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文部省による「皇国史観」の提唱

第 3 章 「皇国史観」の提唱と流布 43

3.4 文部省による「皇国史観」の提唱

1942

年夏ごろから、文部省では、この『国史概説』『大東亜史概説』など一連の歴史書の歴史観 を示す語として、「皇国史観」という語を積極的に用いるようになる。

 先述したように、「皇国」という語は

1930

年代後半に日本の異称として定着するようになった。

また、「皇国史観」という語それ自体は

1940

年ごろから散発的に用いられはじめたようである(305)。 例えば、先に挙げた牧健二の『日本国体の理論』(1940年

3

月刊)には、「国体を以て原理とする歴 史観を称して、此処には国体史観となづけよう。〔…〕而して日本の国家に関する特殊具体的な歴 史観であると云ふ点に於ては、之を日本国体史観又は 皇国史観 と云つてもよいのである」という 記述がある(306)。また文部省図書監修官の中村いちろう良(1906–76)が

1941

11

月に発表した論文の 中に、「本居宣長、平田篤胤等国学者の 皇国史観」(307)というくだりがある。しかし、この語が一 般的に流布するのは、文部省がこの語を一種の国策標語として喧伝するようになってからである。

1942

6

22

日に開かれた高等師範学校長・高等学校長・専門学校長・実業専門学校長会議 において、橋田文相は以下のような訓示を行っている。

皇国青年学徒ヲシテ克ク其ノ真面目ヲ行往坐伏ノ裡ニ発揮セシムルコトガ思想戦ニ応ズル対策 トシテ極メテ大切ナコトト考ヘルノデアリマス。而シテコレニ向ツテハ我邦ノ歴史ト伝統トノ 生命デアル所以ヲヨク識得シ、吾々ノ日本人トシテノ生命ノ根源ハ茲ニアルコトヲ体得シテ確 固タル 皇国史観 ニ徹シ進ンデハ国体ノ本義肇国ノ精神ニ則ル日本世界観ヲ克ク把握体得スル コトガ必要デアリマス。従来往々所謂客観的妥当性ヲ重ンズルノ餘リ傍観的ニノミ日本ヲ観又 世界ヲ観乃至英米的世界観ニ堕シテ居ルモノガ尠クナカツタノデアリマスガ肇国ノ理想ヲ顕現 シナケレバナラナイ今日、吾人ハ自観的立場ニ立ツテ皇国日本ヲ立脚地トシテ世界ヲ観又把握 シナケレバ外来ノ思想ニ対シ正シキ批判ヲ下シ又世界ヲ思想的ニ指導スルコトハ出来ナイノデ アリマス。而シテ其ノ根源ハ皇国ノ歴史的使命ノ透徹セル識得ヲ根基トスル 皇国史観 デアリ マスガ、コレニ向ツテ昨年度カラ 国史概説 ノ編纂ニ着手シテ居リマシテ近ク完成ノ見込デア リマス。更ニ本年度ニ於テハ 大東亜史 ノ編纂ヲ計画シテ既ニ進捗シツツアルノデアリマス。

各位ハ叙上ノ意ヲヨク体セラレテ学校教育ノ全分野ニ亘リ学徒ヲシテ 皇国史観 ト日本世界観 トノ把握体得ニ向ツテ随時随処ニ薫育指導サレンコトヲ望ンデ已マナイノデアリマス。(308)

 すなわち、ここで橋田は、国民が「思想戦」に打ち勝ち「世界ヲ思想的ニ指導スル」ためには、

「国体ノ本義肇国ノ精神ニ則ル日本世界観」、そしてその根源である「皇国史観」の「把握体得」が 必要であるとし、その目的を達成するため、文部省では『国史概説』『大東亜史概説』の編纂を行っ ている、と述べているのである。

 橋田は、同年

9

26

日の大政翼賛会第三回中央協力会議の場における演説の中でも、以下のよ うな発言を行っている。

 大東亜戦争が肇国の理想に淵源するものでありますことは申すまでもありませぬ。随つて国 体の本義を明かにし、肇国の精神を国民生活の全領域に於て体顕せしむることが、今次征戦 の目的を達成する為に根源的に要請されるのであります。これがためには国体の本義に徹し、

皇国臣民としての生命の根源は我国歴史と伝統とにあることを体得して、確固たる 皇国史観 を、更に進んで国体の本義、肇国の精神に則る世界観、即ち日本世界観を把握体得することが 必要なのであります。これが為め文教の問題と致しまして学問、思想の根源を明かにし国体の 本義に基く日本諸学の樹立、振興を図る為、益々これが助長の方策を講ずることが取上げられ て居るものであります。また、

  文、

  部、

  省、

  に、

  於、

  き、

  ま、

  し、

  て、

  は、

  こ、

  の、

  趣、

  旨、

  に、

  基、

  き、

  ま、

  し、

  て、

  国、

  史、

  概、

  説、、

  大、

  東、

  亜、

、 史   の、

  編、

  纂、

  に、

  着、

  手、

  し、、

  着、

  々、

  事、

  業、

  の、

  進、

  捗、

  を、

  見、

  つ、

  つ、

  あ、

  り、

  ま、

  す、

が、更に今後御歴代詔勅の衍義を謹解し奉 り、古事記、日本書記その他古典についてその衍義を編纂し、更に昌んなる、

  大、

  御、

  代、

  を、

  象、

  徴、

  す、

、 べ   き、

  大、

  規、

  模、

  な、

  る、

  国、

  史、

  編、

  纂、

  を、

  画、

策しまして、皇国の歴史的使命の透徹せる識得の根基を明かにした いと思ふのであります。(309)

 趣旨はさきの訓示とほぼ同様であるが、ここでは先の二書に加え、新たに詔勅および古典の「衍 義」(解説書)の編纂、および「大規模なる国史」の編纂の計画が加わっている。

 このうち「衍義」については、翌

1943

5

月に教学局内に「古典編修部」(表

3.6)が設置され

ているが、特に何の成果も出さずに終わっている(310)。また、「大規模なる国史」とは、先述した 明治期の修史事業を復活させ、六国史を継承する「正史」を編修しようとする計画であった。

1943

2

月に『国史概説』上巻が公刊された際、新聞は同書のことを「皇国史観に基く初の権 威ある日本通史」(312)と報じている。このころから、「皇国史観」という表現が一般にも用いられ るようになりはじめる。

 さらに橋田は、1943年

2

9

日の第

81

回帝国議会衆議院予算委員会第二分科会でも、文部省所 管予算の説明の中で「日本世界観及ビ皇国史観ノ闡明昂揚施設ト致シマシテ、歴代詔勅ノ謹輯ヲナ シ、古典及ビ家ニ関スル研究調査ヲ行」い、また「学校教員二対スル皇国史観ノ講習施設等ヲ講ジ」

る予定である、と述べている。「歴代詔勅ノ謹輯」および「古典」の「研究調査」は先の「衍義」と 同一であり、「家ニ関スル研究調査」とはおそらく『家の本義』の編纂を指すものと思われる。『家 の本義』は

1940

年より教学局において編纂が開始されたが、未刊に終わった書物である(313)。  また、「皇国史観ノ講習施設」にあたるものとしては、1943年度より各都道府県の教学錬成所で 行われた「皇国史観錬成会」がある。これは、従来行われていた「教学錬成会」「教学講習会」に 加え、「中等学校国民科担任教員三、四十名ヲ簡抜五日間以上ニ亙リ合宿錬成ヲ実施セシメ純正ナ ル皇国史観ノ確立ト体認トニ依リ国体ノ本義日本精神ノ真義ニ徹シ皇国ノ世界史的使命ニ挺身セ シムルノ目的ヲ以テ実施」されたもので、1943年

11

月までに岡山県を除く

46

都道府県で計

1778

名が錬成を受けている(314)

 さらに、国民錬成所(1942年

1

月設置)における教員の錬成会では、近藤壽治教学局長が「皇 国史観」と題する講義をしばしば行っている。その後、国民錬成所は

1943

11

月に精研と合併し 教学錬成所となっているが、そこで開かれた錬成会においても、板澤武雄東大教授がやはり「皇国 史観」と題する講義を行っている(表

3.7)。

 また

1943

8

27

日、先述した「大規模なる国史」編修のため、「国史編修準備委員会」を設 置することが閣議決定された。この際、岡部長景文相はただちにこのことを昭和天皇に奏上し、そ の後に発表された「文部大臣謹話」の中で以下のように述べている。

3.6:

古典編修部名簿(311)

役職 人名 生年 没年 専門

部長 近藤 壽治

1885 1970

文部省教学局長

主事 小沼 洋夫

1907 1966

文部省教学官

調査嘱託 藤井 甚太郎

1883 1958

明治維新史

〃 高楠 順次郎

1866 1945

仏教学

〃 筧 克彦

1872 1961

公法学・神道学

〃 吉田 熊次

1874 1964

教育学

〃 辻 善之助

1877 1955

日本仏教史

〃 橋本 進吉

1882 1945

国語学

〃 久松 潜一

1894 1976

国文学、上代〜近世国学

〃 中村 孝也

1885 1970

日本中世・近世史

〃 宮地 直一

1886 1949

神道史

〃 平泉 澄

1895 1984

日本中世史

〃 坂本 太郎

1901 1987

日本古代史

〃 龍 肅

1890 1964

平安・鎌倉期皇室・政治史

〃 西田 直二郎

1886 1958

日本文化史

〃 澤瀉 久孝

1890 1968

国文学

〃 村岡 典嗣

1884 1946

日本思想史

〃 高木 市之助

1888 1974

国文学

〃 諸橋 轍次

1883 1982

漢文学

〃 松本 彦次郎

1880 1957

鎌倉仏教史

〃 肥後 和男

1899 1981

日本古代史、民俗学

〃 山田 孝雄

1875 1958

国語学、国文学、日本史

〃 倉野 憲司

1902 1991

国文学

〃 紀平 正美

1874 1949

哲学

〃 加藤 虎之亮

1879 1958

漢文学

〃 河野 省三

1882 1963

神道史・国学

〃 武田 祐吉

1886 1958

国文学

〃 安岡 正篤

1898 1983

陽明学

締修嘱託 次田 潤

1884 1966

国文学

〃 丸山 二郎

1899 1972

日本古代史

〃 森末 義彰

1904 1977

中世芸能史

〃 福尾 猛市郎

1908 1990

日本近世史

〃 小島 小五郎

1904 1989

長崎県史 書記 富海 敏夫

〃 久我 元

3.7:

国民錬成所・教学錬成所における「皇国史観」に関する講義(315)

講義題目 講師 錬成会 期間 備考

皇国史観 近藤壽治 視学錬成会

1943

6

15–21

皇国史観 近藤壽治 中学校長錬成会

1943

7

6–12

皇国史観 近藤壽治 師範学校附属国民学校主事

錬成会

1943

7

17–30

皇国史観 近藤壽治 師範学校男子部長錬成会

1943

10

8–14

皇国史観ニ

ツイテ

近藤壽治 師範学校女子部長錬成会

1943

10

16–22

皇国史観 板澤武雄 第二回中等教員錬成

1944

5

7

日より

3

ヶ月間

板澤の講義は

5

25

大東亜戦争下国体ノ本義ニ徹シ肇国ノ大精神ヲ国民生活ノ全領域ニ於テ顕現セシメマスコトハ 今次征戦ノ目的達成上最モ根本的ナル要請デアリ之ガ為ニハ肇国ノ大精神ノ具体的顕現タル我 ガ国歴史ノ迹ヲ詳カニシテ以テ皇国ノ歴史的使命ノ識得ニ資スルコトガ刻下ノ急務デアリマ ス。茲ニ於テ政府ハ国家事業トシテ正史ヲ編修シ現代施策ノ鑑トナシ 皇国史観 ノ徹底ニ資ス ルト共ニ永ク後昆ニ伝ヘテ国運隆昌ノ基礎ニ培ハントスルモノデアリマス。(316)

 翌

28

日付の新聞各紙はこのニュースを一面で大々的に報じており、またその後も、新聞・雑誌 等のメディアは、繰り返しこの事業計画について報じている。そして、その中で岡部の「皇国史観 ノ徹底」という発言も繰り返し取り上げられ、「皇国史観」の語が一般化するきっかけを作ること になった(317)。もっとも、本事業はその準備中に敗戦を迎えており、何の成果も残さずに終わって いる。なお、本事業については第

6

章で詳しく触れる。

 すなわち「皇国史観」とは、戦時下において政府、ことに文部省が喧伝して広めた、一種の国策 標語なのである。

 なお、この時期にはこの「皇国史観」に限らず、「皇国」をつけた国策標語が氾濫している。そ の代表的なものとしては、厚生省が産業報国運動の中で提唱した「皇国勤労観」や、農林省の主 導した「皇国農村確立運動」などが挙げられる。前者については、「生産増強勤労緊急対策要綱」

(1943年

1

20

日閣議決定)(318)では「皇国本来ノ勤労観」の「確立」、また「緊急国民勤労動員 方策要綱」(1944年

1

19

日閣議決定)(319)では「皇国勤労観ノ徹底」が謳われている。また後 者については、1941年

12

17

日に、農林省が農地審議会に対して「皇国農村確立ノ為農地対策 上採ルベキ方策如何」を諮問しており(320)、1942年

11

12

日には、「皇国農業及農民ノ維持培養 基地トシテ真ニ相応ハシキ皇国農村」の確立を謳い、「標準農村」の確立や自作農の育成を目指し た「皇国農村確立促進ニ関スル件」(321)が閣議決定されている。