本論文は、金融革新が金融市場の参加者にどのようなインセンティブを 与え、金融取引機会や市場競争をどう変化させるのか、またどのような金 融システムが形成されるのかについて明らかにすることを目的とした。金 融革新とその一環をなす金融自由化、グローバル化が、株式市場、決済シ ステム、銀行市場、金融政策に与える影響に焦点をあて、ミクロ・マクロ データを分析することを通じて、それらの現状把握や決定要因の検証、政 策効果の検証をおこなった。
金融革新は、金融市場の参加者が旧来の規制や、情報の非対称性、取引 コストといった市場の不完全性から解放されるための行動として起きて きた。規制当局がそれに反応し、既存の規制の緩和や見直しをおこなうこ とにより、金融革新はさらに発展してきた。
1980
年代以降、金融革新が 急速に進んできた背景には、情報技術の進展、自由化やグローバル化が あった。自由化された日本の株式市場のもとで、多くの個人が投資家として市場 へアクセスすることが容易になった。しかしながら、すべての投資家が必 ずしも十分な情報を持って合理的な意思決定をおこなっているわけではな く、一部分の情報しか入手できずに、誤った解釈や間違った投資判断をお こなう投資家が存在する。そうした非合理的な市場参加者の行動が一定の 規則性をもって引き起こされる場合には、市場全体に影響を及ぼす要因と なりうる。政策目標として株式市場に個人投資家を呼び込んでいくなら ば、個人の投資に関する意思決定について正確な理解を深める必要があろ う。また金融の規制緩和、自由化によって日本の銀行業はその産業組織を 変化させた。この約
30
年間に銀行危機や銀行合併があり、貸出市場の競 争状態にも変化が起きてきた。地方銀行、信用金庫、信用組合とその業態 によって競争の水準の程度は違っているものの、長期的には銀行業の競争 は緩やかに改善してきており、自由化の成果が確認できる。今後は競争促進的な政策をとっていくことも必要であると考えられる。決済システムに おいても、電子マネーの導入は消費者の利便性を高める決済手段として普 及が進んでいる。今後、一般受容性やセキュリティ上の課題などが解決さ れていけば、現状よりも多額の決済に利用されるようになり、預金通貨を 中心とした現在のシステムを変化させることもあろう。グローバル化のも とで、各国経済は相互連関を強めており、経済政策の国際協調が進んでい くものと考えられる。政策の波及効果は国境を越えて他国の経済に影響を 及ぼしているが、金融あるいは財政政策の効果は国によって異なるため、
政策当局にとって政策規模の調整が難しいものとなっている。現在の金融 革新は、効率的で安定的な金融システムへの変化の過程であり、今後も、
技術革新や金融サービスへのニーズの多様化を反映しながら、構造変化を つづけていくと考えられる。
各章の分析と結果を示す。第
2
章は、2006
年に起きたライブドア・ショッ クが単に株式市場全体に影響を及ぼしただけでなく、投資家が「ヒューリ スティック」をもちいた投資の意思決定をおこなっていたために、ライブ ドアと類似する社名企業の株価に、もう一つの別のショックを与えていた ことを検証した。ライブドア・ショック時の日本の株式市場データを用い て、そのショックがライブドアと類似する社名企業の株価収益に与えた影 響を推定した。分析の結果、市場の平均的な企業に比べて、類似社名企 業には、ショック直後に統計的有意な超過収益率の下落が確認された。ラ イブドア・ショックは、関連会社や取引先を通じて株式市場全体に影響を 与えただけでなく、事業上関係のない類似社名企業にも影響を与えていた ことを示唆している。投資家は、通常であれば間違えそうもない判断を 時間的圧力の下では、Tversky and Kahneman (1974)
が定義した代表性 ヒューリスティックを用いて意思決定をおこなっていることを明らかにし ている。知る限りでは、株式市場における時間的圧力の効果を扱った分析 は存在しない。ライブドア・ショックは、この議論における自然実験の好 例となっている。第
3
章は、電子マネーが決済手段として普及していくか否かについて検 討している。He, Huang and Wright (2005)
のモデルを応用して、買い手 と売り手の視点から電子マネーと現金の競合関係について理論的に分析し た。分析では、電子マネーや現金について、取引費用と保有の安全性の違いを考慮し、経済主体による決済手段の選択を内生的に決定することを試 みた。その結果、決済手段として電子マネーと現金が共存する均衡の存在 とその条件が示された。さらに、電子マネーが単独で選択される均衡も存 在することを明らかにしている。また、決済手段の属性から生じる取引費 用や保有の安全性が、経済主体の意思決定にどのように影響を与えている のかを数値計算によって評価した。その結果として、買い手にとっての電 子マネーの取引費用が高まるほどに電子マネーが決済手段として選択され なくなる傾向が示された。また、盗難や遺失の生じる可能性が高まるほど に、電子マネーは現金よりも選択されやすくなることが示された。
第
4
章と5
章は、日本の地域金融市場の産業組織に関する研究である。第
4
章では、近年の産業組織論の研究で提案されている新しい競争度指 標を用いて地域金融市場の競争状態を検証した。本章ではBoone et al.
(2007)
によって提案された利潤の限界費用に関する弾力性(PE)
を競争度の指標に用いた。産業組織研究において競争度の指標として伝統的に用 いられてきたマーケット・シェアや価格費用マージン、
H
統計量は、市場 の競争条件の変化に対して単調に変化しないため、競争度の指標としては 適切ではない。それに対して、Boone
の一連の研究によってBoone
指標 はその変化を正確にとらえることができることを示している。1989
から2009
年の日本の銀行ミクロデータを用いて、地方銀行、信用金庫、信用組 合の競争度を検証した。結果として日本の地域金融市場は、長期的に競争 的になってきていることが分かった。本章ではこのような傾向が他の指標 でも見られるかどうか確認するために、同じ期間のサンプルを用いて伝統 的な競争度指標を推定した。ところが、これらの指標では逆に競争度が低 下する傾向が見られた。本章の推定期間は金融市場で様々な規制緩和がお こなわれた時期であり、直感的には、Boone
指標から得られる結果が現実 と整合的であると考えられる。5
章では、パネルデータを用いて、地域金 融市場の競争度の決定要因をパネルデータを用いて検証した。地域別に推定した
Boone
指標に対して、地域の銀行業の市場構造や異業種の競争圧力、金融市場の深化などの指標が、どのような影響を与えているのかを分 析した。結果からは、地域金融市場は、地域の金融深化や企業の商道徳の 水準が高いほどに競争的な市場となることが明らかとなった。また、集中 度や銀行数・支店数と競争度との相関は見られず、競合しているように見
える他の金融機関からの競争圧力の影響も確認できないことが示された。
第
6
章では2007
年以降の日本、アメリカ、イギリスの景気後退に対し て、それぞれの国の経済政策がどのような効果を持ち、どのように波及 したのかを検証した。2007
年第3
四半期の米国サブプライムローンの大 量のデフォルトに端を発した金融不安は、世界的にその影響を急速に深刻 化させた。金融危機対策で各国が協調する姿勢が打ち出され、積極的な 金融・財政政策がとられた。分析のために、VAR
を用いた動学予測の新 しい手法を提案した。この方法はVAR
の構造を仮定する必要がないため 扱い易く、極めて簡便かつ柔軟に政策の効果を検証することができる。分 析の結果、2007
年以降の財政政策は実質GDP
成長率にほとんど影響を 与えていないことが分かった。また、金融政策はどの国でもある程度効果 があったが、日本の金融政策はアメリカとイギリスにあまり波及していな かったことが明らかとなった。推定結果から見ると、2008
年10
月以降のG7
の政策協調は、それ自体に特別な効果がなかったか、あるいは効果が 国によって非対称であったため、評価は難しい。最後に本論文の分析で残されている課題について述べておく。第
2
章の 分析では、類似社名企業の標本数が少なかったことから、企業規模や業種 等で分類して比較するにはいたらなかった。今後、そうした企業の特徴を 十分に考慮した上で比較することも必要であろう。また日本の株式市場の 検証にとどまっているため、海外の株式市場においても同様の結果を得る ことができるかどうか検証が必要である。第3
章は、現金通貨以外の決 済手段について、電子マネーとの競合や代替関係を検討すべきであろう。特に、クレジットカードやデビットカードのような比較的大口の決済に用 いられる決済手段との属性の違いはどこにあるのか、そして電子マネーが 大口決済に用いられるようになるには、どのような制度設計が必要となる のかについて考えるべきかもしれない。また、種類の異なる電子マネー間 での競争の促進や統合がおこなわれた場合に、どのような電子マネーが残 るのか検証すべきである。一方で、電子マネーの理論的分析にとどまって いるため、データを用いた実証分析が必要である。第