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:実証的検討②

ドキュメント内 kyoiku gensetsu to shutaika : hakushi gakui seikyu ronbun (ページ 142-151)

第 3 章 父親をめぐる<教育

第Ⅲ部 :実証的検討②

<ロンリネス>生成装置としての青年雑誌メディア

―現代青年の社会化課題の変容―

序論 問題としての現代青年の<教育

ペダゴジー

>をめぐる言説

人間の成長はいわば終わりなき旅のようなものであり、最終的なゴールはない。とはいえ、成長段 階に応じて達成すべき課題というものは存在する。以下の表序-1は、社会学的視点から青少年期の 移行区分を整理したものである。

表序-1 社会学的視点に基づく青少年期の移行区分

年齢段階 ~9・10歳 10~15歳 14~20歳 21~25歳 25~30歳 30歳~

戦前期 幼年期 少年期 青年・青春期 ヤング・アダルト期

(若い成人期)

フル・アダルト (成人期) 戦後期 幼年期 少年期 青年・青春期 ユース期 ヤング・アダルト期

(若い成人期)

フル・アダルト (成人期) 役割 役割免除期 役割拘束期 役割猶予期 役割遂行期

*柴野(1990)『現代の青少年』30頁をもとに、筆者作成。

青年期はしばしば「疾風怒涛」の時代であるといわれ、思春期から青年期、そして「成人期」への 移行期を含む、アイデンティティ、すなわち、自分が自分であるという感覚が絶えず揺らぎにさらさ れる不安的な時期である。思春期から青年期にかけては、自己とは何かという社会から切り離された 本源的存在としての自己と、社会から要求される役割体系への従属というふたつの異なった要素の間 で引き裂かれる。

英語で青年、青年期、または若者を意味する言葉には、「アドレスセンスadolescence」と「ユース youth」の二つがある。アドレスセンスは、青春とか青春期という意味を含んでおり、子どもから大 人への移行期をさすが、思春期を経て最も青年らしい時期に入っていく過程の「若い青年」というニ ュアンスが強い(柴野 1990、49頁)。これに対して、「ユース」は「アドレスセンス」よりもいくぶん

「おとなびた青年」を指す。つまり、「ユース」は青春期、ヤングアダルト期のどちらの概念によって もとらえることができない独特の段階であり、大人びてはいても、アイデンティティの形成や社会的 位置の確立などの課題は抱えたままであって、「まだ十分なおとなではない」(前掲同書、50頁)。

明治期以前においては、若者組というヴォランタリーな組織が存在し、若者組に属している期間が

「青年期」であるという暗黙の了解があった。しかし、明治期以降になると、学校文化が優位性を持 つようになり、土着的民俗に依拠するとみなされた「若者組」は、次第に「青年会」に改組されてい った(柴野 1990、51頁)。「青年(期)」は、社会の近代化の産物であり、その存在様式の成立と普及は、

伝統的な若者らしさの駆逐を伴っていたのである(北村 1997、275頁)。

明治期において、男子では平均して15歳から23歳までの結婚するまでの期間が、また、女子では娘 宿や寝宿への出入りが許される13歳から婚姻年齢である17・18歳ぐらいまでの期間が青年期であった。

やがて就学率の上昇や在学年限の増加にともない、青年期は延長されていく。1940(昭和15)年では、

学校を卒業してから結婚するまでの青年期の長さは、男子で約15年、女子で6.3年となっており、明 治期と比較して、青年期がさらに伸びている。さらに、戦後の1985(昭和60)年になると、学校を卒業 するときの年齢が高くなり、女子で18.5歳となり、昭和15年の時点よりも約四年間長くなっている(柴

野 1990、55頁)。

青年期の延長は80年代以降も進行し続けているが、こうした状況は単に青年期の長期化のみならず、

青年期から成人期への移行がかつてよりもスムーズにいかなくなるという事態を含んでいる。現代社 会においては、発達加速現象または成熟前傾現象などによって青年期への進入が早くなると同時に、

役割猶予の期間が長くなって、成人期へ移行する時期はおそくなる傾向にあり、現代社会において青 年期は長期化しつつある(前掲同書、28頁)。

こうした動向をうけて、青年期から成人期への移行が困難となり、大人になることの意味さえも不 確かとなっている青年期と成人期の間に出現した移行期を把握するために、「ポスト青年期」という概 念が措定されている(宮本、2004、247頁)。青年期の後に来る「ユース期」、特に「ヤング・アダルト 期」の延長という事象をふまえ、青年期を「ポスト青年期(後期青年期)」を含めた長いスパンにある ものとして、より包括的にとらえるべきであるとする議論が一般的なものになりつつある。

今日、戦前期においては比較的明瞭であった「青年・青春期」と「成人期」の境界線はかつてない ほどに揺らぎ、曖昧なものとなっている。いわば、現代の青年たちのアイデンティティは「異様に未 確定peculiarly open」であり、「成人期に達しても妙に「未完成」なのである」(Berger & Berger &

Kellner訳書 1973=1977、86頁)。こうした一連の議論をふまえ、今日において青年期は、おおむね 17・18歳から35歳に亘る、長期間の社会化過程として捉え直される必要がある。

青年期の社会化課題としての恋愛

青年期は、自分の生まれた家族から独立するとともに、異性との間の性的愛着を強めていく時期で あり、性的にも社会的にも成熟するということ、さらに今までの一次的社会化によって形成されたも のを自分なりに再編成し、アイデンティティを獲得するという「再生」の課題がまちかまえている時 期である(柴野 1990、21頁)。

青年期とは、新しい家族を創り、新たな準拠集団に帰属する成人期を迎える前の不安定な時期であ るが、エリクソン(Erikson,E.H.)によれば、青年期においてはとりわけ性役割の確立が重要な社会化 課題となる。

かれらが、時々は病的に、そしてしばしば奇妙なくらいに心を奪われているのは、自分が感じる自分の姿よりは、他人 の眼に写った自分の姿であり、また、かつて習得した役割や技能と、その時代の理想像とをいかにして結びつけるかと いう問題である。かれらは、新たな連続性感や同一性感を探究するが、それはいまや、性的成熟をそのなかに包摂して いるものでなければならない。(Erikson訳書 19681973167)

エリクソンは青年期に生じる葛藤をとくに「アイデンティティの危機」と呼んだ(Erikson, 1968)。

青年期の終わりに生じる「成人期という未来に向けて繰り広げられる特有の心理・社会的葛藤」とし ての「アイデンティティ危機」 (豊泉 1998、9頁)をいかに乗り越えるかという問題は、青年の頭を悩 まし続けてきた。

人間の成長過程において、自分自身の存在を「意味あるもの」として意味づける「重要な他者 siginificant others」―成長過程においてそれは次々と変化する―の存在を欠くことはできない。

幼少期の母親・父親、ギャング・エイジの仲間集団などを経て、青年期においては「恋人」が重要な 他者となる。「自己の存在感を感じる時」とは、「相思相愛の恋におち入っている時」であり(朝倉 1987、114頁)、恋人にその存在を承認されて初めて、自らのアイデンティティを確立することができ る。しかし、他者(異性)からの承認を得られない場合には、その青年のアイデンティティ形成は困難に直面 する。

青年期における恋愛は、「拡散した自己像を恋人に投射することにより、そして、それが反射され、徐々 に明確化されるのを見ることによって、自分のアイデンティティを定義づけようという一つの試み」

(Erikson訳書 1968=1973、173頁)である。この「試み」の成否、すなわち、青年期において異性を

通じて自分自身という存在の肯定感を得ることができるか否かは、青年期の後に来る比較的長期にわ たる成人期のアイデンティティ形成にも影響を及ぼす。家族の形成は成人期の重要な達成課題である が、夫婦の絆がロマンティック・ラヴによって支えられる近代家族のパラダイムのうちにある以上、

その成否は理想とする恋人に出会い、相互に承認し合うことができるかどうかに左右される。「重要な 他者sigificant others」としての恋人に出会い、恋愛を通じて自己の存在意義を確認していくことが、

青年期における主要な社会化課題となるがゆえに、自分という存在を承認する他者、とくに、他者と しての恋人の不在―社会化の失敗―は、青年に否応無く「孤独」という感情を生起させていく。

孤独の諸相―「ロンリネス」と「ソリテュード」―

人間がつねに自分以外の他者と交わる社会的存在である以上、それが逃避の対象としての「孤独」

であれ、積極的受容の対象としてのそれであれ、人間はつねに孤独と向き合わねばならない存在であ るという宿命を背負っている。母親の不在、父親の不在、友人の不在、そして、愛する人の不在によ って生じる「孤独」。あるいは、他者は存在しているにもかかわらず、必要とする他者からの承認や理 解を得ることができないときに、否応なく生起する「孤独」。人間の生涯は、「孤独」や「喪失感」に 向き合わざるを得ない瞬間の連続である。

孤独は、つねに社会的なものである。仮にその生命が維持されていても、社会から、あるいは周囲 の人々からその存在を忘れ去られているとき、その忘れ去られている人間は、死を宣告されているに 等しい(清水、1999)。誰からもまなざされない、あるいは誰からもその存在を認知されないことによ って生じる「孤独」とは、いわば「社会的な死」であり、そうであるがゆえに、この「孤独」から逃 れるために、人間は絶えずもがき苦しんでいる。あるいはむしろ逆に、出家や隠遁といった形で、周 囲の人間のまなざしから逃避するために、「社会的な死」としての「孤独」を主体的・積極的に受け入 れることもあるだろう。

英語圏においては「孤独感」を意味する言葉として「ロンリネスloneliness」と「ソリテュード solitude」が存在する。英英辞書を紐解くと、lonelinessの項には「話しかける友人や人々がいないの でみじめであるunhappy because you have no friends or people to talk to」・「悲しく、ひとり過ごさ ざるをえない(状況や一区切りの時間)(of a situation or period of time) sad and spent alone」とあり、

また、solitudeの項には「ひとりでいる状態、とくにこの状態に心地よさをみいだしている時the state of being alone, especially when you find this pleasant」(Wehmeier et al. ed., 2005)とある。

「ロンリネス」には「仲間や連れがなく一人ぼっちで寂しい」というネガティヴなニュアンスが強 く含まれる。これに対し、「ソリテュード」は「(世間を離れて)ひとりぼっちでいること」「ひとりで 孤独に暮らす」を意味するだけでなく、そこには「自ら積極的に選び取るもの」としての「孤独」と いう、ポジティヴなニュアンスが付加されている。例えば、以下でショーペンハウアー(Schopenhauer, Arthur)が述べる「孤独」は、本論において区別する「積極的に自ら選び取るもの」としての「孤独」、 すなわち、「ソリテュード」に相当する。

若者はその主たる学問として、孤独に耐えることを学ぶべきである

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Ein Hauptstudium der Jugend sollte seyn, die Einsamkeit ertragen zu lernen。それこそが幸福と心の平穏のみなもとだからである。―すべてこれらのことからいえ るのは、ただおのれ自身だけにたより、おのれ自身がすべてのもののなかのすべてでありうるものが、もっともすぐれ たものであるということだ。(Schopenhauer訳書 1851=1996、145頁)

ここでショーペンハウアーのいう「孤独」とは、諸個人の内面に存在しているものであり、それに 向き合い耐えることを若者が学ぶことによって、その後の人生における「幸福と心の平穏」に繋がっ ていくというのである。ここでは、「孤独」の受容に肯定的・積極的な意味が付与されている。「孤独感」

を感じること、それは喪失や不在の体験であり、それは苦痛を伴うものである。しかし、同時にそれ

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