第 6 章 国史編修事業と国史編修院 88
6.1.3 修史事業に対する反応
先述したように、8月
28
日付の新聞各紙はこの閣議決定のニュースを一面トップで大々的に報 じており、また、その後も多くの新聞や雑誌がこの事業のことを再三にわたって大きく取り上げている。たとえば、関連する特集記事を組んだ新聞・雑誌だけでも、
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『日本讀書新聞』第268
号(1943年9
月25
日付)「特輯・正史編修と皇国史観」(428)•
『知性』第6
巻第11
号(1943年11
月)「特輯・皇国史の体認」(429)•
『読書人』第3
巻第11
号(1943年11
月)「特輯・史観を正す」(430)•
『文化日本』第8
巻第1
号(1944年1
月)「特輯・皇国史観の確立」(431)などが挙げられる。そして、この一連の報道の中で、岡部「謹話」中の「皇国史観ノ徹底」という 言葉に着目が集まった。この「皇国史観」という言葉は、国史編修事業の根本理念を示すものとし てジャーナリズムに繰り返し取り上げられ、そして一般に広まっていったのである。
しかしながら、そこで実現されるべき「皇国史観」とは具体的にいかなるものなのか、という点 になると、実際のところ論者によってかなりのブレが生じている。岡部「謹話」は、「皇国史観」
のほか「国体ノ本義」「肇国ノ大精神」といった抽象的なキーワードを挙げているだけで、それら が具体的にいかなるものなのかについては説明をしていない。そのためもあり、この修史事業をめ ぐっては、文部省の意図を超えた様々な意味づけがなされることになった。
たとえば、『朝日新聞』8月
29
日付のコラム欄「神風賦」では、「これを機会に国民挙つて国史に 対する燃犀の知識を持つことだ」とした上で、「すくなくとも、親房の『神皇正統記』白石の『読 史余論』山陽の『日本外史』明治以降のものとしては田口鼎軒の『日本開化小史』の如き読み易い ものを一読するのは日本臣民の義務とも謂ふべきである」と書いている。しかし、儒学者の新井白 石や頼山陽、あるいは文明史家の鼎軒田口卯吉などの歴史観は、平泉澄などの国体論的な歴史家か らは批判の対象とされていた。特に『読史余論』については、後述するように教学局では「幕府政 治ヲ背景トスル史観ニ立脚スル」ものとして低い評価を与えている。国体論の聖典扱いを受けて いた『神皇正統記』ですら、源頼朝を高く評価するなどといったその「不敬」性はたびたび問題と なっていたのである(432)。また、ジャーナリズムの論調はおおむね礼賛調であったが、中には国体論的な立場より危惧の念 を示すものも見られた。たとえば、『読書人』誌の特集「史観を正す」は、主として日本浪曼派系 の執筆者たちが国体論的な立場から当時の主だった歴史学者たちに批難を浴びせ、彼等がこの修史 事業に関与することを危惧する、といった性格のものである。ちなみにこの雑誌は東京堂から発行 されていた新刊書籍の紹介誌であったが、『公論』とともに戦時下における右翼言論の総本山的な 役割を果たしており、この時期には京都学派に対する攻撃を盛んに行っていた(433)。
まず、日本浪曼派の中心人物であった保田與重郎(1910–81)は、「「皇国史観」といふことも、
各民族諸国家の史観に対抗する意味の「皇国史観」でなくして、絶対唯一のわが国史の道に生きる 志といふ意と考へられるし、かく考へねばならぬ」と主張し、さらに、『読売報知』紙に掲載され た中村孝也の談話記事(434)の中に「摂関及び武家へ政権運用を御委任になつた時代」という文言が あるのを取り上げて、「かゝる語を聞けば、恐らく承久建武以降の忠臣は泣くであろう。御一新を翼 賛し奉つた志士や、明治天皇の功臣たちも泣くであらう」と批判している(435)。また房内幸成は、
「鎌倉幕府より明治維新に至る七百年の国史を、吾妻鏡、徳川実記等を一等史料として幕府中心に 見たり、新井白石の幕府史観を祖述したり、さては道の継承といふことも知らず、歴史即発展との み考へる西洋史観や西来の文化主義の史観をおのれの学の生命とするやうな学者が、もし仮に正史 の撰修に与るといふことになるならば、まことにゆゝしき一大事とならう」と述べている(436)し、
森本忠も、『維新史』(維新史料編纂会〔編〕、1939–41年)や『初等科国史』を取り上げて、前者 は「維新は尊皇攘夷論によつて推進されながら恰もそれの克服によつて将来されたかの如き感を
与へる」、後者は「欧洲人が東洋後進国の名所旧蹟、例へばアンコールワツトなどを見るやうな目 で、日本の旧蹟の由緒を一通り説いてあるに過ぎない」と批判し、さらに専門的な歴史家の著作に は「我々国民が日本の歴史によつて教へられた史観、養はれた信念に抵触する所が多いばかりか、
それから逸脱して却つてそれを嘲笑する如き異説が中々に多い」と攻撃している(437)。
彼らはいずれも文部省とアカデミズムの歴史家に不信を抱き、歴史研究の成果よりも自らの奉じ るファナティックな国体観念の方を優先すべきだと主張しているわけである。もっとも、彼らの議 論においては、「大東亜共栄圏」や「八紘一宇」などの概念はほとんど登場せず、もっぱら天皇と 勤王の忠臣の扱いのみが重視されている。
また、いささか異色の反応として、満洲国の大連にあった「興亜技術同志会」の会員である山崎 長七なる人物が、1943年
10
月7
日付で発行した、『大日本帝国神代史の研究資料』なる謄写版の パンフレットがある(438)。同書は、「〔国史編修事業の〕快挙に拠りて 天照大神の大慈悲心と御豊 範、素戔嗚尊の御鴻業及高天原の位置等従来以上に明確とならば、当然の結実として之等の御事 蹟は直ちに学問学理の対象となり、後者の恒久性に千鈞の重みを付加するに至るべし」との立場よ り、ムー大陸説や『竹内文献』『物部文献』『契丹古伝』などの偽書ないしは来歴の不確実な歴史書 に基づき、「北東亜民族の日本始原族が世界人類中最古にして天御中主以降の諸神を代表せらるゝ 天照大神が世界人類の始祖であらせられ」る、等々と主張する奇怪な書物である(439)。いっぽう、諷刺作家の
うぶ
生
かた
方
とし
敏
ろう
郎(1882–1969)は、個人誌『古人今人』でこの事業に触れ、「政府 のやる仕事だから金と材料が豊富だらうから、書く方の学者に見識と熱がありさへすれば好い物が 出来やう」と述べながらも、「国史は史料だけ出版する程度でも十分」(すでに『大日本史料』が刊 行されているのだから不必要なはずであるが)と冷ややかな見方を示した上で、それよりもむしろ 国語辞典を編纂すべきであると主張している(440)。
また、直接国史編修事業に触れたものではないが、リベラリズムの立場から「皇国史観」という 語の積極的な読み替えを試みた例として、清沢洌(1890–1945)による『東洋経済新報』誌
1944
年2
月5
日号の社論「大東亜各地日本人の品位を高めよ」(441)が挙げられる。清沢はまず、岡部文相 が「全国の教学課長視学官等の督学の位置にあるものを集めた席上」の「訓話」において、「今日、大東亜各地より日本人の教養の足らざることに対する非難を往々耳にするのである。
斯の如きは単に大東亜建設上極めて遺憾なるのみならず、日本自体の重大問題である。これ教 育上看過すべからざるところと考へる故、諸君は叙上の意を克く体せられ、学校教育の全分野 に亙り、皇国史観と日本世界観とを把握体得し、真に日本的にして和衷協同事に当るべき国民 の育成に一層の御指導を望む」
と発言したことを紹介し、さらに「大東亜各地に赴く者は、まづ原則的に「皇国史観」の認識ある 者を以てし、更に望ましからざる利潤追求者の殺到を防ぐために渡航者を或程度まで制限した」と 記している。その上で清沢は以下のように述べている。
もし皇国史観と日本世界観といふものが、一部に見る如く唯我独尊であつて、他の思想と立場 とは一切受け入れず、極めて狭量のものであるかの如く考へるならは、それは国内の民心をす らも把握することは出来ない。況んや他民族をやである。
記者は岡ママ田〔正しくは岡部〕文相が確信を以て主張しつゝある皇国史観が、左様な狭量なる ものと信ずるを得ない。大東亜〔共同〕宣言の「万邦との交誼を篤うし、人種的差別を撤廃し、
普く文化を交流」することの基底をなすところの皇国思想は、真におほらかであるをその本質 とする。同じ宣言中の「相互に其の伝統を尊重し、各民族の創造性を伸暢する」ためには、自 己の信念に忠実である如く、他民族のそれに対しても同情と尊敬を持つ必要がある。岡
ママ
田文相 が説いてこゝに到らなかつたのは惜しむべきであつた。