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縫製加工産業(吉林省琿春)

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1.はじめに 

1.1 自己紹介 

私は、40年前、岐阜の地で父親から従業員25名の縫製工場を受け継ぐことになった2 代目オーナー経営者である。大学時代はマルクス経済学と現代中国経済を専攻し、卒業後 は必要に迫られて近代経営学を学び直し、さらに趣味で兵法経営学を習得した。 

その後の前半の20年間は日本国内で悪戦苦闘して、会社を170名規模にまで拡大した ものの、借金は膨らむばかりで安定経営にはほど遠かった。40歳の当時、人手不足から国 内での操業ができなくなり、人手を求め思い切って海外への活路を試みた。そして、それ からの後半の 20年間は怒涛の勢いで、韓国・中国(黄石・上海・琿春など 8工場で従業 員総数1万人)・ミャンマーにそれぞれ工場を立ち上げ、オーストラリア・タイ・インド・

ヨルダンでは工場指導を行いつつ、香港とニューヨークに営業事務所を設置した。 

更に、ベトナム・フィリピン・サイパン・マダガスカル・極東ロシア・リビア・ロシア ユダヤ自治州などには工場立地のための事前調査を実施した。それぞれの国でその国の人 たちと一緒に汗を流して働き、中国共産党員・各国の華人や華僑・印僑・イスラム実業家・

ユダヤ商人・イタリア商人・ドイツ商人などとも根気よく渡り合い、グローバルな事業活 動ができたことを自負している。 

殊に中国においては、1997年に中国政府から表彰され、また、2000年には永住権をい ただいている。さらに2005年には吉林省琿春市と敦化市から経済顧問に任ぜられている。 

私はこれまですべての工場で、技術者兼経営者として陣頭指揮を取りながら、資本家と してそのすべてを自己資金でまかない奮戦してきた。しかし、苦闘の甲斐なくその大半は 失敗に終わったものの、中には大成功した工場もあり、結果的には、無借金経営によって 現在も存続している。 

1997年に行われたサピオ誌の懸賞論文にこれまでの体験を整理して応募したところ、大 賞を射止めることができた。その後も、仕事の合間に文章を書き留めて、「アジアで勝つ」、

「多国籍中小企業奮戦記」、「10年中国に挑む」、「中国ありのまま仕事事情」の4冊を出版 することができた。 

これらの拙著をお読みいただければ、諸外国における私の「人づくり」の詳細について ご理解いただけるのではないかと思う。 

それでは、まず当業界の戦後の変遷を紹介し、次にその後の中国吉林省琿春市における 工場を例に、「人づくり」について述べさせていただきたい。 

 

1.2 当業界と当社の変遷 

戦後の 60 年間で日本の縫製加工業者は、販売先と人手を巡って幾度も大きくその姿を 変えた。 

戦後の混乱期が終わって、繊維製品の米国向け輸出が盛んになり、1,000人規模の大型  工場が都市周辺に誕生した。いわゆるワンダラーブラウスの時代であり、繊維産業は輸出 の花形産業でもあった。紡績工場なども都市周辺で稼動し始め、そこに地方から集団就職 で若い人たちが集まった。縫製工場も同様であった。 

1971年、対米繊維輸出が自主規制となり、米国向け輸出がぱったり止まった。多くの工  場は内需向けに転換し、設備廃棄資金を受けて廃業する工場もあった。日本経済の発展と 共に、中小零細企業では人手不足が深刻になってきた。当時、中学卒の人手は 金の卵 と呼ばれるほどであった。そのころの当社は 50 名ほどの中小零細企業であり、設備廃棄 資金を少し受けて内需向け工場に転換した。 

1970年代後半、旺盛な内需によって縫製工場は受注に苦労することはなかった。しかし、 

人手不足がますます深刻化し、縫製工場の生きる道は、人手を求めて地方へ進出して大型 化するか、それとも小さな都市型工場になるかのどちらかとなった。地方進出組は地方自 治体の誘致政策によって、東北・四国・九州などの地に大型工場をつくりあげた。一方、

都市残留組はそれぞれに知恵を出して、人手の確保に奔走した。当社は岐阜の地に留まり、

社内に夜間洋裁学校を併設し、洋裁の好きな高校の卒業生を集める方針を取った。この方 針は成功し、毎年 20 名前後の新入生が入社・入校してくることとなった。昼間は仕事を して、夜間に技術を習得するというパターンで、毎年技能五輪に挑戦する人材を輩出する ほどになった。 

1980年代後半、世の中は好景気に沸き、高額商品が飛ぶように売れる時代が到来し、縫  製工場も加工賃がどんどん上がり、地方進出工場は大きな利益を上げていた。しかしなが ら都市型工場では、高校生すら集まらないという超人手不足状態に陥っていた。 

そのような状況のもと、当社は、このまま推移すれば、確実に人手不足のため倒産する であろう事態が推測できた。当社がいまさら地方へ進出するわけにも行かず、思い切って 海外への工場移転策を決断した。 

1990年代初頭、日本ではバブル経済の崩壊で、価格破壊の嵐が吹き荒れ始め、縫製業界  でも加工賃が大幅に下がり、日本国内の地方進出工場でも採算を合わせることが困難にな った。一方、その頃、中国のわが工場には大量の注文が押し寄せていた。わが工場では、

その安い加工賃でも十分に採算が取れ、多大な利益をあげることができた。その結果、最 初の合弁会社設立からの5年間で、中国国内に8工場(その後3工場は売却)をつくり上 げ、合計1万人の労働者を抱えるまでに巨大化した。さらに、わが中国工場では巨額の為 替差益が生じるなど、おカネの面ではまったく苦労することはなかった。 

1995年以降、日本の地方進出組がこぞって中国に進出してきた。しかしながら中国での  利益拡大のチャンスは既に遠退き、しかも新たな為替差損発生のリスクをはらんでおり、

彼らの中にはその後撤退する企業も少なくなかった。日本国内では、都市型企業も地方進 出組も共に大苦戦を強いられていたのである。 

その後も、現在に至るまで日本の景気は回復せず、中国でも日本向けの受注だけで工場  を安定経営し続けることがだんだん厳しくなってきた。一方、中国がWTOに加盟したの を契機に、欧米向けの受注が容易になり、日系企業も欧米向け輸出の生産に取り組んだ。 

その結果、中国の日系大企業は、日本向け・欧米向け・中国内販市場向けなどを行なう 国際企業に転身して生き残る道が生まれた。当社の合弁工場も、欧米向けや中国内販向け の生産を手がけるようになった。そのための窓口として当社は、香港とニューヨークに営 業拠点を築いた。ところが 2002 年ごろから、さしもの中国でも人手不足現象が現れてき た。当社はチャイナプラスワンのさきがけとして、ミャンマー・ヨルダンなどでの縫製工 場を手がけてきたが、現在は中国吉林省琿春市に工場を作り、現在に至っている。 

2.人づくりの留意点 

2.1 経営者の人づくり 

日本では「人づくり」の中で、経営者をつくりだすことがもっとも難しい。経営者にな ろうとする若者が圧倒的に少ないからである。ほとんどの若者は責任を取る仕事をやりた がらず、責任を取らずに高給を取りたいと自分勝手なことを望んでいる。小さいときから、

社長というのは「テレビの前で頭を下げている人」という認識が刷り込まれているので、

それも仕方がないことだろう。結果として起業よりも廃業が多く、このまま30年経てば、

日本から経営者がいなくなり、会社が消えてなくなることになる。 

ところが開発途上国、ことに中国ではとにかく独立・開業志向が強い。学歴や年齢、企  業歴、男女にかかわらず、とにかく起業しようとする。ひところの日本の脱サラブームを 数倍激しくしたような状況である。このような理由だから経営者を育てるのはそれほど難 しくない。むしろ最初から独立させることを前提に、それに合致した教育訓練を行う方が よい。したがって、日本人が中国で企業経営を行なう場合は、このような起業家に任せた 方がうまくいく場合もある。 

海外の人が日本でマンションを買おうとする場合でも、マンション購入のための本など  には、必ず「信頼できる日本人に相談すること」と書いてある。外国人は日本の法律知識 や金融などに無知なため、詐欺などに引っかかりやすいからである。日本でもこのような 状況なのだから、海外で日本人が経営を行なうことは極めて難しい。 

語学もままならず、現地の風俗習慣や法律も習熟できていないからであり、なによりも  現地の人脈が少ないからである。ここで重要なことは信頼に足りる現地人材を選び、その 人間に任せることが最善であると思う。 

どのように信頼に足りる人材を見出すか。平常時では、その人間の真価はなかなか判断  できない。それはその人間が危機に際したときの行動で見ることである。 

☆事例1

ある工場で、私が昼食後、現場に入って技術指導をしていたときのことである。職 工の一人が酒臭かったので、私が強くそのことを指摘した。それに怒った職工はドラ イバーを握りしめ、私に襲い掛かろうとした。そのとき、脇にいた通訳がとっさに私 と職工の間に割って入って、刺されそうになった私に身を持って防いでくれた。私は 彼のこの行動に感動し、彼の経歴を精査し問題ないことを確認の上、数週間後総経理 に抜擢した。その後の彼は期待通りの立派な業績を上げ、今では私の右腕となってい る。 

☆事例2

あるとき工場で火事が起きた。私はとっさのことで、まったくどうしてよいかわか らなかった。また私の中国語では意志が伝わらず、消火の邪魔になるだけだった。そ のとき私の通訳をしていた女性が、ただちに全員を率いて消火活動に向った。約2時 間後、彼女等の必死の消火活動の結果、火は消し止められた。その間の指揮は、通訳 の女性がすべて取り仕切った。私は工場の玄関に立っていただけで何もできなかった。 

彼女の行動は実に見事だった。その後、私はこの工場の経営を彼女に任せた。工場 は大きくなり、巨額の利益を生み出すようになっている。 

 

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