第 6 章 光周波数コムに安定化した中赤外光源作成と分光への応用 99
6.2 光周波数コム安定化差周波分光計による CH 3 I 分子の分光
6.2.1 分光計の構成
光周波数コムに安定化した中赤外光源の線幅はやや広いが,この光源を用いてCH3I分 子ν1 バンドの超微細分裂を観測した.このとき,波長1.06µmレーザーの光周波数コム へのオフセットロックには,前章と同様に分周器とDBMを用いた.
図6.6 に図6.7 に分光計の構成を示す.前章ではCEACに中赤外光周波数を安定化し ていたが,本章では中赤外光の周波数は光周波数コムに安定化される.したがって,共振 器内で飽和吸収分光を行うためには,CEAC の共振器長を中赤外光周波数に安定化する 必要がある.共振器長の安定化には,これまでと同様にPDH法を用いた.誤差信号検出 およびフィードバック回路には前章と同じものを使用し,ECLDのPZTへフィードバッ クしていた端子をCEACのPZT1に,ECLDの注入電流(低速)へフィードバックして いた端子をCEACのPZT2にそれぞれフィードバックして共振器長の安定化を達成した.
CEAC内にCH3I分子を1.9 Pa封入し,透過信号を液体窒素冷却のInSbフォトダイオー
ドで検出した.
図6.6 実際に分光測定を行うときに用いた,中赤外光周波数を光周波数コムに安定 化するための装置構成図.OFC:光周波数コム,λ/2:1/2波長板,LPF: RFローパス フィルタ,BPF: RFバンドパスフィルタ,OBPF:光バンドパスフィルタ,GPS: global positioning system,TAI:国際原子時.PFC:デジタル位相周波数比較器,CS: current source,TEC:温度コントローラー.
6.2.2 測定手順
検出したCEAC からの透過光強度は,A/D ボード(Spectrum; M2i.4650-exp)を使っ てPCに取り込む.サンプリングレートは 3 MS/s,垂直分解能は16 bitで,ダイナミッ クレンジを広くした場合でも微小信号を量子化ノイズなく記録することができる.ch0に はCEACの透過光信号を,ch1にはPPLN直後で取り出した差周波光信号を送る.ファ イバーアンプの出力パワーが揺らぐため差周波光のパワーも長い時間スケールでドリフト する.これをキャンセルするためにPPLN直後の中赤外光強度をch1でモニターし,PC 内部でch0の信号レベルを規格化している.差周波光源の周波数掃引は,光周波数コム
図6.7 本章での分光計の構成.CEACの共振周波数が差周波光の周波数と一致するよ うに,PDH法で共振器長を制御している.ECLD:外部共振器型半導体レーザー,EOM:
電気光学変調器,FA:ファイバーアンプ,XO:水晶発振器,PPLN:周期分極ニオブ酸リ チウム,BP:ブリュースター板,CEAC:光共振器吸収セル,PZT:ピエゾ素子,OBPF:
光バンドパスフィルタ,I – V:トランスインピーダンスアンプ.
の繰り返し周波数frep を掃引して行った.A/D ボードとfrep を決めるシンセサイザー
(Anritsu; MG3633A)はともにPCで制御し,frepを設定すると同時に信号を取り込み,
スペクトルデータを取得した.frepの設定分解能は0.01 Hzでこれは差周波光の周波数に 換算して約14 kHzである.周波数の設定から透過光強度データ1点の取得開始までに掛 かる時間は最小7 ms程度で,これはシンセサイザーの発振周波数の設定に要する時間で 制限されている.frep のロックが外れないように,シンセサイザーの周波数掃引速度を
0.5 Hz/sと設定した.これは,中赤外光の周波数掃引速度約700 kHz/sに相当する.周波
数設定からデータ取り込み終了までの1サイクルあたりの所要時間は20 msで,この間に
A/Dボードで30000回サンプリングを行い,その平均値を透過光信号データ1点として
出力する.サンプリング回数は,データ転送によって1サイクルの所要時間が遅れない程 度に設定した.
6.2.3 分光計の評価
図6.8は,実際に測定した CH3I分子の ν1 バンドP(J = 26, K = 1)遷移のスペクト ルである.周波数掃引は20回行い,得られたスペクトルデータを平均した.所要時間は 約4分間であったが,この間に周波数ドリフトはなくスペクトル線幅の増加はなかった.
Lambディップの S/Nは20程度である.平均回数がN 倍になると標準偏差は1/√ N 倍 になる.4章で変調分光を行った時のS/Nが4回平均で5 – 10程度だったので,平均回 数が増えた分だけS/Nが向上した.光源の周波数ドリフトがほとんどないので,平均回数 を増やせばさらにS/Nを改善できる.飽和吸収スペクトルの半値半幅はfrep で0.24 Hz で,これは中赤外光では330 kHzに対応する.4章でのスペクトル分解能に比べてやや大 きいのは,光源の線幅が広くなったためである.
図6.8 光周波数コムに安定化した中赤外光源を使って測定したCH3I分子のν1バン ドP(J = 26, K = 1)遷移の飽和吸収スペクトル.横軸はfrepである.線スペクトル は,電気四重極相互作用から計算した超微細成分のスペクトルを示す.
6.2.4 今後の課題と展望
■中赤外光の線幅 現段階では,中赤外光源の線幅が光周波数コムのCEO周波数の線幅 で制限されて100 kHz以上ある.これは,線幅50 kHz以下のフリーランの中赤外光源の よりも悪く,分子の吸収スペクトルの分解能が低下する.これを解決するための案を2つ 挙げる.
案1: 波長 1.06µmレーザーをNd:YAGレーザーから高速制御が可能なECLDに交換 する.波長1.06µm帯では,Nd:YAGレーザーの代替としての高性能半導体レーザーの 開発が進んでおり,高出力かつ狭線幅のECLDも入手できる.これを波長1.55µmレー ザーと同様にして光周波数コムに完全に位相同期することで,差周波発生によるfCEO の ノイズキャンセルが実現できる可能性がある.
案2: 光周波数コムのfCEOを狭線幅化し,コムに位相同期した波長1.55 µmのECLD も狭線幅化する.波長1.06µmのNd:YAGレーザーも線幅を増大させることなく光周波 数コムに位相同期できるので,差周波発生で得られる中赤外光も狭線幅化する.差周波 発生を使う場合には光周波数コムのCEO周波数を制御する必要がないという利点がある が,本案では狭線幅の中赤外光を得るためにこの利点が失われる.
■中赤外光周波数の設定分解能 中赤外光周波数の制御可能な最小周波数は,frepを制御 するシンセサイザー(Anritsu; MG3633A)の設定分解能0.01 Hzで制限されて約14 kHz である.これを10倍の精度で制御するためには,設定分解能が0.001 Hz のシンセサイ ザーを導入するか,シンセサイザーの発振周波数を10frep にして10分周器でfrep にダ ウンコンバートする方法がある.
■波長計の較正 現段階では,取得したスペクトルデータの横軸はfrepである.これを 中赤外光周波数に換算するためには2つのレーザーが位相同期している光周波数コムの モード指数n1.06µmとn1.55µmをそれぞれ決定しなければならない.前章のメタン分子の 周波数測定ではHITRANデータベースが利用できたため,n1.06µm,n1.55µmを決定せず に周波数を測定できたが,一般にはこの方法はとれない.
n1.06µm,n1.55µm は,光周波数コムと位相同期したCWレーザーの周波数を波長計を
使って決定できる.しかし,本研究で使用している光周波数コムのfrep が約65 MHzで あるため,モード指数を誤りなく決定するためには波長計の測定不確かさがfrep/2 ≈32 MHz以下でなければならない.高精度な波長計の精度は,較正波長周辺で20 MHz程度 である.多くの波長計は波長1.55µmで較正されているため,n1.06µmを誤りなく決定す
るためには波長計を較正しなければならない.具体的には以下の手順で行う.
まず,前章と同様の方法でメタン分子のP(7)F2(2) 遷移に光源を安定化し,光周波数コ ムのモード数間隔∆nを決定する.同時に,波長1.55µmレーザーの周波数を波長計で測 定してn1.55µmを決定する.このとき,n1.06µm = ∆n+n1.55µm と決定できるので,波 長1.06 µmレーザーの周波数を(2.91)式から決定できる.これと,波長計で測定した波 長1.06µmレーザーの周波数を比較して波長計を較正する.
■中赤外光の出力パワー揺らぎ 本章では,PPLN直後の中赤外光の一部を取り出して出 力パワーをモニターして透過光信号の揺らぎを補正した.この操作によって揺らぎは1/5 程度に抑えられたが,これもパワーをモニターしている検出器のオフセット電流の揺らぎ で制限される.パワー揺らぎによるスペクトルへの影響を低減するための案を挙げる.
案1: 中赤外光を周波数変調し,変調分光を行う.出力パワー揺らぎは長い時間スケー ルで生じる現象なので,周波数変調分光を行うことでその影響を低減できる.PDH法の
ために10 MHzで位相変調しているEOMに,さらに3 kHz程度の位相変調を加え,透過
光信号を1f 検出する.本章では光源周波数にCEACの共振器長を安定化しているため,
共振器長変調用PZTの応答速度で制限されるCEACの制御帯域を考慮する必要がある.
案2: 中赤外光の周波数掃引に音響光学変調器(AOM: acousto-optic modulator)を使用 する.AOMによる周波数掃引は,超高安定光共振器や光周波数コムに安定化した光源の 周波数掃引手段として,光格子時計の時計遷移周波数測定[64]や水素原子の1S–2S 遷移 周波数測定[60]などで使われている.変調信号の振幅を変えることで出力光パワーを制 御し,速い周波数掃引によってパワー揺らぎの影響を抑えることができる.また,周波数 変調も可能なので,変調分光を行うことでさらなるS/Nの向上が期待できる.