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実証的検討①

ドキュメント内 kyoiku gensetsu to shutaika : hakushi gakui seikyu ronbun (ページ 79-83)

第3章 バーンスティン理論の展開と知識社会学・主体化論の収斂

第Ⅱ部 実証的検討①

主体化装置としての育児雑誌メディア

―垂直的育児言説から水平的育児言説へ―

序論 問題としての育児エージェントの<教育

ペダゴジー

>をめぐる言説

第Ⅱ部の目的は、育児の領域において、育児エージェントの編成をめぐってどのような<教育ペダゴジー>が なされてきたのか、また、それによって編成される「主体」が意味するものとは何かについて考察す ることにある。

人間以外の動物がそれを遺伝子レベルで植えつけられた本能によって、当然のようになすことから も分かるように、育児という営みは生物が種を保存し、再生産していくさいの根本的な営為である。

人間もまた歴史上、育児という営みを自明化し、ローカル=局域的な日常生活世界での根本的な営み としての育児を連綿と続けてきた。人間社会が今日まで存続しえたのも、言うまでもなく、育児とい う文化伝達の営みが絶えず行われてきたからである。

人間/ヒトの育児が動物のそれと異なるのは、それが単なる種の保存・再生産という意味を超えて、

価値や規範といった「文化」を伝達する営みであるという点である。人間にとって育児という営みの 根幹をなすのは、「何をwhat」「どのようにhow」次世代を担う子どもたちに伝達していくかという 文化伝達の営みである。

育児エージェントは諸々の育児行為―しつけ行為のように半ば無意識的で事後育児エージェン トによって反省される育児行為も含まれる―を通じて、絶えず文化を伝達し続けているが、そこで 育児エージェントが直面するのは、どのように育児行為をなすか、つまり、「授乳・離乳・排泄訓練に 始まって、しつけ方一般にまで及ぶ状況適応的、問題解決的方略」(柴野 2004、212頁)がどのように なされるべきなのかという問題である。

これを第一の問題系とするならば、第二の問題系は、育児エージェントとしての母親・父親の位置 づけpositioning・主体化subjection の有り様である。育児エージェントとしての親たちがどのよう に主体化されるかということは、被育児・社会化主体としての子どものあり方にも大きな影響を及ぼ す。そうであるがゆえに、育児エージェントが「何を」「どのように」伝えるべきかという価値・規範 をめぐって、これまでも絶えず数多くの議論がなされてきた。育児の領域は歴史的に常に語られる場 であり続けてきたし(第Ⅱ部第1章) 、今日もまた育児のあり方をめぐって、あるいは父親・母親の位 置づけ・配置positioningをめぐって、言説が日々生産され続けている(第Ⅱ部第2章・第3章)。

育児エージェントは「正当な育児エージェントたりえているか否か」、言い換えれば、「子どもにと って良い母親たりえているか」「自分は良い父親であるか」を自らに問い質すことを通じて、自らをあ るべき「正当な主体」に同化させるという主体化の過程におかれている。この「正当な主体」とは、、 今ここに在る自分とは離れたところにある「そうありたい自分の姿」を投射したイメージのことを指 す。「諸個人に呼びかけるあらゆるイデオロギーの構造は反射的spéculaire[鏡像的]」であり(Althusser 訳書 1995=2005、274 頁)、「望ましい正当な育児エージェント」というイメージ(=想像上の関係の 表象)に自分自身を照らし合わせ、自己を再認するという「鏡像的関係」のなかで、父親・母親たちは 育児エージェントという主体として編成されていくのである。

「想像上の関係の表象」から「想像上の主体」へ

育児という営みは、即効性のあるものではない。また、ある時点における子どもに対する働きかけ

が、実際に効果を及ぼしているのかを測定することはほとんど困難であるし、どのような働きかけが 実際に効果を及ぼしたのかを特定することも困難である。例えば、しつけを企図したAという働きか けの効果であるようにみえる子どもの変化が、実はBという働きかけの結果である場合が想定される だろう。子どもの変化(アウトプット)はAというインプットの効果なのだと「誤認」することによっ て、あるいはその効果の厳密性をあえて問わない―実際にインプットの効果を問うことは、被験者 に対する諸々の影響をコントロールした状態において、ある働きかけの効果を測定するような実験を 行なわない限り不可能である―ことによって、育児/教育という営みは成り立っているのである。

こうした誤認を常に伴う育児という営みは、育児エージェントに絶えず不安を抱かせる構造を根本 的に内在させている。この誤認を基盤とした育児という営みは―アルチュセールのイデオロギー論 からインスパイアされたバーンスティンの言葉をかりれば―「想像上の主体imaginary subject」

(Bernstein, 1996/2000)を、諸個人の内面に呼び起こすポテンシャルを持っている。ある言説が「再 文脈化を経て、もともとの場original siteから、<教育>的場pedagogicへと言説が移動するとき」、 その言説は、もともとの「社会的基盤、位置、権力諸関係から切り離されるabstracted」(Bernstein, 2000, p.38)。このとき生じるのが「想像上の主体」であり、<教育>言説ペダゴジック・ディスコース

はつねに何らかの「想像上 の主体」を埋め込んでいる。「想像上の主体」を生み出すことが<教育>言説

ペダゴジック・ディスコース

の存在条件なのである。

「想像上の主体」とは、「もともとの場からの切り離し」を通じて生じる、言説によって表象された あるべき正当な主体イメージのことをいう。自らが正当な育児エージェントたりえているのか、正当 な育児をなしえているのかは、この「想像上の主体」を自らの鏡とすることで確認することができる。

「想像上の主体」と諸個人とは、つねに鏡像的関係にあり、比喩的にいえば、この鏡の中の「想像上 の主体」に諸個人が同一化することによって、初めて諸個人は初めて特定の「主体」となりうるので ある。この意味において、「主体」はつねに脱-中心化されているが、言説によって構築された「想像 上の主体」があって、そしてそれに自らを照らし合わせることで、初めて自らが何者であるのかを認 識すること、つまり、「誤認を通じた主体の再-中心化」が可能となる。

今ここにある自分自身と「想像上の主体」と間のギャップ―あるいは、我々により馴染みのある 言葉でいえば、「存在sein」と「当為solllen」との間の距離―は、育児をめぐる困難のひとつの位 相をなしている。「私ってママ失格?」や「うちのパパはダメパパ」といったテーマが、育児雑誌読者 の関心の的となってきたこと自体、「良き母親」「良き父親」との同一化/非同一化という問題から目 をそらすことができない育児エージェント、母親・父親が数多く存在していることの証左である。

育児をめぐる困難とは、言い換えれば、育児エージェントとしての主体化の困難でもある。しかし ながら、これまで育児エージェントの「主体化」という視点から、育児をめぐる問題にメスは入れら れてこなかった。そこで、本第Ⅱ部では、育児に関する処方的知識を埋め込んだ言説よりもむしろ、

育児エージェント自身のあり方を規定していく、母親・父親の「主体化」をめぐる言説に焦点を当て、

それら言説のあり方が社会の変化とどのように関わっているのかについて考察を試みる。

育児言説とは何か

以上の議論から、育児言説が育児エージェントの「主体化」にとって、不可分な位置を占めている ことが理解された。つまり、育児言説の分析は、どのような「想像上の主体」がそこに埋め込まれて いるのか、つまり、育児エージェントがどのような「主体」として編成されようとしているのかを探 究する作業となるのである。

ところで、育児言説とは一体何だろうか。ここでは、第Ⅰ部で展開した議論をふまえ、<

教 育 > 言 説

ペダゴジック・ディスコース

論の観点から育児言説を再定義しておこう。

端的にいって、育児言説とは、「育児について書かれたこと/話されたこと」ということになる。し かし、単に「書かれたこと/話された」ことという程度の意味をこの「言説」という言葉に持たせる のであれば、何も「言説」などと大袈裟な言葉を使う必要はない。すでにみたように、「書き/話す」

ということの権力性に注目し、「言説」という言葉をあえて用いることの意義をみいだしたのは、フー

コー(Foucault,Michel)であった(第Ⅰ部第2章)。彼は、ある事柄を語ることを禁止し、特定の言説の 配分を可能にするような言説をめぐる統制のシステムが存在することを指摘した(Foucault 訳書 1971=1981)。つまり、我々は自由に語っているようにみえるが、実はそうではない。我々が書くこ と語ることを許されているのは、特定の言説空間内にうち立てられた限界内においてなのだ、と。つ まり、我々がある限界内において書き語っているということ、そのこと自体がすでに権力に従属して いることに他ならないのである。すでにみたように、何らかの言説を獲得することは、「権力-知 pouvoir-savoir」に従属し、「主体」として編成されること同義である(第Ⅰ部第2章)。それにしても、

その権力とはどこからやってくるのだろうか。フーコーによれば、権力は上からやってくる何かでは ない。そうではなくて、「権力」は諸個人の戦略的状況のなかに常に埋め込まれているという。フーコ ーの権力論は、もっぱらミクロな相互作用的・対面的状況の理解に寄与するものであるが(山田 2000)、

マクロな権力関係とミクロなそれを切り離して論じることはできない。

バーンスティンはフーコーの権力観とは異なった角度から、「権力」とは何かという問いに明示的な 解答を与え、マクロレベルとミクロレベルの接合を視野に入れた、言説と権力の社会理論を展開して いる(第Ⅰ部第3章)。バーンスティンの言説論においては、「権力」は社会集団間の差異に由来する。

つまり、異なった社会集団がぶつかり合い、ある社会集団が自らのポジションの正統性を貫徹しよう とするとき、「権力」が生起するのであるが、このとき、「言説」は「権力」に読み替えられる (Bernstein,1990)。権力は、正統な言説のカテゴリーを設定し、それを受容する人々の間での意識配 分のあり方を規定する。このように、社会において「何が what」語られるべきかを規定し、限界づ ける原理のことを、バーンスティンは「配分の諸規則distributive rules」と呼んだ。

さらにバーンスティンは、権力によって境界づけられた正統な言説が配分されるさいに、それがど の よ う に な さ れ る か を 問 題 に す る 。 こ の 過 程 を 概 念 化 し た も の が 「 再 文 脈 化 の 諸 規 則 recontextualizing rules」である。正当に語られるべきことが決定されたとしても、それが伝わらな ければ意味がない。日常生活において、我々は自分の意志を的確に相手に伝達し、認めさせ、的確な 言葉を組み合わせたり、必要のない言葉を捨てたりしながら、説得的な語りになるように努めている はずだ。バーンスティンのいう「再文脈化の諸規則」を、説得的に語り、自らの意志を貫徹する過程 を、社会集団間のレベルに移し変えたものと考えると、その概念的抽象性を幾分回避できるだろう。

すなわち、社会集団は自らの意志を貫徹させるため、ある言説を組み合わせたり、捨てたり、もう一 度元の位置に戻したりしながら、最も説得的な言説になるように、言説を編成していく。そのような 過程を経て編成された言説を、バーンスティンは<教育>言説

ペダゴジック・ディスコース

と呼ぶのであるが、この言説が「どの ようにhow」語られるか、言い換えれば、どのような文脈で語られるかを規定する規則が「再文脈化 の諸規則」である。絶えざる再文脈化を経て編成される<教育>言説

ペダゴジック・ディスコース

は、自らの固定化された位置に とどまることはない。「教育言説」とは、それ自体の絶対的な中心を持たない。それは絶えず自らの中 心をずらし、移動し続ける言説なのである。

「配分の諸規則」と「再文脈化の諸規則」を通じて編成された言説は、ミクロレベルの実践の文脈 における「時間(年齢)」・「空間(伝達)」・「内容(テクスト)」を特化された関係の中に導き入れる規制的 原理としての「評価の諸規則」へと変換され(Bernstein , 2000, p.115)、人々の相互作用において「何 を」「どのように」伝達するのかについての基準を創り出す。さきにみた「想像上の主体」とは、いわ ば、この基準そのものであり、基準が実現・具現化realizationされない状態にある「そうあるべき、

望ましい主体イメージ」である。基準が実現されるということは同時に、「想像上の主体」が諸個人に 内面化されることを意味し、そのとき「主体」が初めて誕生する、ということになる。例えば、ある 時代の社会構造・階級諸関係は、「母性的で献身的な母親」を善きものとして、すなわち「想像上の主 体」として称揚し、正当化する<教育>言説ペダゴジック・ディスコース

を生産するかもしれない。ある母親が、自らを母性的か つ献身的な育児をしていると自己認知し、この「想像上の主体」に同一化(=<教育>言説ペダゴジック・ディスコース

の獲得)で きたと感じたとき、そこに母性的で献身的な母親という、特定の「主体」が生み出されることになる。

バーンスティンはこれらの「配分の諸規則」・「再文脈化の諸規則」・「評価の諸規則」という三つの

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