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米国におけるアジア系の歴史概観

第三章 <帝国>の首都における東アジアと東アジア系を取り巻くダイナミクス

6 米国におけるアジア系の歴史概観

本研究において欠かすことができない米国におけるアジア系の歴史を駆け足でも確認す る必要がある.

19世紀後半から60-70年代の公民権運動手前まで:

ここで少し時間を遡って米国のアジア系の歩んだ苦難と闘争を概観し,米国のアジア人 口若年層をとらえている今日のK-Wave Crazeが意味するところを考察する.

19 世紀半ばからまとまった人数のアジア人が米国へ移り住むようになり,その後の紆余 曲折を経て,分水嶺となったのは1965年の移民法改正(ハート・セラー移民法)で,人種 による制限を取り払われ,さらに1979年帰化法により中国からの受け入れ数が拡大したこ とでマスイミグレーションに至った.政治経済的要因に回収するプッシュ&プル図式で説 明されることが通例である人の移動だが,特にこの頃の東アジアから米国への流れもおお まかにはそうした説明が有効であった.それ以降も指数的に数を増やし現在は全米の6%で ある(U.S. Census Bureau 2015)(※アジア系に含まれるのは主にインド系,中国系,フ

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ィリピン系,韓国系,日本系,ベトナム系,その他系で,申告は自己申告のアイデンティテ ィに拠る.一世に限定されず米国生まれも含まれる.)ハート・セラー移民法の成立した経 緯からして,もちろん当時の冷戦構造を受けての戦略であった面も強いのだが,公民権運動 がもたらした成果でもある.公民権運動は主に黒人系米国人によるアイデンティティの政 治であるが,これにはアジア系米国人も大いに関係があった.

もともとハート・セラー移民法以前までの米国におけるアジア人の扱われ方は押しなべ て酷いものであった.最大人数の中国系には人種差別法と言われる(園田 2006)排華法が 1882年に成立し,入国がほとんど不可能になったし,家族呼び寄せ枠もなかった.また中 国系には帰化が認められなかった(園田 2006,Lai 2004: 20).

韓国系移民もやはり70年代から急増し,1970年の国勢調査では7万人強であったのが,

その後も増加し続け,2014年のAmerican Community Survey(U.S. Census Bureau 2015)

によると 1,453,807 人(全米で)である.彼らの移民としての生活も困難であったようだ

(Lee, E. 2015, 299-300).

日系の場合,先の大戦時では私有財産の没収と収容キャンプへの強制収容という,ルーツ や親族が敵性国(人)であるということで市民権を保持しているなどは関係なく人権を踏み にじられるという経験があり,このアジア系の中でも特異な迫害は,戦後の日系アメリカ人 らの米国への同化路線を決定づけた.強制収容所から解放され,カリフォルニアに戻った日 系人らはその地の反日感情が未だ強いことを思い知らされることになった.

終戦直後から黒人系と日系の共闘は見受けられた.Erika Lee(2015)によると,例えば ロサンジェルス,クレンショー地区は当時白人のみ在住が認められる決まりであったが,こ のルール撤廃に動いた黒人と日系人の人種間同盟がのちの人種をまたいだ運動の基礎をつ くった.

Asian Pride Movement:

その後,1960年代後半には,公民権運動の黒人系米国人をロールモデルにし,主に中国 系が立ち上がった.黒人系の急進派,Black Panther Party(BPP)をモデルにした Red

Guard Party(のちのI Wor Kuen)を1967年に組織した.まさにBPPのアジア版という

体で,自決主義,闘争的,反白人帝国主義を掲げ,白人層から搾取にあっているという立場 をとり,毛沢東思想にも傾斜していた点で共通していた(Maeda 2005, 2009; Lee, E. 2015:

305).Red Guard Partyに限らず,先行していた黒人系の公民権運動参加者と交流を持っ たアジア系米国人(Yuri Koichiyama氏など)がアジア系の公民権運動につなげていく流れ であったため,当然,マルコムXなどとも交流もあった(Lee, E. 2015: 301)とはいえ,い くつか組織を作っていたアジア系アメリカ人運動は全般的に比較的に穏健であったようだ.

UCバークレー校の立てこもりは,事態が落ち着いてすぐにEthnic Studies学科が新設さ れるという成果を得た.

Asian American運動はまた,ベトナム反戦運動にも加わっており,アジアの同胞を爆撃

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するなというメッセージを掲げ,トランスパシフィックな連帯を志向した(Lee, E. 2015). 黒人系やベトナム反戦運動,社会主義との連携など,サバルタンな存在を共有しうる他の 流れと合流したのが特徴の一つと言ってもよいだろう.Erica Lee(2015: 305)によるとそ れまでは相互にたいした関わりもなかったアジア系諸エスニック・グループ間に連帯を呼 びかけたのがこの運動であり,ここに Asian American という意識が立ち現れた.Asian

American という汎アジアのカテゴリ名が,この運動の中で使用され始めたとされている.

黒人と自らが似通った立場に置かれているという自覚は,少なくないアジア系が黒人系 米国人を様々な点でモデルにする傾向から頻繁に見られる.例えば,Daryl J. Maeda(2005)

はRed Guard Partyと並んで当時の重要なアジア系アメリカ人運動の人物として,劇作家

(脚本家)で批評家のアジア系アメリカ人Frank Chinを挙げている.彼がつくる劇中の主 要登場人物はアジア系アメリカ人だが,黒人系の公民権運動に共鳴していて,服装や話し方 が黒人系を彷彿させる特徴を備えており,さらに子供時代の憧れのヒーローはアフリカ系 アメリカ人ボクサーのOvaltine Jack Dancerであるという設定だ.この設定は偶然ではな い.ヒップホップ音楽やそれを連想させる話し方や服装はアジア系米国人の間で比較的流 通していることが知られている(Wong 2010; Kim 2007; Zhou & Bankston 2016).現代に おいてさえも,2015年春からアメリカの主要チャンネルで放送されているアジア系アメリ カ人家庭を描いたTVドラマ「Fresh Off the Boat」はアジア系アメリカ人たちから熱い視 線を注がれているのだが,ドラマ中でもそのような描写が多く,また原作者である Eddie

Huangは1982年にワシントンDCで生まれた台湾系米国人であるが,少年時代はアフリ

カ系アメリカ人と自らを「ダブ」らせることが多く,ヒップホップ音楽を好み,それに合わ せた服装を着ていた.一般的にアジア系アメリカ人はステレオタイプのアフリカ系同様,青 少年時代にバスケットボールに精を出すことが多い.後年,その努力は体格的にあまり報わ れない結果になることがほとんどだが,現在現役のNBA(National Basketball Association 主催の北米における男子バスケットボールのプロ・リーグ)のスタープレイヤーである台湾

系2世のJeremy Linは中国系(および台湾系)米国人にとっての誇りである.

本研究のねらいから,この第三章ではLAでの韓国系がその中心になり,大枠の画一性に 変化がみられたかを検討するのだが,結論を先取りして少し述べると,そこで見出せた変化 は韓国系全般と,非アジア系アメリカ人とのあいだの関係性ではなく,アメリカ生まれの韓 国系アメリカ人と,韓国出身でLAに移動してきた韓国人たちのあいだの関係性の変化であ った.一部で,アジア系アメリカ人にたいしては韓国系の地位は向上している様子であった.

第三章で浮き彫りにされた変化が韓国系のアメリカ生まれと,韓国生まれの移民たちのあ いだの関係性についてであり,また主だった調査対象者が新 2 世だったため,かれらがま だ生まれていないか,せいぜい幼稚園生であった1992年におこったLAの韓国コミュニテ ィにふりかかった災禍は,それほど関係が深い出来事だったとはいえない.しかし,本研究

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全体の主旨にそって LA における韓国系全体と非アジア系アメリカ人とのあいだの関係性 についてふれるならば,背景として言及しておくべき出来事であった.

LA蜂起について本研究との関連で言及しておくべきことは次の3点である.1,アメリ カでの白人―黒人間の対立が原因であったが,メディアによる偏向報道によって韓黒軋轢に 塗りかえられた.2,しかし韓国系の黒人にたいする態度が以前から良いとはいえなかった ことも,メディアが利用しやすい土壌にはなっていた.3,LA 蜂起後,LAの韓国コミュ ニティはエスニシティ間の緊張緩和のための行動にでた.

まず,メディアの偏向報道であるが,1992年4月29日午後3時15分,故ロドニー・キ ング氏が被害者,殴打した白人警官 4 名が容疑者の裁判の無罪評決がくだされた直後,蜂 起は発生した.

ここで関わってくるもう一つの事件がラターシャ・ハーリンズの事件(あるいはトゥ・ス ンジャ事件)である.故ロドニー・キング氏が警官らに殴打された事件が発生した1991年 3月3日の二週間後,3月16日に,当時15歳であった黒人系アメリカ人の少女,故ラター シャ・ハーリンズ氏がサウスセントラルにある韓国系リカーストアに入店し,オレンジジュ ース 1 本を万引きしようとしていると韓国系の店主に思われて揉みあった末,立ち去ろう とするハーリンズ氏を背後から店主が頭部をショットガンで撃ちぬいて即死した事件であ る.この件の公判は1991年11月15日に開かれ,正当防衛は認められなかったにもかかわ らず,執行猶予5年と400時間のコミュニティサービスという比較的軽度な判決であった.

この時は暴動はおこらなかった.

高賛侑(1993)によると,店内の防犯カメラがとらえた射殺にいたる衝撃的な映像は,ロ ドニー・キング氏の白人警察による一方的な集団殴打事件とあたかも結びついているかの ようなかたちで,繰り返しテレビで放送されたことが,「既存の『韓・黒葛藤』を現実以上 に強調し,黒人の感情をたきつけた」(高 1993: 35).

杉渕忠基(2006)も同様の指摘をしているが,このようなメディアによる白人と黒人間 の緊張関係を,韓国と黒人間の対立に描きかえる行為は,1992年の暴動当日にも明瞭であ った.暴動初日の4月29日夜,一部の黒人グループはサウスセントラルから北上し,裕福 な白人地域であるビバリーヒルズを目指して移動していた.地理的にその中間にあったの がコリアタウンである.ちなみにビバリーヒルズ,ハリウッドが山側のふもとにあり,その 南隣がコリアタウンで,コリアタウンの南端はサウスセントラルの中でもヒスパニック系 の集住地区の北端と接している.そこからさらにサウスセントラルを南下すると黒人系住 民が集住しているというならびになっているが,このコリアタウンのロケーションも,LA の支配層が白人系と黒人系の対立の緩衝材として意図されたものであるという一説(高 1993)すらある.暴動目的のグループはコリアタウン入り口で韓人青年団と対峙するが,

韓国系も差別を受けている側で黒人グループと同じ境遇であるから,襲撃の対象にするの はおかしいという韓人青年団団長の説得を受け入れ,暴動グループはコリアタウンを迂回 することに合意して立ち去っている(高 1993: 40).しかし,さらに高(1993)によると,