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社会経済史的叙述の意義

第 4 章 『国史概説』の歴史像 67

4.4 社会経済史的叙述の意義

 ところで、先述したように、同書には多量の社会経済史的・文化史的叙述が含まれており、同時 代の歴史教科書などと比較して際立った特徴をなしている。

 同書のこのような性格について、土屋喬雄は戦後早くに「神がかり的な政治・戦争中心の立場に よる叙述に、あたかも木に竹をついだように、文化現象、経済現象の記述をつぎ合せた体裁をなし ているにすぎない」(355)と批判している。しかし実際には、同書は社会経済的要因が歴史にある程 度影響を与えていることを認めている。

 このことは、同書が採用している時代区分(表

4.2)からうかがうことができる。たとえば、中

世と近世とを分かつ根拠は、「複雑なる土地領有関係」が克服されて「整備せる封建制度」が成立 し、それとともに「士・農・工・商等」の身分秩序が成立した(下巻1–2頁)ことに求められている。

そもそも、上世(古代)・中世・近世という時代区分自体、もともとヨーロッパ史における

ancient,

medieval(Middle Ages), modern

の三時代区分法を、20世紀初頭に福田徳三・中田薫・内田銀 藏・原勝郎らが社会経済・法制・文化史等の見地より日本に適用したものである(357)。また「大化

改新」と「建武中興」という国体論的に重視される事件は、いずれも時代区分の上では重要な節目 とは見なされていない。したがって、このような時代区分を採用したこと自体、同書が社会経済的 要因を重視していることを示している。

 なお、『国史概説』に先行する文章ではあるが、文部省図書監修官の中村一良は、「上代・中世・

近世・最近世」や「上古・中古・近古・近世・最近世」のような時代区分法について、「西洋にお ける歴史の時代の模倣となし、之を退けようとする論者もないではないが、すでに古くから我が国 にこれに類した時代区分の観念が存するのであり、その時代の内容が日本的に充たされるならば、

華夷内外の辨が立つ」として、「用ひて差支なからう」として弁護している(358)

 また永原慶二は、同書を「民衆への言及は極端に限定的であ」り、特に「民衆の集団行動やそれ を支持する思想はほとんど無視するという手法がえらばれて」いる、と批判している(359)。しか し、例えば「労働運動や小作争議」の記述がないというのは事実誤認で、第一次世界大戦後の不況 下で「農村に於いては小作争議、都市に於いては労働争議が頻発」したことは明記されている。む しろここで注意すべきなのは、これは欧米思想が「殆ど無批判に我が国に取り入れられ」た結果だ とされていることと、「国民精神作興に関する詔書」により、国民は「聖慮の程に感激し、上下一 体と」なったとされ、多少の社会不安はあろうとも、最終的には天皇のもとに国民が一体となるこ とが国民本来の姿である、とされていることである(下巻517–519頁)

 このように、同書では民衆の存在は軽視されているわけではなく、むしろ随所で天皇や国家に とって都合の良い民衆像が強調されている。例えば、国民が深い「敬神の念」を抱いていたという ことは、文化史の項で通時代的に繰り返し強調されているし、また、庶民の海外進出については、

鎌倉時代には「庶民にして溌剌たる進取的精神に促されて宋に渡航するもの多く」(上巻329頁)、 また元冦に勝利して以後「国民は支那大陸との交通・貿易に関し、自主的進取的な精神を著しく展 開し」(上巻306頁)、さらに室町時代には「支那・朝鮮・南洋方面等の沿岸に航して交易に従ひ、

また時に勇猛当るべからざる勢を以て、抵抗者を蹴散らし、所在に威名を轟かした。彼地ではこれ を倭寇といひ、船を八幡船と称して大いに恐れ、私に貿易することを許さず、これを撃攘せんとし たが、何れもその効果は挙がらなかつた」(上巻426–427頁)としたりするなど高く評価されている。

つまり、民衆は完全な受け身の存在なのではなく、「国体」に反しない限りにおいては積極的に動 くべき存在とされているのである。

 それにしても、このように大量の社会経済史的叙述が含まれることになったのはなぜなのか。

 当時の歴史学界では、決して平泉澄のような国体論的歴史観のみがはびこっていたわけではな く、「実証研究が大きく変容し、伝統的な政治史中心の傾向に対し、テーマが多面化するとともに 内容も飛躍的に高度化」していた(360)。すなわち、戦時体制への突入にもかかわらず、高度な学問 的水準は維持され、発展し続けていたのである。教学局は、このような学問的発達を無視するので はなく、むしろ「国体」に抵触しない限りにおいて積極的に取り込もうとしていた、と考えるべき であろう。また、磯田一雄が指摘したように、総力戦を勝ち抜くためには「国体」観念を称揚する だけではなく、「冷厳な産業・経済の実態をみすえ」る必要があった(361)ということも考えに入れ る必要があろう。

 しかし、いずれにせよこのことは、「国体」に抵触しない限りにおいては、実証主義や社会経済 史なども十分に許容されるし、「皇国史観」とも決して矛盾するものではなかった、ということを 意味する。丸山眞男が喝破したように、「国体」は「無限定的な抱擁性」を持っており、「否定面に おいては つまりひとたび、

反國體と断ぜられた内外の敵に対しては きわめて明確峻烈な権力 体として作用するが、、

  積、

極面は茫洋とした厚い雲層に幾重にもつつまれ、容易にその核心を露わさ ない」(362)。したがって、「反国体」とされた唯物史観や天皇機関説、あるいは津田左右吉の学説 などは排除されても、「国体」に反しない限りにおいては十分な学術水準が維持し得たのである。

この点で、「皇国史観」は「国体」に抵触しない限りにおいては極めて曖昧かつ融通無碍な性格を 持っていたといえよう。

 そしてまたこれは、歴史学の立場よりすれば、その学術的成果が容易に「皇国史観」に取り込ま れてしまっていた、ということでもある。しばしば言われるような、「実証主義」を維持し続けた ことが、それだけで「皇国史観」に対する何らかの抵抗になり得ていた、というような認識(363)は 的外れであって、「国体」に抵触しない限り、それは特に抵抗とはなり得ていなかったのである。

 『国史概説』の社会経済史的叙述について、北山茂夫は、社会経済史学が「国体史観とさしたる 矛盾もなく同居しえたところに、わが国の社会経済史なるものの、ブルジョア自由主義的歴史学 としての不徹底があらわにされている」(364)と批判している。『国史概説』には、高度な学問的水 準を維持し続けてはいたものの、天皇・「国体」との対決を回避し続けてきたがゆえに「皇国史観」

に簡単に取り込まれてしまった、という近代日本の歴史学の問題が、端的な形で現れているといえ よう。