第 6 章 国史編修事業と国史編修院 88
6.2 国史編修準備委員会における議論
国史編修準備委員会(表
6.2)は、1943
年10
月1
日付(2日公布)の勅令第751
号「国史編修準 備委員会官制」によって設置された。設置目的は「文部大臣ノ監督二属シ其ノ諮問二応ジテ国史編 修ノ準備ニ関スル重要事項ヲ調査審議ス」というものであり、会長には文相が就任し、委員には内 閣書記官長(星野直樹)と法制局長官(森山鋭一)、各省庁の次官級官僚と東京・京都両帝大の総 長(内田祥三・羽田亨)、貴族・衆議両院の副議長(佐佐木行忠・内ヶ崎作三郎)、枢密顧問官(竹 越與三郎)、それに学識経験者として西田直二郎・山田孝雄・中村孝也・平泉澄・龍肅・矢野仁一・辻善之助・安岡正篤が指名されている。
6.2.1 平泉澄の反対意見
ところで、このうち平泉澄は、じつはこの事業に対して最も強硬な反対意見を展開していた。平 泉の回想によれば、8月
28
日の新聞報道を見た平泉は「愕然として驚き、いかに対処すべきか、苦 慮し」、8月31
日午後に原元助教学局企画課長が平泉宅を訪れ、平泉に準備委員会委員として協力 するよう依頼してきた際にも「即座に、此の計画の本質的に無謀であり、且つ頗る時宜に適せざる 点を指摘し」、さらに「課長では話にならないので、翌々日〔9
月2
日〕の朝、私は文部大臣を私邸 にたづねて鄙見を申入れたが、是れも結局物別れになつて了つた」という(443)。さらに平泉は、9 月8
日、東條首相に宛てて「正史編修愚見」と題された意見書を執筆し、翌9
日に首相官邸を訪れ て秘書官に手渡している(444)。平泉の反対意見は以下の
4
点からなっていた。第一、「六国史を軽んずるの嫌あり」。文部省案では「肇国以来の正史を書き改むる予定」である というが、それでは勅撰正史である六国史をも書き換えることになってしまう。
第二、「期限短きに過ぐべし」。『大日本史』が実に足掛け
250
年もかけて編纂されたことを考え ると、15年では短すぎ、「皇国正史としては編纂の態度軽率の甚だしきもの」である。第三、「史官果してその人ありや 疑あり」。「正史」編修の担当者は「学問識見及び文章の兼備を 要する」のみならず、「国体の根本に徹し古今の史実に通じ読んで」いる必要があるが、そのよう な歴史家は、現状では「殆んど見当ら」ない。「即ち或は南北両朝の対立を主張し、或は足利高氏 を礼讃し、或は北条泰時・井伊直弼を弁護し、大義の存するところを知らず、正邪の別るるところ に暗し」。
第四、「不急の事業 戦力をそぐ嫌なきか」。「大東亜戦争」に国力を集中すべき状況である以上、
「不急の事業はよろしく時を待つべき」である。
表
6.2:
国史編修準備委員会・調査会名簿(442)人名 肩書 国史編修準備委員会 国史編修調査会
役職 就任 解任 役職 就任 岡部 長景 文部大臣・子爵 会長
1943.10.2
− − 二宮 治重 文部大臣 − − − 会長1944.11.21
星野 直樹 内閣書記官長 委員1943.10.2
− − 田中 武雄 内閣書記官長 − − − 委員1944.12.15
森山 鋭一 法制局長官 委員1943.10.2
− − 三浦 一雄 法制局長官 − − − 委員1944.12.15
安倍 源基 企画院次長 委員1943.10.2 1943.11.1
− − 村田 五郎 情報局次長 委員1943.10.2
− − 三好 重夫 情報局次長 − − − 委員1944.12.15
植場 鐵三 総合計画局長官 − − − 委員1944.12.15
白根 松介 宮内次官・男爵 委員1943.10.2
→ 委員1944.12.15
松本 俊一 外務次官 委員1943.10.2
− − 澤田 廉三 外務次官 − − − 委員1944.12.15
唐澤 俊樹 内務次官 委員1943.10.2
− − 山崎 巖 内務次官 − − − 委員1944.12.15
飯沼 一省 神祇院副総裁 委員1943.10.2
→ 委員1944.12.15
谷口 恒二 大蔵次官 委員1943.10.2
− − 松隈 秀雄 大蔵次官 − − − 委員1944.12.15
富永 恭次 陸軍次官 委員1943.10.2
− − 柴山 兼四郎 陸軍次官 − − − 委員1944.12.15
澤本 頼雄 海軍次官 委員1943.10.2
− − 大西 新藏 海軍中将 − − − 委員1944.12.15
菊池 豐三郎 文部次官 委員1943.10.2
− − 藤野 惠 文部次官 − − − 委員1944.12.15
内田 祥三 東京帝国大学総長 委員1943.10.2
→ 委員1944.12.15
羽田 亨 京都帝国大学総長 委員1943.10.2
→ 委員1944.12.15
竹越 與三郎 枢密顧問官 委員1943.10.2
→ 委員1944.12.15
西田 直二郎 京都帝国大学教授 委員1943.10.2
→ 委員1944.12.15
山田 孝雄 神宮皇学館長 委員1943.10.2
→ 委員1944.12.15
中村 孝也 東京帝国大学教授 委員1943.10.2
→ 委員1944.12.15
平泉 澄 東京帝国大学教授 委員1943.10.2
→ 委員1944.12.15
内ヶ崎 作三郎 衆議院副議長 委員1943.10.2
→ 委員1944.12.15
佐佐木 行忠 貴族院副議長・侯爵 委員1943.10.2
→ 委員1944.12.15
酒井 忠正 貴族院副議長・伯爵 − − − 委員1944.12.15
龍 肅 史料編纂所長 委員1943.10.2
→ 委員1944.12.15
矢野 仁一 京都帝国大学教授 委員1943.10.2
→ 委員1944.12.15
辻 善之助 東京帝国大学名誉教授 委員1943.10.2
→ 委員1944.12.15
安岡 正篤 − 委員
1943.10.2
→ 委員1944.12.15
稻田 周一 内閣書記官 幹事
1943.10.2
→ 幹事1944.12.15
入江 俊郎 法制局参事官 幹事1943.10.2
→ 幹事1944.12.15
渡邉 渡 企画院部長 幹事1943.10.2 1943.11.1
− − 安積 得也 総合計画局部長 − − − 幹事1944.12.15
迫水 久常 大蔵省総務局長 幹事1943.10.2 1943.11.1
− −内閣参事官 幹事
1944.1.24
− − 松田 令輔 大蔵省総務局長 幹事1943.12.18
− − 山際 正道 大蔵省総務局長 − − − 幹事1944.12.15
藤野 惠 文部省総務局長 幹事1943.10.2
− − 永井 浩 文部省総務局長 − − − 幹事1944.12.15
近藤 壽治 文部省教学局長 幹事1943.10.2
→ 幹事1944.12.15
冨海 敏夫 − 書記
1943.10.8
→ 書記1944.12.20
服部 貞藏 − 書記
1943.10.8
→ 書記1944.12.20
渡邊 是 − 書記
1943.10.8
→ 書記1944.12.20
6.2.2 諮問と問題提起
国史編修準備委員会の第
1
回総会は1943
年12
月13
日、第2
回総会は同21
日に、それぞれ文 相官邸で開かれている。各会合は原則として秘密会とされていた(445)。第一回総会では最初に、岡部長景が文相及び会長として挨拶した後、幹事の近藤壽治教学局長が 司会として文相の諮問を朗読した。諮問は、
国史編修ニ関シ之ガ実施準備上留意スベキ重要事項如何 というものであり、またその説明は
我ガ国ノ世界的使命ニ鑑ミ肇国ノ精神ノ具体的顕現タル国史ノ成迹ヲ詳カニシ、以テ政教ノ基 ヅクトコロヲ明カナラシムルハ現下喫緊ノ要務ナルニ依リ政府ハ十五箇年ヲ以テ国史ヲ編修セ ントス仍テ編修ノ方針・方法其ノ他実施準備上特ニ留意スベキ事項ニ付其ノ大綱ヲ決定スルノ 要アリ即チ本問ヲ諮問ス
となっていた(446)。
この諮問に沿って、まず最初に近藤壽治より叙述方法上の重要な問題点が提起された。まず最初 に挙げられたのは「叙述スベキ範囲」である。すなわち、その最初を「肇国」に置くか、それとも
「六国史ノ後ヲ承ケ」、宇多天皇の践祚した仁和
3(887)年 8
月以降とするか、また、終りを「明 治ノ御代ニ止メ」るか「大正ノ御代ニ及ブ」か、ということが問題とされたのである。また、「叙 述ノ方法体裁」を編年体にするのか記事本末体にするのか、また、文体を文語体にするか口語体に するか、といった問題も同時に提起された(447)。なおこの他にも、羽田亨から、この歴史書は「官撰」なのか「勅撰」なのかという問題が提起さ れている。近藤壽治はこの点について「官撰トシテ茲デ撰修サレル歴史モ勅撰ト同様ナモノデハ アルマイカ」と答えており、また岡部は、天皇への奏上について説明した上で近藤に同意している が、「此ノ問題ハ非常ニ重要」であり、後で審議すべき問題の一つとしている(448)。つまり、官撰 ではあるが、天皇に奏上していることで勅撰的な性格を有している、という位置づけであったと思 われる。なお平泉澄は「勅撰ニ擬スルト云フコトハ畏多イコトデハナイカ、私ハヤハリ官撰ト云フ 点ヲ明白ニサレルコトガ宜シイノデハナイカト思ヒマス」と主張している(449)。
この問題提起の後、2回の総会を通して、近藤幹事の司会のもとに各委員が一通り意見を述べ合 うことになる。
その後、答申案を作成するための特別委員会が設置されることになり、会長の指名により中村・
山田・白根松介(宮内次官)・平泉・龍・安岡・西田・辻・竹越の八名が特別委員に選出されてい る。宮内次官の白根と枢密顧問官の竹越が選ばれたのは、この事業が皇室と密接な関連性を持つと 見なされていたことを示している。
辻を特別委員長とする特別委員会は、1944年
2
月21
日・3月8
日・28日の三度にわたって開か れ、ここでは近藤壽治ら幹事が総会での議論をもとにまとめた試案を叩き台として答申案が作成さ れた。この答申案は、3月29
日に開かれた第3
回総会において全会一致で可決され、翌30
日に公 表されている。この経緯からもわかるように、事業の主導権をにぎっていたのは教学局であった。6.2.3 編纂の目的
総会では、主として政府系の委員から、この事業が「思想戦」にあたっての重要な武器になるよ う期待する意見が寄せられた。
たとえば内ヶ崎作三郎は、「大東亜共栄圏ヲ指導スル為ニ、共栄圏各国各民族ヲシテ日本帝国ノ 国体又其ノ歴史的発展及ビ国家トシテ、或ハ指導国家トシテノ使命ヲ諒解セシメルコトノ出来ルヤ ウナ立派ナ国史」(450)を編修し、これを翻訳して大東亜共栄圏諸国に対する思想宣伝の材料とする ことに期待している。
また内務次官の唐澤俊樹は、歴史書を検閲する際に「ドウ云フ態度ヲ以テ之ニ臨ンデ宜イカ非常 ニ苦シム場合ガ多イ」が、「其ノ意味カラ申シテモ今度ノ仕事ハ極メテ有難イコトデ、之ニ依ツテ 本当ニ日本ノ正史ガ決リマスレバ、ソレニ基ヅイテ思想ノ指導ヲ致スニモ基準ガ出来ルノデアリマ ス」と、言論統制の立場よりあからさまな期待を語っており、しかも警察の業務上「現代ニ近イ部 分ガ時ニ実際ノ仕事ノ上ニ、非常ニ重大ナ関係ヲ持ツ」ことから「成ベク近クマデ下ツテ書カレル コトヲ」求めている(451)。「正史」というものが言論統制にあたってどのような機能を果たすのか、
そのことを露骨に示した発言といえよう。
さらに、富永恭次陸軍次官の代理として出席した那須義雄陸軍兵務局長は、この書を「天皇陛 下ノ御作リ遊バサレタ皇国史」「恭シイ、神々シイ所ガ入ツタモノ」として、「国民必読ノモノトシ テ、必勝ノ信念又戦意ノ高揚、愈〻報国ノ志ヲ以テ此ノ戦争ヲ完遂スルト云ウ風ニ持ツテ行ツテ貰 ヒタイ」(452)と、神聖なる「正史」の創出への期待を述べている。
6.2.4 叙述対象期間をめぐる議論
しかしながらその一方で、総会では、この歴史書の性格をどのように位置づけるのか、という点 が大きな問題となった。
委員会において最大の問題とされたのは、叙述の対象となる期間、とりわけ「其ノ初メヲ肇国ニ 置キマスルカ、或ハ六国史ノ後ヲ受ケテ宇多天皇ノ践祚アラセラレマシタ仁和三年八月ニ求メル カ」(453)という点である。なお明治の修史事業においては、『大日本史』を「正史」扱いとした上 で、それ以後を対象期間とする取り決めがなされていたのであるが、ここではそのような考えは全 く問題にされていない。
まず、明治天皇宸翰御沙汰書の理念に従い、六国史を受け継いだ正史だと考えるならば、当然、
叙述期間は『日本三代実録』以後、すなわち仁和
3(887)年以後でなければならない。岡部会長
ほか、西田直二郎・竹越與三郎・山田孝雄などがこの意見に与している。たとえば西田直二郎は、六国史以後「万人ガ依拠致ス歴史ガ欠ケテ居リマスコトハ、洵ニ国民ト致シマシテモ遺憾」なのだ から、「国民ノ之ニ依リ万世後代是ニ依拠スルモノヲ一日モ早ク拵ヘ」ることが望ましい、と主張 し、その立場から「六国史ノ後ヲ承ケル」ことが望ましい、と主張している(454)。ただし山田は、
『日本書紀』と『大日本史』の差異、すなわち『日本書紀』が神功皇后を一代として扱っているこ とと、弘文天皇(大友皇子)の即位を認めていないことを挙げて、多少の留保をつけている(455)。 ところが、これではいくつか不都合が生じることになる。まず第一の問題は、御沙汰書に基づく 歴史書としてはすでに『大日本史料』の編纂が行われており、これと重複することになるのではな いか、という点である。たとえば平泉澄は、『大日本史料』は「明治天皇ノ御沙汰ニ基イテ起リマ シテ、七十年ノ間国家ノ多大ノ経費ヲ以テ、又幾多ノ学者ガ心血ヲ注イデ編纂シ来リマシタ所ノ大 日本史料ヲ除外視シマシテ考ヘルト云フコトハ私ハ穏カデナイヤウニ思フノデアリマス」(456)と 述べ、『大日本史料』こそが明治天皇宸翰に基づく修史事業であるとしている。また龍肅も、『大 日本史料』は「体裁ハ六国史トハ大イニ違ツテ」いるし、「無論勅撰デモ何デモ」ない、と断りつ つも、『大日本史料』は明治天皇宸翰に基づいたものであり、「六国史ト同様ノ性質ヲ持ツテ居ルモ ノ」としている(457)。また辻善之助や矢野仁一も同趣旨の発言を行っている。