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第3章 バーンスティン理論の展開と知識社会学・主体化論の収斂

第Ⅰ部 結論:

<教育>言説

ペダゴジック・ディスコース

論の「再文脈化」

―言説の構造化理論へ向けて―

知識社会学の系譜のバーンスティン理論への収斂

これまでバーンスティン理論の展開過程、すなわち初期の言語コード理論から晩年の<教育>言説ペダゴジック・ディスコース

論までの展開を概観してきた。第1章および第2章では、知識社会学・イデオロギー論、そして言説 分析理論の展開が、どのようにバーンスティン理論へと収斂されるのかについて合わせて論じてきた が、以下ではこれまでの議論をふりかえり、最後に、バーンスティン理論を「言説の構造化」理論と して読み直す、すなわち、「再文脈化」する作業へと歩みを進めたい。

まず、第1章で考察した知識社会学からバーンスティン理論への収斂に関する論点を整理すると、

以下の表のようになるだろう。

表第Ⅰ部結論―1 バーンスティン理論への収斂Ⅰ:知識社会学の系譜

論者名 各論者の理論的エッセンスおよび課題 各論者の理論的エッセンスを収斂させる バーンスティンの概念 É・デュルケム エッセンス:労働の社会的分業

課題:カテゴリーの社会的起源の不分明 知識のカテゴリー化・類別/枠づけ K・マルクス

エッセンス:階級(社会的存在/生産諸関係)と 意識との対応関係

課題:意識と社会的存在の対応関係の固定的性格

支配的な文化的カテゴリーとしての階級

K・マンハイム

エッセンス:意識と社会的存在の個別的・具体的・

経験的対応関係

課題:思想史・精神史としての知識の偏重的扱い

垂直的言説・水平的言説 P・L・バーガー

T・ルックマン

エッセンス:外在化・対象化・正当化・内在化 課題:相互作用的における伝達者・獲得者間の ヒエラルキーの概念化/日常的知識の偏重的扱い

<教育>装置/枠づけ/水平的言説

デュルケムは、「カテゴリー」の社会的統合機能について論じたが、その社会的起源についての議 論を必ずしも十分に行ったわけではない。バーンスティンは、自らそう明言しているようにデュルケ ミアンであり(Bernstein, 1975, p.7)、デュルケムの基本的考え方を引き継いでいるが、それが明示的 に現れている概念のひとつが「類別」の概念である。この「類別」概念によってバーンスティンは、

デュルケムが『社会分業論』において展開した労働の社会的分業の考え方と、『宗教生活の原初形態』・

『分類の未開形態』において提示した「カテゴリー」の社会的起源の問題とを統合することに成功し ている。というのも、すでにみたように「類別」は職業カテゴリーの差異のシステム、つまり、労働 の社会的分業をその源泉とし、階級諸関係の葛藤を通じて生じる「カテゴリー」として概念化されて いるからである。

次に、マルクス理論の収斂についてみてみよう。マルクスによって提示された視点は、社会的存在 (階級諸関係)と意識の対応関係」という定式化であった。この点に関して、バーンスティンは基本的 な分析単位を生産カテゴリー(職業カテゴリー)においていることから、基本的にはマルクスの階級概 念を引き継いでいるといえる。マルクスが「社会の類別と枠づけの構造に、権力分配と社会統制原理 の両方が現れ出ていることを我々に示した」(Bernstein, 1975, p.86)とバーンスティンが述べているこ とからもわかるように、「類別」・「枠づけ」の概念は、マルクス理論をバーンスティン理論へと収斂さ せるものとみることができる。すなわち、階級ごとのカテゴリー関係=階級的ヒエラルキーが実現さ

れるためには、支配階級が被支配階級を統制する必要性があるが、バーンスティンは、デュルケム 理論のみならず、マルクスによるこのような定式化からマクロレベルでの「類別」・「枠づけ」の議論 を引き出し、自らの理論へと統合させたのだといえる。

続いて、マンハイム理論の収斂について。マンハイム理論の検討から抽出されたのは、―バーガ ーらが批判したように―彼が思想史・精神史としての知識を偏重的に取り扱ったという問題であっ た。もっとも、このようなマンハイム理論の解釈はやや一面的なものであり、実際、バーガーらによ ってなされた、マンハイムらヨーロッパ種の知識社会学が理念史・精神史的レベルの「知識」のみを 分析対象と位置づけているとする批判は、必ずしも妥当ではないとする論者も存在する。例えば、秋 元らは、マンハイムが①「存在拘束的思考」の領域として「歴史的思考(人が歴史を思い浮かべる、ま たそれを他者のために描き出す種類と仕方)、政治的視思考、精神科学・社会科学における思考、日常 生活における思考」をあげていること、また、②理論的思考はそれじたい、先理論的な、日常的な思 考のうちにすでにあらわれてきているものが、よりつきつめられ、考えぬかれた結果生じてくるもの にすぎないという指摘をおこなっていることをあげ、マンハイムの知識社会学において日常的知識が 分析対象から除外されているとはいいきれないとしている(秋元・澤井 1992、97-8頁)。

第1章でみたように、マンハイムの知識社会学がマルクス主義的なイデオロギー論の克服にあり、

知識と社会的存在との単純な対応関係という見方を拒否することがその理論的営為の始点のひとつと なっていたことをふまえれば、マンハイムをインテリゲンチャの知識(垂直的言説)を偏重的に扱った 論者としてみなすことは妥当性を欠いている。固定化されない、個々の具体的な社会的文脈に応じた 知識と社会的存在(知識の存在基盤)との対応関係が生じるさまを、具体的かつ経験的に把握するため の理論的基盤を提供したという点において、マンハイムはむしろ評価されるべきであろう。言い換え れば、マンハイムは、日常的知識とアカデミックな知識の差異に自覚的であり、それぞれの知識に、

多様な社会的存在との対応関係がありうるということにその議論の主眼を置いていたのであり、マン ハイム理論がバーンスティン理論へと収斂されうるのは、まさにこの点においてなのである。バーン スティンもまた、「垂直的/水平的言説」の概念化によって、言説のあり方と社会的存在の、さまざまな 対応関係を把握するための理論的基盤を開示している。マンハイムによる知識の存在基盤をめぐる議 論が、バーンスティン理論においても同様に扱われていることがここで確認できよう。

最後に、バーガーとルックマンによる「現実の社会的構成」理論の収斂についてみていこう。バー ガーらの提示した「外在化」・「対象化」・「正当化」・「内在化」の諸過程は、<教育>装置ペダゴジック・ディヴァイス

の概念へと 収斂されうる。というのは、「現実の社会的構築」理論がそうであるように<教育>装置ペダゴジック・ディヴァイス

もまた、知識 (の具現化形態としての言説)が選択的に配分・正当化され(配分/再文脈化の諸規則)、それが諸個人の 意識として「内面化」(評価の諸規則)されるのかを記述するからである。

とはいえ、ハミルトンが指摘するように、バーガーらの理論においては、「現実の社会的構築」にい たる諸過程が社会諸集団間の利害に関連付けられていない(Hamilton, 1974, p.139)。つまり、バーン スティンの<教育>装置ペダゴジック・ディヴァイス

が、社会集団間の葛藤を通じて知識(言説)が選択的に配分・正当化されると いう視点を導入し、マクロレベルからミクロベルへの知識(言説)の転換を一貫した枠組みにおいて記 述するのに対し、バーガーらの現実の社会的構築理論では、もっぱらミクロレベル、すなわち個人レ ベルでの「外在化」・「対象化」・「正当化」・「内在化」過程に焦点が当てられているという点において、

両者には違いがある。

次に、バーガーらの知識社会学においては、マンハイムとはむしろ逆に、日常的知識が偏重的に扱 われている。バーガーらは、「知識社会学は、思想の歴史や哲学の歴史のように理論的な意識の分析を 第一の関心事にしてはならないのであって、一般の人々が普通の生活を送っている場合の意識に関心 を寄せなくてはならない」(Berger&Berger&Kellner訳書 1973 =1977、11頁)という。こうしたバ ーガーらのスタンスは、バーンスティン理論における水平的言説の概念へと収斂されうる。なぜなら、

バーンスティンは日常的知識を具現化する言説として水平的言説を位置づけ、この言説の獲得に伴い

生起する固有の実践のあり方について論じているからだ(第Ⅰ部第3章)。とはいえ、これまでの理論 的検討から導き出されるように―このことは同時にマンハイムの知識社会学にも当てはまること だが―どのような知識/言説類型に分析の比重が置かれるべきなのかということが議論の焦点と されるべきではない。あらゆる知識/言説は、つねに誰かに引用され、再領有されるという「再文脈 化」の視点をふまえるならば、どのような言説が正当化され「厚み」を有していくのかということが 問われるべきである。

さらにもう一点、バーガーらの知識社会学には、バーンスティン理論によって補完される論点が ある。それは、相互作用的場面における伝達者・獲得者のヒエラルキーをめぐる問題である。第1章 で確認したように、バーガーらは「外在化」・「対象化」・「正当化」・「内在化」は、諸個人間の相互作 用を通じて可能になるとしている。すなわち、彼らは知識の伝達・獲得の視点を自らの分析枠組みに 導入している。しかしながら、バーガーらは、相互作用過程における諸個人間の社会的関係、換言す れば、諸個人間のヒエラルキー=統制的関係を見逃している。学校内における教授伝達場面のみなら ず、日常的に営まれる知識の伝達場面(たとえば、企業における上司と部下の関係や、医師と患者、友 人・恋人同士の関係など)を想起してみよう。そこには、伝達者と獲得者のヒエラルキー―明示的で あれ、暗示的であれ―を基盤とした相互作用的関係、すなわち、<教育>的ペ ダ ゴ ジ ッ ク

関係が存在しているこ とがわかる。知識は、常に不均衡な社会関係=コミュニケーションを通じて具現化されるのであり、

バーンスティンはこの点に着目し、それを枠づけの値の強弱、すなわち、「見える<教育ペダゴジー>(+F)/見 えない<教育ペダゴジー>(-F)」という概念で把握している。

以上、主な知識社会学理論の難点・課題が、「言語コード」理論から<教育>言説ペダゴジック・ディスコース

論への展開過程の なかでバーンスティンが生み出してきた諸概念へと収斂されうることが確認された。もっとも、バー ンスティン自身、このような収斂を意図していたわけではない。バーンスティンは、独自の分析枠組 みを構築することに主眼を置いていたのであり、本論での試みは、アルチュセールの言葉を借りるな らば、バーンスティン理論の「徴候的読解」として位置づけられるのではないだろうか。言い換えれ ば、本論では、知識社会学諸理論とバーンスティン理論との対照化を通じて、バーンスティン自身が 意識化することのなかった理論的ポテンシャルを発掘し、知識社会学上の諸論点を収斂しうるものと しての、バーンスティン理論の可能性を読み込む作業を行ったということになるだろう。

主体化論の系譜からのバーンスティン理論への収斂

次に、バーンスティン理論が、イデオロギーを通じた主体化をめぐる議論(アルチュセール)、そし て言説を通じた主体化をめぐる議論(フーコー)の系譜を収斂する可能性についてみていこう。

本論で取り上げた主体化論の諸論者には通底する概念的枠組みをみいだすことが可能である。それ ぞれの論者が異なった対象を扱いながら、実は極めて似通った分析枠組みを提示している。以下の表 は、本論で取り上げた、イデオロギー的主体化論および言説的主体化論とバーンスティン理論とを対比し整 理したものである。

表第Ⅰ部結論―2 バーンスティン理論への収斂Ⅱ:イデオロギー的・言説的主体化論の系譜

論者名 権力の源泉 権力の媒介 権力の具現化装置

L・アルチュセール 階級闘争 イデオロギーとその国家装置 呼びかけ―応答

M・フーコー 個々人の戦略的状況 言説・知 知ることを通じた主体化=従属化

B・バーンスティン 階級・社会諸集団間の差異 コード・<教育>言説・<教育>

装置 <教育>実践・相互作用

まず、アルチュセールは資本主義体制下における階級闘争を「権力 power/pouvoir」の源泉とし てみている。そして、階級闘争によって生起する権力諸関係を反映する「イデオロギー」を、諸個人を

ドキュメント内 kyoiku gensetsu to shutaika : hakushi gakui seikyu ronbun (ページ 73-79)