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文部省の「皇国史観」認識

第 3 章 「皇国史観」の提唱と流布 43

3.5 文部省の「皇国史観」認識

3.7:

国民錬成所・教学錬成所における「皇国史観」に関する講義(315)

講義題目 講師 錬成会 期間 備考

皇国史観 近藤壽治 視学錬成会

1943

6

15–21

皇国史観 近藤壽治 中学校長錬成会

1943

7

6–12

皇国史観 近藤壽治 師範学校附属国民学校主事

錬成会

1943

7

17–30

皇国史観 近藤壽治 師範学校男子部長錬成会

1943

10

8–14

皇国史観ニ

ツイテ

近藤壽治 師範学校女子部長錬成会

1943

10

16–22

皇国史観 板澤武雄 第二回中等教員錬成

1944

5

7

日より

3

ヶ月間

板澤の講義は

5

25

大東亜戦争下国体ノ本義ニ徹シ肇国ノ大精神ヲ国民生活ノ全領域ニ於テ顕現セシメマスコトハ 今次征戦ノ目的達成上最モ根本的ナル要請デアリ之ガ為ニハ肇国ノ大精神ノ具体的顕現タル我 ガ国歴史ノ迹ヲ詳カニシテ以テ皇国ノ歴史的使命ノ識得ニ資スルコトガ刻下ノ急務デアリマ ス。茲ニ於テ政府ハ国家事業トシテ正史ヲ編修シ現代施策ノ鑑トナシ 皇国史観 ノ徹底ニ資ス ルト共ニ永ク後昆ニ伝ヘテ国運隆昌ノ基礎ニ培ハントスルモノデアリマス。(316)

 翌

28

日付の新聞各紙はこのニュースを一面で大々的に報じており、またその後も、新聞・雑誌 等のメディアは、繰り返しこの事業計画について報じている。そして、その中で岡部の「皇国史観 ノ徹底」という発言も繰り返し取り上げられ、「皇国史観」の語が一般化するきっかけを作ること になった(317)。もっとも、本事業はその準備中に敗戦を迎えており、何の成果も残さずに終わって いる。なお、本事業については第

6

章で詳しく触れる。

 すなわち「皇国史観」とは、戦時下において政府、ことに文部省が喧伝して広めた、一種の国策 標語なのである。

 なお、この時期にはこの「皇国史観」に限らず、「皇国」をつけた国策標語が氾濫している。そ の代表的なものとしては、厚生省が産業報国運動の中で提唱した「皇国勤労観」や、農林省の主 導した「皇国農村確立運動」などが挙げられる。前者については、「生産増強勤労緊急対策要綱」

(1943年

1

20

日閣議決定)(318)では「皇国本来ノ勤労観」の「確立」、また「緊急国民勤労動員 方策要綱」(1944年

1

19

日閣議決定)(319)では「皇国勤労観ノ徹底」が謳われている。また後 者については、1941年

12

17

日に、農林省が農地審議会に対して「皇国農村確立ノ為農地対策 上採ルベキ方策如何」を諮問しており(320)、1942年

11

12

日には、「皇国農業及農民ノ維持培養 基地トシテ真ニ相応ハシキ皇国農村」の確立を謳い、「標準農村」の確立や自作農の育成を目指し た「皇国農村確立促進ニ関スル件」(321)が閣議決定されている。

だけなのである」と述べている(323)。すなわち、「天壌無窮の神勅」の絶対の尊重こそが「皇国史 観」の本源である、という主張が展開されていた。

 それでは教学局自身は、「皇国史観」をいかなるものとして把握していたのだろうか。

 そのことについて検討するための材料として、ここでは、教学官で『国史概説』編纂会議員で あった

ぬま

なみ

夫(1907–66)の論文「皇国史観の確立と『国史概説』」(324)と、近藤壽治教学局長の 講演録『皇国史観』を取り上げる。前者は

1943

5

10

日発行の『文部時報』789号に掲載され たもので、教学局による『国史概説』および「皇国史観」の準公式解説と見なし得るものである。

また後者は先にも少し触れたが、1943年

9

21

日に開かれた文部省・大阪府共催の教学講習会に おける講演で、1944年

12

月に大阪府思想指導委員会よりパンフレットとして発行されている。

 まず小沼洋夫によれば、「大東亜戦争」とは「近世の西洋的世界秩序を打破して、八紘為宇の宏 謨に則る正しき世界新秩序を建設せんとする」ものであり、「我が国家理想を以て世界史を転換せ しめんとするものであつて、いはば世界をして日本的世界たらしめようとする」戦いにほかならな い。従って、「大東亜の諸民族は勿論世界の各国民各民族の凡てが我が肇国の精神や八紘為宇の宏 謨について曇りなき理解を持ち、道義国家の真姿を皇国に仰ぐに至るまで、思想的文化的闘ひが遂 行されねばならぬ」。

 つまり、「大東亜戦争」とは単なる軍事的な戦いにとどまるものではなく、「西洋的世界観」と

「日本的世界観」との闘争である。そしてその勝利ためには、「一に自らの世界観に対してそれが絶 対唯一の妥当性を有するものであるとの強き確信に徹する以外にはない」。また、各民族・国家ご との世界観と歴史観とは互いに「相互連関的一体性」を持つものであるから、「、

  世、

  界、

  観、

  は、

  即、

  ち、

  歴、

、 史   観、

  に、

  外、

  な、

  ら、

  な、

  い」。

 ところで「西洋的世界観」とは、理性主義にせよ宗教的世界観にせよ唯物論にせよ民族主義にせ よ、根本的に「人間本位の世界観」であり、概括すれば「個人主義・自由主義」的なものである。

従って、ヨーロッパの歴史が示しているように、「西洋的世界観に立つ限り、対立闘争の歴史が歴 史の真姿として把握せられるのであるから、世界に大和を現成することは夢想に止まる」。

 これに対し「日本的世界観」とは、日本の「古代史」(神話)が伝える「我が国土と国民とは等 しく神の生み給うたものであつて、国民は神々を祭り天地自然と一体となり祖孫相率ゐて天皇に随 順帰一し奉る、ここに人生の本姿を観ずる国民的信念及び実践」である。そして日本は、この理念 に従った「君臣一体の家族国家」であり、かつ、歴代天皇による「皇化」が周囲にあまねく広がっ てゆくことによって「八紘為宇の皇謨の顕現」がなされてゆく、という歴史を歩んできた。また、

この世界観は一面では「世界史展開の根源的、   は、

  た、

  ら、

きをば、人為を超えた最も自然的なる生の、   は、

、 た   ら、

きに認め」るという思想であり、それに従って「あらゆる事物をば、一円融合相和の中に神武と 慈愛をもつて生かしてゆかんとする、剛毅にして包容力豊かな国家生活の伝統が生じたのであり、

最も自然的なる親子の関係を根基とする人倫的秩序の道徳が長養せられて、家即国・国即家の道義 国家が護持」されてきた。従って、この世界観こそが「世界に大和を将来し得る唯一の根拠」とな るのである。

 これを端的にまとめると、「西洋的世界観」が個人主義的・闘争的なのに対し、「日本的世界観」

は全体主義的・平和的ということになる。このような対置は、直接には『国体の本義』における

「西洋」の「個人主義」と日本の「和の精神」の対置を踏襲したものである。したがって、世界を 平和に導くためには、全世界を「日本的世界観」で覆わなければならない、ということになり、こ こに「大東亜戦争」は世界平和のための戦いとして肯定化されるのである。

 その上で小沼は「皇国史観」を以下のように定義付ける。

我々が日本世界観に徹する道は、皇国史の事実を通じてその歴史的全体を貫流する皇国発展の

生命原理を体得する以外にはないのであつて、この原理に基づいて従来の我が国竝びに世界の 歴史を断ずると共に、その歴史的創造に寄与せんとする思想信念を以て「皇国史観」といふの である。

 なお、「我が国竝びに世界の歴史」とあるように、適用範囲を特に日本国内に限っていないこと に注意しておきたい。

 また、小沼は同時期の別の論文において、「興亜の実践に於いて今日最も必要だと思はれること は、皇国世界観が如実に示されてゐる我が国史を現地の人々に教へることである」「皇国民的な、  

、 も   の、

の考へ方見方を人々に教へる道は実は皇国の歴史事実をありのまま教へることなのである」とも 主張している(325)

 小沼は続けて以下のように述べる。

 一面かかる史観の発する所以は、人生や歴史の、   事、

実に世界生成の、  

理を見出してゆくといふ、

世界をいはば事理一体なるものとして現実具体に於いて把握せんとする態度に基づくものであ る。この意味に於いて皇国史観は、西洋的世界観に従ひ知的抽象に於いて見出したる理論的原 理によつて世界を創造せんとし、かかる人為創造が世界史の現実であると考へる近代的史観と は著しく異なるものである。それ故西洋的思惟に於いては、現実の歴史認識の以前に理論的了 解としての史観が存在するのであるが、皇国史観に至る道は、これとは反対に、具体的歴史事 実の真姿に接することによつてのみ得られるのであつて、そこに、

  日、

  本、

  世、

  界、

  観、

  即、

  皇、

  国、

  史、

  観として の国民的信念が確立する。これまで述べたやうな日本世界観に関する叙述が単なる主観的理論 に基づくものでないためにも、皇国史の真生命が蔽はれてゐない真実具体の「歴史」が与へら れなければならない。

 すなわち、「皇国史観」とは、何らかの理論に従って歴史を認識・叙述していく、という意味での 歴史観ではなく、逆に、具体的史実に接することによってのみ得られる歴史観である。従って「皇 国史観」を確立するためには「真実具体の「歴史」」が与えられる必要があり、そのために編纂さ れたのが『国史概説』である、と小沼は述べる。

 しかし、そもそも歴史観と歴史叙述は一体不可分のものである。歴史を何らかの「物語」=歴史 叙述として語るためには、その前提となる史実を取捨選択するための歴史観が必要となる。また、

いかなる歴史観も史実に基づいていなければならない。はじめから結論が存在しており、その結論 に従って史実を無視したり歪曲したりするような「歴史観」は、確かに「歴史の観方」という意味 では「歴史観」と呼べるかもしれないが、結局のところは虚偽のイデオロギーにすぎない。歴史観 とは、いわば史実と理論との絶えざる対話によって成立していくものである。

 したがって、「具体的歴史事実の真姿に接することによつてのみ得られる」歴史観などというも のはありえない。その前提となる「具体的歴史事実」自体が、様々な史実の中からある歴史観に基 づいて取捨選択され、叙述されたものでしかありえないからである。小沼は別の論文で、

具体的に言へば悠遠なる肇国の事実と精神が神代史のまま示され、皇室の御威徳が如何なる時 代にも厳然と在はしました史実を克明に明にし、国体を命にかけて護持し八紘為宇の宏謨の実 現に挺身した私達の祖先の遺風や忠烈の士の事蹟を丹念に述べ、この輝かしい国体に発した国 民文化の伝統の基礎たる神祇崇敬の事実を明らかにすることを根本とした歴史がありのまゝの 我が国史である。(326)

と書いているが、これは決して「ありのまゝ」などではない、ある歴史観に基づいた歴史の再解釈 の結果にすぎない。