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バーンスティン理論への収斂Ⅱ:主体化論の系譜

ドキュメント内 kyoiku gensetsu to shutaika : hakushi gakui seikyu ronbun (ページ 34-51)

本章では、アルチュセール(Althusser, Louis)によるイデオロギー論およびフーコー(Foucalut, Michel)による言表/言説・権力=知についての議論を整理し、それらがバーンスティンによるコード 理論・<教育>言説

ペダゴジック・ディスコース

論へとどのように接合されうるのかという問題について考察する。本章でアルチ ュセールおよびフーコー両者の理論をとりあげるのは、この両者がその理論展開において、言語・イ デオロギー、そして言説に着目し、主体化論・言説分析論にとって有用な視点を提供しているだけで はなく、バーンスティン理論の展開過程においても影響を及ぼしているからである。

以下では、アルチュセールによって展開された主体の構築をめぐる議論を「イデオロギー的主体化 論」として、また、フーコーによって展開されたそれを「言説的主体化論」として位置づけ、これら 諸論者によって提示された分析枠組みが、どのようにバーンスティン理論のなかに再配置されうるの かについてみていくことにしよう。

2-(1) イデオロギー的主体化論の展開―L・アルチュセール―

始まりはアルチュセールである。では、なぜアルチュセールなのか。彼をここで取り上げるには、

確固とした理由がある。それは、アルチュセールが展開した議論が、フーコー、バーンスティンらの 理論に共通して―それが直接的あるいは間接的なかたちであれ―影響を及ぼしているからであ る(1)。それどころか、アルチュセールなくしては、フーコーも、そしてバーンスティンもなかったと さえいいうる。

例えば、バトラーは、「アルチュセールによる呼びかけの教義は、明らかに「主体の言説的生産」に ついてのフーコーの後期の視点later viewsのための舞台をセットしている」(Butler, 1997, p.5)と述べ、

フーコーへのアルチュセールの影響を認めている。また、バーンスティンも以下のように述べ、自ら の理論展開過程においてアルチュセールの影響を受けたことを明言している。

私は (その批判にもかかわらず)アルチュセールのイデオロギー論につねに魅了attractedされ続けてきた。このことが、

類別、ヴォイス、そして主体の構築との関係の基盤を作り上げたのである。(Bernstein, 1990, p.4)

(提示した問題に共鳴しているという意味で)私が最も同質であると感じたイデオロギーの理論は、アルチュセールのそ れ、すなわち想像的主体という理論であるということは、指摘しておく価値があるだろう。(Bernstein, 2000, p.125)

以下では、アルチュセール理論とバーンスティン理論の親近性を視野に入れながら、アルチュセー ルによって展開された、イデオロギー的主体化論について検討していくことにしよう。

マルクスの構造主義的読解

デカルト(Descartes,R. 1596-1650)による人口に膾炙した言辞、「我思う、ゆえに、我あり」は、

近代哲学という、世界の中心に人間を位置付ける思想的潮流の特徴を如実に示している。このような

「自由で選択可能な透明な意識をもった「人間」を価値の根源に」(柳内 2001、7頁)おく、いわゆる 人間主義的=近代哲学的主体概念は、西欧近代の思想的潮流のなかで何ら疑問符を付されることなく 受け入れられてきた。

ところが、1950年代以降、世界を創り出す根源的存在としての近代哲学的主体は、ソシュール(de Saussure,F.)による「構造的言語学structural linguistic」をその源流とする「構造主義structuralism」

の台頭によって問い直されることとなる。こうした思想的潮流において、マルクスによって提示され た社会理論・経済理論を構造主義的視点から読み直し、その可能性を新たに探り出したのがアルチュ セールである。

アルチュセールの理論的関心は多岐に渡るものであるが、以下では、本論での主題との関連におい て、「主体化」、すなわち、「歴史の動因の「支持者」―社会構成体の構造的特徴―を意識や欲求 をもった主体へと変換することによって、「個人」を「社会」へと統合する」(Giddens訳書 1979=1989、

173頁)過程としての、イデオロギーを通じた「主体化」をめぐる議論を中心的に取り上げたい。

アルチュセールは、論文「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」を著し、人間主義的な主体概 念に異議を唱え、イデオロギーを通じて構築される、脱-中心化された主体概念を提起することによっ て、資本主義的社会体制が巧みに主体を生産することによって自らを維持・再生産していくというメ カニズムを明るみに出した。

アルチュセールが同論文を公にしたとき、その主たる焦点は「生産諸条件の再生産はどのようにし て可能になるのか」という問題を追究すること、つまり、社会構成体が安定的に維持し続けるそのメ カニズムを図式的に把握することに置かれていた(Althusser訳書、1970=1993)。

マルクスがその巧みなメタファーによって定式化したように、社会構成体は、「建物」に譬えられる

「政治・法律・文化体系」=上部構造super-structureと、それを支える土台に譬えられる「経済・

生産諸関係」=下部構造sub‐structureなくしてはなりたたない。

「下部構造」は「生産諸条件の再生産」がなされることによって初めて「土台」たりうる。しかし、

アルチュセールによれば、マルクスは生産諸条件の再生産がどのようにして可能になるのかについて は、何も語っていないという。すなわち、「社会的分裂が工場や社会の外側からどういうふうに押しつ けられるとか、労働者がどういうふうに搾取を「受け入れ」て、その搾取がどう保証されるか(逆にい えば、そうされないか)などの疑問」(Macdonell訳書 1986=1990、41頁)をマルクスは問いそこねて いたというのである。このマルクスによって十分に語られなかった、いわば「空白」を埋める作業、

それがアルチュセールの理論的営為のひとつの位相をなしている。

では、生産諸条件の再生産は、どのようにして可能になるのか。社会が存続するためには、下部構 造が維持され続けなければならない。下部構造を維持させるために必要なことのひとつは、「生産手段」

を供給することである。この点に関しては、マルクスはすでに言及しているが、もうひとつの重要な 側面、すなわち、労働力の供給についての言及は必ずしも十分ではない。アルチュセールによれば、

労働者の供給=労働する主体の形成という位相は、下部構造の維持にとって不可欠なファクターであ るにもかかわらず、これまで「奇妙にも低く評価」され、また「われわれの日常的《意識》と一体と なり」自明化されてきたがゆえに「再生産の観点にまで高め」られてこなかったというのである (Althusser訳書 1970=1993、10頁)。

「国家の抑圧装置」と「イデオロギーの国家装置」

社会構成体が維持されるためには、下部構造に「労働者」が常に供給される必要がある。そこで、

アルチュセールは、A・グラムシの「ヘゲモニー論」をふまえつつ、「イデオロギー」と「国家諸装置」

が「労働者の供給=労働する主体の形成」に寄与していると考えた。このことを詳細に論じたのが、

「イデオロギーとイデオロギーの国家装置論」(2)である(Althusser訳書、1970=1993/1995=2005)。

国家装置は、その機能とそれが属する領域の観点から「国家の抑圧装置」と「国家のイデオロギー 装置」とに分類される。「国家の抑圧装置」について、アルチュセールは次のように述べる。

抑圧的ということが示していることは、問題となっている国家装置が少なくともその限界においては(というのは、例え ば行政的抑圧は非物理的な形態をとりうる)《暴力によって機能する》ことである。(Althusser訳書 1970=1993、35頁)

可視的な「物理的暴力」を行使し、直接的に(あるいは最終的に)諸個人の身体に働きかけることに よって、諸個人を「労働する主体」あるいは「従順な市民」へと形成していくのが「国家の抑圧装置」

である。具体的には、政府・行政機関・軍隊・警察・裁判所・刑務所などの諸組織が「抑圧装置」に 該当する(Althusser訳書 1995=2005、121頁)。

しかしながら、社会構成体あるいは市民社会の秩序は、ひとえに国家が作動させる物理的・抑圧的 な力(暴力)によってのみ維持されているわけではない。アルチュセールは、諸主体(諸個人)の同意に基 づく「自発的な服従」によって市民社会の秩序が維持されていくことに着目する。こうした観点から 提起されたのが、国家のイデオロギー装置(Appareils Idologiques d’Etat:以下AIE)という、社会秩 序維持装置であると同時に下部構造の再生産装置の概念であった。

では、「国家の抑圧装置」と「国家のイデオロギー装置」の両者にはどのような違いがあるのか。

またそれはどのように区別されるのだろうか。

国家のイデオロギー装置と国家の抑圧装置を区別するものは、次のような違いである。つまり、国家の抑圧装置は《暴 力によって機能し》、これに対して国家のイデオロギー装置は《イデオロギー》によって機能している、ということであ る。(前掲同訳書、38)

「イデオロギーの国家装置」の具体的例としてアルチュセールは、①宗教的AIE(様々な教会制度)、

②学校のAIE(様々な公立、私立の《学校》制度)、③家族的AIE、④法的AIE、⑤政治的AIE(政治制度・

その中での様々な政党)、⑥情報のAIE(新聞・ラジオ・テレビなど)、⑦出版-放送のAIE、⑧文化的 AIE(文学・美術・スポーツ等)をあげる(Althusser訳書 1995=2005、122頁)。なお、本論第Ⅱ部・第

Ⅲ部の分析対象である新聞・雑誌メディアは、上記⑥・⑦のAIEに相当する。さきにみた「国家の抑 圧装置」が「物理的暴力」によって機能するのに対し、「イデオロギーの国家装置」は、「イデオロギ ー」によって機能する。この点に両装置の決定的な差異がある。

国家装置と領域

さらに、AIEと抑圧装置には、その属する領域という点で違いがある。アルチュセールは次のように 述べる。

統一された国家(の抑圧)装置は全体的に公的な領域に属しているのに対して、国家のイデオロギー装置(それらは明確に 分散して存在している)の大部分は私的な領域に属していることは確認できる。教会、政党、組合、家族、いくつかの学 校、大部分の新聞、文化事業などは私的なものである。(Althusser訳書 1970=1993、37頁)

AIEと抑圧装置は、社会構成体維持・再生産のための装置であり、それらはその機能と領域の観点 から区別される(表2-(1)-1を参照)。これら諸装置は、日常的に相互補完的に機能することによって、

諸個人を「労働する身体」・「従順な市民」へと編成していく。この意味において、国家装置とは「主 体化の装置」に他ならない。

2-(1)-1「国家の抑圧装置」と「イデオロギーの国家装置」の比較

装置の類型 領域 機能 諸機関・装置

抑圧装置 公的領域 物理的暴力 政府・行政機関・軍隊・警察・裁判所 イデオロギー装置 私的領域 イデオロギー

様々な教会制度・様々な公立、私立の《学校》制度・家族・

法的システム・政治制度(その中での様々な政党)・新聞、

ラジオ、テレビなどのメディア・文学、美術、スポーツ等

もっとも、アルチュセールが指摘しているように、「抑圧装置」と「イデオロギー装置」の区別はあ くまでも理念的なものである。たとえば、警察という装置は常に物理的暴力を行使しているわけでは なく、その活動の大半はむしろ諸個人の自発的服従―警察による飲酒検問に対して、我々はどのよ うに振舞うか想起しよう―を前提としている。つまり、警察はイデオロギーによって機能している

ドキュメント内 kyoiku gensetsu to shutaika : hakushi gakui seikyu ronbun (ページ 34-51)