第 3 章 「皇国史観」の提唱と流布 43
3.2.3 編纂の経緯
『国史概説』の全体構想案となる執筆要綱は、「調査嘱託各位ノ御意見ヲ参酌シ」た上で
1941
年6
月19
日に決定・公表された(241)。表
3.3:
臨時国史概説編纂部名簿(229)典拠
役職 人名 肩書 生年 没年 A B C D 専門
部長 近藤 壽治 文部省教学官
→
1942.11.1
教学局長1885 1970
− − ○ ○ 主事 小川 義章 文部省教学官1891 1969
− − ○ ○〃 志水 義暲 文部省教学官(
–1943.4.1
)1888 1954
− − ○ ○ 調査嘱託 森山 鋭一 法制局参事官→
1941.10.18
長官1894 1956
○ ○ ○ ○〃 藤井 甚太郎 文部省維新史料編纂官
1883 1958
○ ○ ○ ○ 明治維新史〃 辻 善之助 東京帝国大学名誉教授
1881 1955
○ ○ ○ ○ 日本文化史、日本仏教史〃 池内 宏 東京帝国大学名誉教授
1878 1952
− ○ ○ ○ 朝鮮史、満洲史〃 穂積 重遠 東京帝国大学教授・男爵
1883 1951
○ ○ ○ ○ 民法学、家族法学〃 宇井 伯壽 東京帝国大学教授
1882 1963
○ ○ ○ ○ インド哲学、仏教学〃 和辻 哲郎 東京帝国大学教授
1889 1960
○ ○ ○ ○ 哲学〃 久松 潜一 東京帝国大学教授
1894 1976
○ ○ ○ ○ 国文学、上代〜近世国学〃 宮地 直一 東京帝国大学教授
1886 1949
○ ○ ○ ○ 神道学、神道史〃 中村 孝也 東京帝国大学教授
1885 1970
○ ○ ○ ○ 日本中世・近世史〃 平泉 澄 東京帝国大学教授
1895 1984
○ ○ ○ ○ 日本中世史〃 龍 肅 東京帝国大学史料編纂所長
1890 1964
○ ○ ○ ○ 平安・鎌倉期皇室・政治史〃 矢野 仁一 京都帝国大学名誉教授
1872 1970
− ○ ○ ○ 中国近代史〃 田邊 元 京都帝国大学教授
1885 1962
○ ○ ○ ○ 哲学〃 西田 直二郎 京都帝国大学教授
1886 1958
○ ○ ○ ○ 日本文化史〃 牧 健二 京都帝国大学教授
1892 1989
− ○ ○ ○ 日本法制史〃 古田 良一 東北帝国大学教授
1893 1967
○ ○ ○ ○ 日本近世史、海運史〃 長沼 賢海 九州帝国大学教授
1883 1980
○ ○ ○ ○ 日本宗教史、海事史〃 河原 春作 東京文理科大学長
1890 1971
○ ○ ○ ○ 文部官僚〃 松本 彦次郎 東京文理科大学教授
1880 1957
○ ○ ○ ○ 鎌倉仏教史〃 栗田 元次 広島文理科大学教授
1890 1955
○ ○ ○ ○ 日本近世史〃 山田 孝雄 神宮皇學館大学長
1875 1958
○ ○ ○ ○ 国語学、国文学、日本史〃 紀平 正美 国民精神文化研究所員
1874 1949
○ ○ ○ ○ 哲学〃 本庄 榮治郎 京都帝国大学教授
→
1942.7
大阪商科大学長1888 1973
○ ○ ○ ○ 日本経済史〃 藤懸 靜也 (肩書なし)
1881 1958
○ ○ ○ ○ 日本美術史〃 矢代 幸雄 美術研究所長
1890 1975
− ○ ○ ○ 美術史(日本・東洋・ヨー ロッパ)〃 河野 省三 (肩書なし)
1882 1963
○ ○ ○ ○ 国学、神道学〃 安岡 正篤 (肩書なし)
1898 1983
○ ○ ○ ○ 陽明学 編纂嘱託 板澤 武雄 東京帝国大学助教授→
1942.5.9
教授1895 1962
○ ○ ○ ○ 日蘭交渉史〃 竹岡 勝也 九州帝国大学教授
1893 1958
○ ○ ○ ○ 日本思想史(国学・神道)〃 肥後 和男 東京文理科大学助教授
1899 1981
− ○ ○ ○ 日本古代史、民俗学〃 魚澄 惣五郎 大阪府女子専門学校教授
1889 1959
○ ○ ○ ○ 日本中世史〃 大塚 武松 前維新史料編纂官
1878 1946
○ ○ ○ ○ 日本近現代史〃 高橋 俊乘 京都帝国大学講師
1892 1948
○ ○ ○ ○ 日本教育史〃 福尾 猛市郎 関西大学講師
1908 1990
○ ○ ○ ○ 日本近世史〃 時野谷 勝 維新史料編纂官
1911 1994
○ ○ ○ ○ 日本近現代史〃 藤岡 藏六 (肩書なし)
1891 1949
○ − ○ ○ 哲学典拠
役職 人名 肩書 生年 没年 A B C D 専門
編纂会議員 森山 鋭一 調査嘱託
* *
− − ○ ○〃 辻 善之助 調査嘱託
* *
− − ○ ○〃 和辻 哲郎 調査嘱託
* *
− − ○ ○〃 西田 直二郎 調査嘱託
* *
− − ○ ○〃 河原 春作 調査嘱託
* *
− − ○ ○〃 松本 彦次郎 調査嘱託
* *
− − ○ ○〃 紀平 正美 調査嘱託
* *
− − ○ ○〃 大塚 武松 編纂嘱託
* *
− − ○ ○〃 藤野 惠
1942.11.7
文部省総務局長1894 1949
− − ○ ○〃 永井 浩
1942.11.1
文部省専門教育局長
− − ○ ○
〃 松尾 長造 文部省図書局長
1891 1963
− − ○ ○〃 阿原 謙藏
1942.11.1
文部省教化局長 − − ○ ○〃 堀池 英一 文部省教学局部長 − − ○ ○
〃 有光 次郎 文部書記官(秘書課長)
1903 1995
− − ○ ○〃 清水 虎雄 文部書記官(文書課長) − − ○ ○
〃 柴沼 直 文部書記官(会計課長)
1903 1973
− − ○ ○〃 原 元助 文部省教学官
(教学局企画課長)
− − ○ ○
〃 中村 一良 文部省図書監修官
1906 1976
− − ○ ○ 文化史〃 森下 眞男 文部省図書監修官 − − ○ ○
〃 小沼 洋夫 文部省教学官
1907 1966
− − ○ ○ 編纂助手 鏡山 猛 (肩書なし) ○ − − −〃 藤陵 薫 (肩書なし) ○ − − −
〃 新田谷 透子 (肩書なし) ○ − − −
書記 吉田 鐵助 教学局属 ○ − − −
〃 望月 健夫 教学局事務嘱託
1914
○ − − −〃 富海 敏夫 文部属 − − ○ ○
〃 坂井 誠一 文部省教学局事務嘱託 − − ○ ○
その後、「編纂嘱託は数次会合して編纂の要目其の他執筆上の細目に就き協議して原案を作製し、
文部大臣を初め、関係官及び調査嘱託・編纂嘱託の全体協議会を開催し」て「原案に就き審議し、
其の決定に基づいて執筆が進められた」。当初は
1941
年度のうちに公刊される予定で編纂が進め られており、これはおそらく、1942年度高文本試験の実施までに間に合わせようとしたものと思 われる。ところが、編纂嘱託に決定されていた肥後和男が1941
年7
月14
日に召集され、満洲に 派遣されたために「執筆不可能となり、更に其の他の執筆者中にも種々の事情のため執筆意の如く ならず、予定は著しく遅延し」、草案がようやく完成したのは1942
年3
月であった(242)。この間、1941年
12
月8
日のマレー半島上陸作戦と真珠湾攻撃によりアジア太平洋戦争が勃発、12
月12
日、内閣情報局は、この戦争を「大東亜新秩序建設を目的とする戦争」という意味で「大 東亜戦争」と命名すると発表している(243)。さて、草案の完成を待って、1942年
3
月17
日、三大編纂方針の一般公表が行われた。このとき の新聞報道を見ると、この『国史概説』は、「神代から大東亜戦勃発の今日に至るまで一貫し、あ くまでも日本的に見直すと同時に厳正にその時代の息吹を生か」して編纂されるものであり(244)、 あるいは「わが肇国の由来と国体の精華、国運進展の様相を明かにする点に主眼をおき国民を皇 国民たるの信念と皇国の歴史的使命に自覚させるやう」編纂されるものとされていた(245)。また、「従来の執政者の名をとつた足利時代とか政治の中心地の地名をとつた鎌倉時代などの時代分に拘 泥しないのを始め大改革が行はれてゐる」「藤原時代、鎌倉時代といふやうな時の為政者の名前、
政治の中心地であつた土地の名前などを便宜上つけてゐた従来の構成法も大改革されてゐる」など とされ、時代区分名称の大改革が行われることも示唆されていた(246)。そして、印刷・刊行は
1942
年度内に行われることとなっており(247)、また「完成のうへは枢軸国の国語に訳し、広く世界に発 表する」(248)ことも計画されていた。なお、肥後は
1942
年4
月に召集を解除され帰国し、7月25
日に編纂嘱託を委嘱されている。ま た時野谷勝が編纂嘱託を委嘱されたのは1942
年1
月31
日である。同書の現存する草稿には、手書き謄写刷のものと、「第一回訂正原稿」と印されたタイプ謄写刷 のものの二種類がある。内容を検討すると、後者は刊本の文章とほぼ同じものであることから、前 者の原稿がいったん完成されたのち、手が加えられて後者の原稿となり、さらにこれが多少の変 更を加えられて刊行されたものと見られる。ここでは前者を「初期稿」、後者を「訂正稿」と呼ぶ ことにする。初期稿は
1941
年秋頃から1942
年春頃にかけて作成され、訂正稿は1942
年夏頃から1943
年春頃にかけて製作されたものと見られる(249)。おそらく、3月17
日までに完成した草案と は、この初期稿であろう。この初期稿は、「各調査嘱託の閲覧に供し、その意見を参酌して之を整理する」(250)ことになり、
各調査嘱託に送付され、閲覧の上、意見を草稿に記入するかあるいは別紙に書いて送り返すように 求められた。これは後で訂正稿についても行われている(251)。
初期稿の中には、この意見の参酌・整理の様子が伺えるものが残されている。その一例を挙げる と、奈良時代に関する章で「平城京の郡制は長安の都に倣ひ、適宜の修正を加へたもの」という文 章について、欄外に
長安ノ上ニ「唐ノ」ヲ入レタシ(紀平、高橋、山田、魚澄)
支那長安トイワズバ日本ガ属国ノ如クキコユ(山田)
という書き込みがあり、本文が「平城京は唐の長安の制を斟酌し、我が国独自の工風を加へたも の」と加筆訂正されている(252)。紀平正美と山田孝雄は調査嘱託、高橋俊乘と魚澄惣五郎は編纂嘱 託であり、おそらく各人の意見を志水義暲がとりまとめた上で、原稿に手を加えたものではないか
表
3.4:
『国史概説』発行部数(1943年12
月現在)(257)版 部数 対象
初 版
25000
大学、高等専門学校、官庁、図書館、高文受験者用増 刷
50000
各府県中等学校、国民学校、思想対策研究会、皇国史観講習会用、其の他
普及版
200000
一般用、大学高等学校教科参考用と推定される。なお、この部分は、実際の刊本ではさらに「平城京は唐の長安(西安)の都制を斟 酌し、これに我が独自の工夫を加えて営まれたもの」(上巻p.127)と変更されている(253)。 また、『国史概説』関係の名簿を見ると、1942年度より編纂部の中に新たに「編纂会議員」とい う役職が設けられている。おそらく、原稿の審議にあたって主力となったのは、この編纂会議と見 られる。この編纂会議には、調査嘱託から森山鋭一・辻善之助・和辻哲郎・西田直二郎・河原春作・
松本彦次郎・紀平正美が、編纂嘱託から大塚武松が参加しており、また有光次郎・小沼洋夫・中村 一良・藤野惠などの文部官僚も加わっている。
その後、1942年