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国民精神総動員運動と「八紘一宇」の国策理念化

第 2 章 近代国体論の確立と変容 20

2.4 天皇機関説事件=国体明徴運動と「教学刷新」

2.6.2 国民精神総動員運動と「八紘一宇」の国策理念化

 さて、神武天皇の詔勅をその典拠とするとはいえ、そもそもは民間の一宗教思想家である智学の 造語にすぎなかったこの語は、1930年代に日本の対外侵略が進展してゆく過程で、それを自己正 当化するための国策理念として浮上し、さかんに喧伝されてゆくことになる。ただし、その過程で は、この語が智学の造語であることや、その仏教的・日蓮主義的な含意は無視ないし忘却され、こ の語は、橿原奠都の詔とのみ結び付けられて、「肇国」以来の日本の国是として語られてゆく。

 たとえば、1935年

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月に満洲事変勃発

4

周年を期して陸軍省が発行したあるパンフレットには、

「王道楽土の建設を理想として生誕した満洲国に対する我が国策の基調は、権益獲得の覇道主義を 排し、八紘一宇の皇道精神に置くべきは論を俟たぬ所である」「我が肇国の理想は実に皇道に基く 世界一宇化であり、四海同胞共存共栄の道義的精神の顕現である」「日満一体化は実に我が皇国の 大理想たる世界一宇化の精神に発し、又之に範をとり順天安民、五族協和を以て建国の本義として ゐる満洲国建国の国是に基くものである」(175)といった文言が見られる。

 実態としては日本の傀儡政権にすぎなかったとはいえ、「満洲国」は形式上独立国の形をとって おり、日本の軍事行動は領土拡大を目的とした帝国主義的な侵略ではないとされていた。したがっ て、「満洲国」における日本の軍事行動と支配を正当化するためにも、また「満洲国」において、

「皇国」「皇道」といった、本来は天皇の支配する範囲=日本国内にしか及び得ない国体論的な論理 を持ち込むためにも、その適用範囲を拡大し得る論理の導入が必要であった。そのために、国体論 の適用範囲を無限に拡大し得る「八紘一宇」の論理が持ち込まれたのである。

 また、2・26事件(1936年)の「蹶起趣意書」の冒頭にも、「謹んで惟るに我が神洲たる所以は 万世一系たる 天皇陛下御統帥の下に挙国一体生成化育を遂げ遂に八紘一宇を完うするの国体に存 す」(176)という文言がある。さらに

1937

3

19

日には、第

70

回帝国議会貴族院予算委員会に おいて、二荒芳徳委員が林銑十郎内閣の佐藤尚武外相に対し、「我国ノ建国以来持ッテ居ル所ノ八 紘一宇ノ大政策、八紘ヲ掩フテ宇卜為ス、此ノ四海同胞ノ大精神ト、歴代ノ御詔勅ニ拝セラレル所 ノ平和ヲ求ムルニ汲々タル所ノ我ガ大民族ノ理想ト云フモノハ果シテ如何ナル方法ニ依リ、如何ニ 徹底シテ世界各国ニ御知ラセニナッテ居ルカ」と質問している。

 しかしながら、1937年刊行の『国体の本義』においては、いまだ「八紘一宇」は重要な国是と は位置づけられていない(177)。確かに、同書には橿原奠都の詔についての言及が

2ヶ所に見られる

(23頁、67頁)し、また「我が国の和の精神が世界に拡充せられ、夫々の民族・国家が各〻その分を 守り、その特性を発揮する時、真の世界の平和とその進歩発展とが実現せられるであらう」(59頁)

という、「八紘一宇」論と受け取れる記述もある。とはいえ、同書における「肇国の精神」は、「天 壌無窮の神勅」に基づく天皇の統治を指しており、その拡大(「八紘一宇」)までは含んでいない。

また先述したように、同書では天皇・国土・臣民の一体性と固定性が説かれているが、このことは

「国体」の無限拡大を正当化する「八紘一宇」の論理とは異質である。また、国定国史教科書にお いても、国定第

5

期教科書(『小学国史 尋常科用』1940年)までは橿原奠都の詔についての言及 は見られない。

 ところが、1937年

7

月の日中戦争の勃発に伴い、同年

8

月より国民動員のための官製国民運動 として「国民精神総動員運動」(精動)が開始されると、政府はその中で「八紘一宇」を国策理念 として喧伝するようになる。

 まず、1937年

10

月より、『国民精神総動員資料』と題した一連の国民教育用パンフレットが、内 閣・内務省・文部省より共同発行されている。その第二輯として刊行された、「内閣情報部」名義 による『何故の支那事変』(1937年

10

12

日発行)では、その冒頭で

あめのした八 紘 をおほ掩ひていへ宇と為む』、全世界凡ゆる民族、凡ゆる国家をして各々其の処を得しめ、相 り相

たす

扶けて万邦協和

ひと

斉しく平和な生存を享有せしむることは、広大無辺なる御歴代の 大御心 の存するところで、又実に国史を一貫してかは渝らぬ我が国是である。(178)

と、「八紘一宇」の精神が「肇国の国是」であることを述べた上で、「南京政府」が「世界平和の 敵」コミンテルンの策謀に乗せられて排日運動を展開していることを非難し、「支那事変」は「領 土的野心を満たし物質的慾望を達せんとする如き」ものではなく、

宜しく宇宙の大道と天地の公道の大乗的見地に立ち、八紘一宇、万邦協和の我が二千六百年伝 統の国是に則り、我等の理想を以て世界を光被するの一大信念を以て、支那の蒙を啓いて日支 永遠の提携を招来せねばならぬ。同時に此の肇国の国是、日本民族の大理想を世界に闡明して、

之を各民族各国民に滲透せしめ、以て世界平和に一段の進展を為さしめねばならぬ。(18頁)

と説いている。

 また、第四輯として刊行された「文部省」名義による『八紘一宇の精神 日本精神の発揚』(1937 年

11

10

日発行)では、「八紘一宇」は以下のように説明されている。

 「八紘」は「八荒」ともいひ、前者は八方の隅、後者は八方の遠い涯といふ字義であつて、

共に「世界の涯」とか「

あめ

天の下」とかいふ意味である。「一宇」は「一家」といふ字義で、全 体として統一と秩序とを有する親和的共同体といふ意味である。従つて「八紘一宇」とは、皇 化にまつろはぬ一切の禍を払ひ、日本は勿論のこと、各国家・各民族をして夫々その処を得、

その志を伸さしめ、かくして各国家・各民族は自立自存しつゝも、相倚り相 たす扶けて、全体とし てあい靄然たる一家をなし、以て生成発展してやまないといふ意味に外ならない。それは外国の覇 道主義の国家に見られる如く、他国を領有しようとする侵略的思想とは、

せう

じやう

壊 の差をなすも のであつて、禍を除き、道を布き、弥々高く益々広く向上発展する我が国の進路を示すと同時 に、各国家・各民族をして道義的・平和的世界を実現せしめる創造の道を示したものである。

この道は、実に肇国以来、一系連綿たる天皇の天津日嗣の大御業であり、又我々臣民が一身を 捧げて皇運を扶翼し奉る窮極の目標である。(179)

 同書によれば、日本は「我が天壌無窮の国体が、正に全世界を光被すべき秋に際会して居」り、

「流転の世界に不易の道を知らしめ、漂へる国家・民族に不動の依拠を与へて、国家・民族を基体 とする一大家族世界を肇造する使命と実力とを有するのは、世界広しと雖も我が日本を措いては他 に絶対ない」(3頁)。すなわち、日本の「国体」が無限に拡大し、全世界を覆い尽くすことによっ てこそ「真の世界平和」を実現される、とされている。また「支那事変」については、「非道義的 唯物思想と「コミンテルン」の赤化工作との傀儡になつて国民生活を犠牲にし、東洋平和を撹乱す る国民党政府及びその軍隊の非行と謬見とを祓い清め」、「支那をして光輝ある東洋の精神に帰ら しめ、東洋的地盤より生成する真の歴史・文化を創成せしむることこそ、実に皇国の世界文化史的 使命にして且は「八紘一宇」の現代的使命である」と説かれている(15頁)

 ここに至って、「八紘一宇」は明確に国策理念としての位置付けを与えられたことになる。また、

ここでは「世界統一」という思想は示されておらず、「八紘一宇」とは「全世界凡ゆる民族、凡ゆ る国家をして各々其の処を得しめ」ることであり、各国家・各民族の「自立自存」を認めつつも、

その全体を「天壌無窮の国体」による「皇化」が覆いつくすことにより、世界を「一家」とする意 味だとされている。とはいうものの、その中心にいるのは天皇であり、その天皇は日本と不可分の 存在なのだから、実態としては日本が指導国家として他の諸国・諸民族を指導していく、というこ とになる。この思想は、どちらかといえば華夷思想に類似している(180)

 内閣情報部が

1937

9

25

日から

10

20

日にかけて公募し、11月

2

日に発表した『愛国行 進曲』の一等当選歌詞(森川幸雄)では、「往け八紘をいへ宇となし/四海の人を導きて/正しき平和 うち建てむ/理想は花と咲き薫る」(181)と謡われている。また、1938年

2

26

日には、内閣情報 部国民精神総動員部会において「八紘一宇ノ聖旨宣明ニ関スル件」が決定され、同年

4

3

日の神 武天皇祭にあたって「我国是タル八紘一宇ノ御精神ニ対スル国民ノ理解ヲ愈〻深カラシムルコト」

が取り決められた(182)。さらに同年

4

28

日の閣議決定「昭和十三年度ニ於ル国民精神総動員実 施ノ基本方針」においても、「八紘一宇ノ大理想ノ下ニ帝国所期ノ目的達成ニ邁進セシムルコト」

が謳われている。ここに至り、「八紘一宇」は閣議決定レベルでの国策標語としての位置を確立し たことになる(183)

1939

9

月にヨーロッパにおいて第

2

次世界大戦が勃発し、1940年

5

月にオランダ、ついで

6

月にフランスがドイツに降伏するに及び、この戦争がドイツの勝利によって終結すると判断した日 本側では、東南アジアにおけるイギリス・フランス・オランダ各国の植民地を確保するため、「大 東亜共栄圏」構想を立ち上げることになる(184)。1940年

7

22

日に発足した第

2

次近衛文麿内閣 は、7月

26

日に「基本国策要綱」を閣議決定した。この「根本方針」においては、

皇国ノ国是ハ八紘ヲ一宇トスル肇国ノ大精神ニ基キ世界平和ノ確立ヲ招来スルコトヲ以テ根本 トシ先ツ皇国ヲ核心トシ日満支ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル大東亜ノ新秩序ヲ建設スルニ在 リ(185)

と謳われている。ここに至り、「八紘一宇」は「肇国の精神」にして「皇国の国是」という位置付 けを得、さらに、新たに提唱された「大東亜新秩序」(大東亜共栄圏)とも結び付けられたことに なる。ちなみに、これに先立つ

7

24

日の初閣議では、「「大日本帝国」の「帝国」は訳語で不可 ん、これは須く「皇国」と改むべし」という「用語の新体制?案」が出されたという(186)。  さらに同年

9

27

日、日独伊三国同盟条約の締結を受けて下された詔書では、

大義ヲ八紘ニ宣揚シ坤輿ヲ一宇タラシムルハ実ニ皇祖皇宗ノ大訓ニシテ朕ガ夙夜眷々措カザル 所ナリ〔…〕

惟フニ万邦ヲシテ各〻其ノ所ヲ得シメ兆民ヲシテ悉ク其ノ堵ニ安ンゼシムルハ曠古ノ大業ニシ テ前途甚ダ遼遠ナリ爾臣民益〻国体ノ観念ヲ明徴ニシ深ク謀リ遠ク慮リ協心戮力非常ノ時局ヲ 克服シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼セヨ(187)

として、詔書にまで「八紘一宇」が用いられるに至ったのである。また、この年

11

25

日には 宮崎市において「あめつち紘之もとはしら柱 」(通称「八紘一宇の塔」)が完成し、秩父宮雍仁親王の真筆による

「八紘一宇」の文字が内部に収められた(188)

2.6.3 『臣民の道』

1941

7

月、教学局は『臣民の道』を刊行する。同書は『国体の本義』の実践篇として、1940 年秋より教学局において、志水義暲教学官(1888–1954)を中心として編纂が進められたものであ る(189)。同書では、編纂段階より「八紘一宇の大思想」を盛り込むことが掲げられていた。