川さん、ここにいるじゃ ないですか。だから、自然になっちゃうんですっていうのはそういうことだと思いま すよ。
G:デュトワさん、まだ一回しかやったことないですけど、来たときに一番違うっ ていうか、変えたところは、ドイツものだと密度の濃い音を出さないと、周りと合わ ないような気がする。やっぱフランスものだともう少し、密度の濃いというよりはも っとふわっとした音のほうが、曲の雰囲気とかに合うのかなっていうイメージはあり ますね。
筆者:ドイツのものだと密度の濃い音がいいんだろうなって考えつく、根拠みたい なのは?
G:それはもう、オーケストラで、周りの方がこう、そうだなって。
A:そういうふうなんです。だから、N響でドイツものって言ったら皆知ってる。
実の詰まった音で音をね、まとめるんですよ。あの、濃縮する、密度を濃くする。キ メの濃い。そういう音のほうが合う。それはでも、フランス音楽には向いてない。そ うすると、管楽器は息のスピードを変えてくる。息のスピードを変えたり、アンブシ ュアの形も、根本的に変わってくるわけじゃないんだけど、リード咥える圧力が違う とか、それに伴う息のスピード変えるとか、スピードっていうか、たおやかな息にし
27 イーゴリ・ストラヴィンスキー(Igor Stravinsky, 1882-1971)作曲《春の祭典》の略称。
たり、強めの息にしたり腹に力入れといて入れる息だったり、いろんな種類のブレス があるんですよ。それによって、出てくる音がほんとにこう、いろんな音になるわけ。
そこの根本にあるのは頭なわけですよ。こういうふうな音にしたい、イメージにした い、ニュアンスにしたい、それがあって身体が反応して、楽器を通してそういう音が 出るわけだから、だから皆そういうことはできる。だから、どうしたらなるんですか、
っていうんじゃなくて、逆にそれは非常に失礼な質問。
筆者:すみません。
G:はは、いや全然。だから、いつもなんか教えてもらってるような感覚がします ね。特にやっぱりN響でドイツものやったときは、あーそうかって。そこのできない ギャップを埋めてく作業を常にしているような、家でイメージしてトレーニングして、
やって上手くいかない、何回もある。
A:ここで吹くと、一発で分かります。分かるんですよ、合わないと、あ、だめな んだって話なんです。自分がこうやってて、あ、溶けないな、合わないな、浮いてる な、ってことになっちゃうと駄目なわけです。たとえば、一番やろうがセカンド吹こ うがサードやろうが、その立ち位置じゃなしに座る位置ってのがあって、一番座り心 地の良い音っていうか、音楽があって。だからその持ち場持ち場によって、だから二 番吹きが一番ホルン吹きのような音を出してもしょうがない。ベートーヴェンのとき と、ブラームスのとき、きっとどの楽器にもある。それ瞬時に判断して、一番を引き 立たせるような音をさせる。で逆に、首席だったら、首席として出るとこは出る、そ うじゃないとこは皆と一緒にやる、そうじゃないとこはわざと潜るとか、一緒にこう、
色を混ぜるとか、そういう作業をするわけ。って考えると、オーケストラって面白い でしょう?
今振り返っても、「非常に失礼な」という言葉を受けた瞬間のショックたるや、思い出す だけでぞっとしてくる。「フィールドワークそのものが全然やれなくなってしまうこともよ くあります」(佐藤 1992: 166)という恐ろしい脅し文句が、ついに現実となるときが来た のかもしれない。「すみません」と謝っているその裏で筆者の頭に浮かんだのは、「やらか した、もう駄目だ」という言葉で、A氏からインタビューの終了後、「明日からもう来ない でくれる」と言われることすら覚悟した。しかし大変ありがたいことに、G氏も A氏も大 人の対応をしてくださり、再び和やかな雰囲気になるよう話を運んでくださったため、ど うにか事なきを得たが、「こういう質問はもうダメだ」と本能的に感じた筆者は、まだ何が 失礼だったのかはピンとこなかったにせよ、次のインタビュー以降、二度とこの種の質問
はしないと心に決めた(そしてその後に行ったインタビューでは、質問内容を刷新した。
この点については、副論文で詳述している)。
この日は、なんとか調査が打ち切りになることは免れたものの、インタビュー終了後の 帰りがけに、「もう誰に聞いても同じような答えしか返ってこないと思うよ」という、駄目 押しのコメントを A 氏からいただいた。むしろこの言葉だけで済ませていただいたことを 感謝しなくてはならない。この失敗は、筆者がやってしまった数々の失敗の衝撃度では、
かなりのランキング上位に入る。「このままじゃまずい、でもこの先どうしよう」と、もの すごく後味の悪い気分を抱えたまま帰宅したことを覚えている。ああいう質問はもうしな いようにするとしても、それだけでは根本的な解決にはならない。原因を突き止めておか なければ、また同じようなことを別の質問でやってしまう気がする。それが何よりも不安 で、一体何がそんなに失礼だったのか、必死で頭を悩ませた。
この悩みを解決する糸口となったのは、むしろ音楽を離れたスポーツからの着想だった。
その着想を得たのは、母親との雑談である。筆者の母親は若いころ卓球の選手をしており、
中学から社会人まで全日本の上位ランカーだった。実業団を辞めてからはすっぱりと第一 線から退いたが、筆者を出産した後、しばらくママさん卓球をしていたことがある。その とき彼女は、最近卓球を始めたてのママさんから、まったく悪気なく「私を強くして」な どと唐突に頼まれたり、「どうやったら強くなれるの」と気軽に訊かれたりすることが多々 あったそうだ。「そんなこと、言葉で説明できたら誰も苦労しない」と彼女はぼやいており、
「素人は何を言い出すかわからない」と呆れてもいた。
特段、悩みを解決するためにこの話を引き出したわけではなく、いろいろと頭を悩ませ ているうちに、前に雑談をしていてたまたま聞いていたこのエピソードのことをふと思い 出したのであるが、「私がやっていたのってこれと同じことだ」と思い当たったときには、
失礼だった理由が分かってすっきりしたと同時に、自分は曲がりなりにも10年芸術大学に 通っていたのに、素人同然の質問を無意識に繰り返していたのかとショックを受けた。母 親との雑談では、身内同士なので辛辣な本音がそのまま出ている。きっと彼らも、インタ ビュー当日、母親と同じような本音を抱いていたのかもしれないと思うと、いたたまれな い気持ちになった。筆者の母親に、三ヶ日以外は一日たりとも休まずすべて卓球に費やし、
手が震えるほどの切迫した試合を何度も経験してようやくつかんだ自分なりのサーブやス マッシュの感覚があったように、演奏家にも一人一人、一朝一夕ではとても身につけられ ない自分なりの演奏感覚があるはずである。A 氏の口から矢継ぎ早に語られたたくさんの