ペダゴジー
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本章では、明治期から昭和戦前・戦中期にいたるまで、育児(婦人)雑誌上において育児エージェン トの「主体化」をめぐって、どのような言説が生産されてきたのかについて検討していく。そのさい、
本章では分析対象として『家庭雑誌』・『婦人界』・『婦人世界』・『育児雑誌』・『主婦之友』の5誌を取 り上げる。
『家庭雑誌』・『育児雑誌』を取り上げるのは、『家庭雑誌』(1896〔明治29〕年1月~1897〔明治 31〕年8月、家庭雑誌社)が日本で最初にその誌名に「家庭」の文字を冠した雑誌であること、『育児 雑誌』が大正中期(1920〔大正 9〕年)に登場した日本で最初に育児の領域に特化した雑誌であること がその理由である。
ただし、『家庭雑誌』・『育児雑誌』については、その発行部数が不明であり、その発行・流通規模の 観点からすれば、これら2誌上の言説が、当時の社会にあってどれだけの影響力を持ちえたのかとい う点では疑問が残る。そこで、本章ではこれら三誌に加えて、その言説が社会に広範囲に流通したと 考えられる『主婦之友』・『婦人界』・『婦人世界』を併せて取り上げる。大正後期にあって、『主婦之友』
は、全婦人雑誌中の首位を占めて23~4万部のシェアを獲得し(昭和4年:43万部、昭和6年:60万 部)、『婦女界』は21万部(昭和4年・6年ともに35万部)、『婦人世界』は17~18万部(昭和4年:17 万部、昭和6年:12万部)のシェアを占めており(前田 1993、216-217頁/永嶺 1997、84頁)、加 えて『婦女界』・『婦人世界』の2誌は、いずれもその発刊期間が明治期から昭和戦前・戦中期にわた っていることから、これら3誌は大正後期以降の代表的婦人雑誌であるといえる。本章で取り上げる、
戦前期の雑誌の発行期間・発行部数についてまとめると、以下の表のようになる。
表1-(1)-1 分析対象雑誌の発行期間および発行部数
明治期 大正期 昭和戦前・戦中期
『家庭雑誌』明治29→31年(発行部数不明)
『婦人世界』明治39年 昭和8年(大正後期21万部)
『婦女界』明治43年 昭和18年(大正後期18万部)
『主婦之友』大正6年 昭和20年(大正後期24万部)
『日本児童協会時報』大正9年→『育児雑誌』→『母と子』 昭和19年(発行部数不明)
1-(1) 明治期における育児言説―『家庭雑誌』を中心に―
明治期にあって、育児領域に特化された雑誌は存在せず、その登場は後にみるように大正期を待た ねばならなかった。明治期にあって、育児は婦人雑誌のなかで論じられていたのである。例えば、『婦 人界』(明治35年7月創刊、金港堂)では、「育児法」(第1巻第1号)、「母親と子供」(第1巻6号)、
「育児と感化力」(第1巻11号)と題された記事が、炊事・洗濯などの「家政」についてのさまざまな 記事と並置されている。そこで以下では、明治30年代に登場した婦人雑誌『家庭雑誌』(1896〔明治 29〕年1月~1897〔明治31〕年8月、家庭雑誌社)上の言表を中心的に追っていくことにしよう。同 誌上の言表から、当時の育児をめぐる人々のまなざしの一端が垣間見られるだろう。
『家庭雑誌』と「新家庭」
『家庭雑誌』創刊の目的とはどのようなものであったのであろうか。まず、本誌創刊号の「家庭雑 誌」と題する記事をみてみよう。
吾人は嬰児が新国民の卵たるを知る…然れども健全なる人民は健全なる揺籃(家庭)に育せざるべからざる也、この新
婦人をして此の新人民を育さしめんとせば、第一着に叫破せらるべきは家庭の改革にあらずや。然らば如何にしてこれ を改革せん乎(か)、如何にして新婦人を助けん乎、如何にして新人民を育さしめん乎、抑々(そもそも)如何にして光明 あり和楽あり清福あり健康ある新家庭を作らしめん乎…(第1号、明治29年1月)
「新婦人」が次世代の国民となる「嬰児」を育てていくための「健全なる揺籃」としての「家庭」
の改革こそが急務であり、家庭改革において重要な役割を担う「新婦人」を助けることに本誌創刊の 目的があるというのである。家庭改革によってみいだされる「新家庭」とは、「光明」・「和楽」・「清福」・
「健康」といった言葉に象徴されるような、「明るく、楽しく、清らかで、健やか」な家族のあり方で あった。それは、「家庭の団欒や家族員の心的交流に高い価値を付与する新しい家族のあり方」(牟田 1996、54頁)に符合するものといえよう。
では、この「新家庭」において、「育児」を担当すべきとされていたのは誰であったのだろうか。例 えば、「子どもをもちし母の心得」(第18号、明治26年11月25日)、「母と其の子」(第46号、明治 28年1月15日)、「母親への注意」(第79号、明治29年6月10日)、「小児に対する母の注意」(第 97号、明治30年3月10日)などの記事にあるように、「育児」の主たる担当者は母親であった。
では、母親によって担われるべき育児とはどのようなものであったのだろうか。例えば、「育児小話 稚子の入浴」(第1号、明治25年9月15日)では、「真にその稚子を愛する慈母は、稚子の入浴を人 手に委ねるべからず、稚子を入浴せしむる時程、その子の健康の様に付き観察なし易き時はなし、…
児子一生の健康の基礎は、正にこの時にありと云ふべし」と記され、母親自らが育児の担当者として、
子どもに対する注意深いまなざしを向けることの必要性が説かれている。
さらに、「悲しめる母人よ、目を小供(ママ)より離ちて、己が教育法の如何を少しく考え給まへ。…
小供は母の鏡なるその中に悪しき影の顕(あら)はれたるときは、先づ顧みて己を見れば、その原因は 彼にあらずして、己にあるを見るを得ん」(家庭の教育 小児の罪か母の罪か」第49号、明治28年3 月10日)というように、子育て中に子どもに良くない兆候がみられたならばそれは、子どもの鏡であ る母親の責任であるとされる。ここには、後の「母性神話」に通じるような見解が登場している。母 親は育児上において重責を担うべき、本源的存在として位置づけられていくのである。
父母による育児
もっとも、『家庭雑誌』において表象される「新家庭」においては、ひとり母親のみが育児の担当者 として位置づけられていたわけではない。「小児の刑罰について父母の心得」(第16号「家政」、明治 26年10月25日)、「両親と小児との愛」(第67号「家政」、明治28年12月10日)、「父親の心得」(第 72号「家政」、明治29年2月25日)と題された記事があることからも推察されるように、母親のみな らず父親も育児の担い手として位置付けられていたのである。
また、そのさいの教育方法としては、民主的なそれが推奨されていた。たとえば、「現今の家庭」(第 1号「論説」、明治25年9月15日)と題された記事では、「世の所謂紳士なるものあり、政談演説に於 ては能く、自由主義を取ると雖、家庭に於ては、圧制君主となり、妻女を遇する玩具の如く…彼れ教 育会に於いては、滔々(とうとう)自由教育説を述べ、ペスタロシー(ママ)の開発的教育を談すと雖も、
家庭其児を育するを見れば、リードルの記憶悪きを怒り、叱責罵詈、強圧して、注入的否圧制的の教 訓を施こし、一言父母の命に返白する所あれば、撻つ(むちうつ)とあり、縛するとあり、門外に追い 出すとあり。」と記され、「家庭」にあって、父親は圧制的暴君であってはならず、自由教育説を基調 とした教育を行うべきである旨が説かれている。
同様に「家庭教育の事」(第1号「社説」、明治25年9月15日)と題された記事では、次のように記 されている。「家庭教育にて最も大切なるは、其父母たる者が、子供の性質を知りて、最も之れに相応 するの学問を為さしめ、業務に就かしむるにあり。…以上言ふところを約むれば、父母の欲する所に 従て教育せずして、其子供の性の応ずる所に従て、教育を施すべしと云ふと、是なり。」ここにみいだ すことができるのは、子どもの教育の担当者は父母であって、押しつけではなく、子どもの個性を重
んじた教育をすべきという主張である。明治期の「新家庭」における育児は、父母による、子ども中 心主義な色彩をもつものとして描かれていたのである。バーンスティンのいう「見えない<教育ペダゴジー> invisible pedagogy」(Bernstein,1978)に相当する、注入主義を廃した教育方法が、すでにこの時期に 推奨されていたことがわかる。
こうした教育的まなざしに満ちた父母とその子からなる「新家庭」においては、「談話」、すなわち 家庭内での家族成員間の語らいも教育的に編成される。例えば、「家庭の談話」(第6号「社説」、明治 26年2月25日)では、次のように記されている。「家庭教育に最も関係あるものは、父母兄弟親子間 の談話なりとす。…小児を悪人となすと、善人となすと、凡人となすと、総て此談話の性質如何によ りて定まるなり。」本記事では、家庭における談話が子どもに与える影響は多大であるから、卑猥な話 や悪口などを避け、その内容を道徳的・教養的なものにせよと主張されている。
国家の最小単位としての「新家庭」
では、こうした「新家庭」は、国家とどのような関係をもっていたのであろうか。「母親の心得 家 の運命と国家の運命」(第116号、明治31年5月15日)と題された記事では、「母の子を教ゆるの仕 方如何によりて、其の家が或は栄え、或は衰ふるなり。而(しか)して家が積れは、国となるが故に、
其の国も亦た自から然るなり」とあり、国家の存続・発展と「新家庭」において育児を担う母の役割 とが直接的に結び付けられて論じられる。そして、「新家庭」の育児においては、「子供に独立の気象 を養はしむる事」が必要とされた。なぜなら、「一人独立して、一家独立し、一家独立して、一国独立」
するからであり、「一人の自主自治の精神は、家に於て家を修め、国に於ては国を治む。国家独立の基 本全く此に在」るとされたからである。
折りしも、明治20年代から30年代にかけて、「帝国憲法の発布をはじめとして民法の公布、教育 勅語の発布、義務教育制度の完成、そして二度にわたる対外戦役とその勝利と、近代国家体制の確立・
整備」(牟田 1996、182頁)が進んだ。我が国においてその誌名に初めて「家庭」という言葉を冠した
『家庭雑誌』において表象される新しい家族のあり方、すなわち、「新家庭」とは、父母が育児・教育 の核となりながら、日々の会話・談話にも教育的配慮を行き渡らせ、自由教育を基本的指針とした子 どもの個性を重んじた教育を行う、という教育的に再編成された家族の姿であった。このような「新 家庭」を国家の最小単位とみなし、そこで国家に寄与する自主独立の精神を身につけた子どもを育成 するという言説の登場は、明治20年代から30年代に台頭した「資本主義的近代国家の展開に即応し たナショナリズム」(柴野 1989、250頁)を支える末端組織として家族を再編成するという、大きな社 会的文脈に密接に結びついていたといえるだろう。
このような社会的文脈において登場した『婦人世界』には、次のような言辞がみられる。「我が敬愛 する日本の婦人諸姉が、激烈なる世界の競争場にされる帝国進運に鑑みて、其家庭、裡国家、社会に 対する責任を自覚し、男子と協力して先づ家庭の改良を期図し、併せて国家社会の福利を増進するこ とに努力せられんことを望む。…故に「婦人世界」は、当来の女徳思想の偏狭に陥らず、又欧米の女 権思想の極端に流れず、諸姉が家庭を中心とする点に於ては、良妻賢母たらんことを望むと同時に、
家庭生活を基礎として、其性能に適当せる社会的活動を為さんことを望み…」(第1巻第1号、明治 39年1月号)。ここには、「家庭の改良」が「社会」、ひいては「帝国進運」に結びつく旨が主張され る。ここで「婦人」とは、1900年代初頭に進歩的役割を担った中流階級の女性であり(諸橋1993、28 頁)、この「婦人」に期待されたのは、「良妻賢母」であることと「家庭生活を基礎とした」「社会的活 動」であった。
このように、明治期の婦人雑誌にみた育児エージェントとしての女性は、育児についての確固とし た知識を身に付けた「良妻賢母」であると同時に、「家庭」を基盤としながら社会的活動を行う進歩的 役割を求められた。明治期末に創刊された『婦女界』でも、婦人の子どもへの愛情の薄さが、「無学」
であることと「社会に接して円満な知識を養わぬ」ことに起因するとされ、「将来社会的教育が盛んに なれば理想的に母の愛情が円満なる発達を遂げる」ことができると主張する記事(第1巻第1号 明治